第八章 Bye-Bye Thank you




 * 唯 *
 春。
 が来るのは、まだ早い一月の新学期だ。僕は学校というところに戻ってきた。
 内心不安だった。教室というところに行くと、また自分を失ってしまうのではないかと思うと怖かった。
 それでも僕は僕だった。今の僕は僕だ。ちゃんと僕でいる。だから怖さを乗り切れたのかもしれない。当たり前の存在が、僕の盾となってくれていたのだ。
 ガラガラ。
 教室のスライド式のドアを開ける。
「おはよう。」
 そう言い放った。みんなの反応は―――。やはり冷たいものもあった。それでも一部の人は僕を歓迎してくれた。
「よぉ、大崎ぃ!久しぶりじゃないか!どうしたんだよ。心配したんだぞ。」
 久谷の明るい声が僕の耳に響いた。他にも何人か僕を心配してくれる人がいた。
「あはは、ごめんな。ちょっとね。」
 誰しもが味方じゃない。でも、誰しもが敵ではない。
 こうして僕は世界に復帰した。存在というものを改めて感じた。いつかは消えてしまうのだから、今生きていること自体、無駄だ。と思っていた考えを捨てた。今しかないんだから、今を精一杯生きよう。その隙にも今は過ぎ去ってゆく。
 だから存在を否定しちゃ行けないんだ。人の存在も、僕の存在も。それらは必死に悩んで、選んだそれぞれの道を歩む旅人なのだ。決して蔑んだりしてはいけないんだ。
 そしてその中で一人でも二人でも、必ず味方が現れる。同じ旅路を進む人もいる。その存在を見つける。それが命だ。存在の続く意味だ。

  * 唯 *
「え、マジかよ?大崎。お前、進学しないの?だってお前、すげぇ休んでるけど成績そんなに悪くないじゃん。高校はいきなよ。」
「いやいや、高校は行くけどね。でもこの学校は行かない。」
 僕は私立の進学を捨てた。和葉と晃の受ける学校に行きたい。あの二人と一緒に居たい。そう思ったから、ぼくはこの学校の進学を諦めた。
「あぁ、そうなんだ―――。―――わかった、頑張れよ。」
 僕を肯定してくれる。送り出してくれる。そんな仲間がいることが分かった。なんでこんな近くにいる味方を、僕は否定していたのだろう。
 今になると前の自分がバカみたいに思えてくる。でもそれは否定しちゃいけない自分。いくら酷くても、感情を持っていた。だから僕は僕を殺していた。この自分は、これからもずっと僕に付きまとってくる。でも僕はそれでも僕でいなきゃいけない。
 今の僕は、それが出来そうな気がした。
「うん、頑張る。」
 この道が決して正しい道とは行かない。普通に見れば勿体ない。就職とかそういう視点で見れば明らかにバカなことをしている。都立から大学に受かるのだって大変なのに、僕はわざわざそっちに行こうとしている。
「頑張る。」
 それでも僕の決心は固い。自分でもびっくりするほど、僕の心は強かったのかと思う。周囲の視線に反抗したわけじゃない。ただ仲間といたい。自分ひとりでは弱いことは知っている。だから強くならなくちゃならない。仲間がいるだけでも全然違う。晃や和葉がいる。それだけで僕は強くなれるのなら、久谷には申し訳ないけど、僕はこっちの道を選ぶ。僕の世界で一番大切な存在はここにないから。久谷も大切な存在の一つ。3年間、一緒に同じ道を歩いてきた同士だ。
「俺のこと忘れるなよ。」
「忘れないよ。僕のことも覚えとけよ。」
 忘れない。この学校にいたことも僕の3年という尊き存在だ。
今日は終業式だけだ。久谷たちは待ってくれていたが、先に帰ってもらった。久谷には言ったものの、他の人たちに知られるのはまだ少し嫌な感じがする。だから誰もいなくなってから先生のところに行った。
「先生。これ、書いてもらえませんか?」
先生に調査書等を書いてもらう手続きをしてもらえるようにお願いする。先生も最初、このことを聞いたときは目を大きくした。この学校に入って、高校に進学しない人なんて前代未聞なのだ。道を変えることは自分だけの判断だと思ったけど、いろいろな人に迷惑をかける。そう考えると悪い気がした。でもやっぱり最後に選択するのは、自分でしかないのだ。
「わ、わかりました。ええっと、いつまでに書き上げればよろしいですか。」
「2月の9日までに、お願いします。もっと早くお願いできればと思ったのですが、迷惑をおかけしてすいません。」
「わかりました。ええっと、それでは今月中にはわたせると思うので。」
「お願いします。」
 先生が分かってくれる人で助かった。何も分からないバカヤロウだったら、なんで学校を変えるのかとか聞いてくるだろう。それは生徒を分かろうとする表面の表情でしかない。私立の中学で進学を辞退するなんて相当なものだ。必死に迷って決めたということを分かってくれたのか、何も言わずに受諾してくれた。
 うちの学校では他校受験をした場合、進学権を失う。さすがにそのところは聞かれたが、はいの一言で済んだ。
 学校の校門を出たところで振り返る。小学校を卒業したときは、まだ希望に満ちていた。でも今希望がないかというとそうでもない。新しい未来に旅たとうとしている僕は、僕自身が誇れるものだ。
 ただその校舎の汚れとかが、すごく懐かしく見えた。もうすぐここともさよならだ。
 嬉しくも寂しい。
 でも涙は出なかった。希望が僕の先には広がっていたから。砂漠の向こうには、町やオアシスはないけど、果てしなく空が広がっていたから。
「ありがとう。もう少しだけお世話になるよ。」
 なんとなくそう言って、僕はその場を後にした。
悪くない。この道で悪くない。

  * 唯 *
 帰り、久しぶりにあの公園に寄った。
「なんか、変わったな。」
 相変わらず公園の中は雑草だらけだったが、梅の木がたくさんあり、たくさんの梅が咲きそうだった。
「もう、春か。」
 何ヶ月ぶりにここに着ただろう。沙耶とであったこの公園は、今でも誰も寄り付かない静かな公園だった。何も変わってないと思ったけど、結構変わっていた。僕の知っている景色がそこになかったからだ。
 鞄から物を取り出す。手紙だ。沙耶からもらった手紙。捨てたくてもずっと捨てられなかったものだ。これにずっと縋り付いていた。でも今の僕にこれはいらない。
 沙耶と話した木の下。手紙はぐちゃぐちゃに丸めて、要らない学校のプリントにくるんだ。そこにそれを放り投げて百均で買ったライターで火を灯す。手紙は、プリントに触れて一緒に燃え上がってゆく。気温がそんなに高くないせいか、燃え方が鈍い。でも確実にそれは燃えて消えてゆく。
「沙耶―――。」
 燃え上がる灰煙。
 心の中で沙耶に呼びかける。
 言っても言えきれぬほどの、ありがとう。そして、絶えない感謝だ。いつしか自分の全体重を支えてもらっていたその支えは、僕のためにその存在を消した。そして僕が立ち上がるのをどこかで見てくれている。もう存在はない。でも沙耶という存在は、確実に存在した僕の中では特別の存在だ。でも特別ってなんだろうっていうと、そんなのにも人それぞれの感性があるんだ。和葉は「当たり前だけど大切なもの」と言った。沙耶は、当たり前の存在だった。そして大切な存在だった。でも沙耶が特別じゃないかというとそうでもないし、ある意味沙耶は、僕の近くにいてはいけなかったのだと思う。だから僕は沙耶と離れなきゃならない。それが沙耶の望んだことでもある気がするから。
「沙耶―――。」
 手紙はもうすぐ燃え尽きる。
「沙耶、いろんなことがあったよ。大丈夫。もう僕は僕になれた気がするから。まだ僕の命は続かなきゃならないみたいだ。」
 時間はあの日から止まったままだ。でも今この日から、僕の時間は動き出した。僕が今燃やしているものは、決して僕と沙耶の別れじゃない。これは僕の思い出。僕が今後忘れちゃならない思い出。でも覚えていてもいけない思い出。引きずり続けてはいけない思い出なのだ。
 そして今だ。僕の進む道が開く。またみんなとは違う、でも同じ道を歩いていく。旅人と旅人が出会うのなら、その出会った旅人を忘れてはいけない。そんな気がする。
 沙耶も僕も一人の旅人。出逢った事は忘れない。でもいつまでも別れを惜しんでいてはいけない。だからここで別れなくちゃならない。
「沙耶―――。」
 手紙はやがて燃え尽き、風に乗って青い空に消えてゆく。僕はそのチリが空に飛んでゆくのをじっと見つめていた。
 ふと僕の目に、空が映った。
 見上げた空はあまりにも透き通っていて、日が暮れるまでずっと見続けていた。
 視界が歪む。溢れ出る涙を必死に堪えた。でも涙は零れ続けた。それでも空はそれでもずっと空だった。
「ありがとう、沙耶―――。」
 ありがとう、沙耶。バイバイ―――サンキュー―――。
 空に向かって強く手を振った。見えない沙耶の背中にさよならを叫んだ。
 ありがとう。バイバイ。



←前へ戻る次へ進む→

トップに戻る