第七章 萌し




  * 唯 *
「唯!」
 体の自由が利いたのはその声が聞こえてからだ。後ろには僕の父さんがいる。ぼくに何一つしてくれない本当にどうでもいい存在。他人。
「唯、戻れ。」
 後ろを振り向く。月明かりに照らされた父親だ。久しぶりに見た気がする。この人の顔はこんな顔だったのかと。
「断る。」
 そういって振り返った。目の先には世界は広がっていなかった。綺麗な景色はいつの間にか黒い闇に変わり、高層マンションの下はひたすらに深く伸びていた。落ちていったらその先は闇そのもの。そんなような気がした。
「なにバカなこと言ってんだ。」
 走りよってくる。挑発なのか体が勝手に前に出た。
「くんな!」
 体が前に行ったり行かなかったり。自分は一体何がしたいのか全然分からない。無意識の内に動く自分にいらつく。意味が分からない、と。
 すると刹那、僕の体が浮いた。
 前に浮いたんじゃない。後ろに仰け反った。僅かな段差しかない後ろ側は、あまりにも低いところに足場があった。
 腹を抱えられて後ろに戻された。尻のほうから倒れこんでしまった。
「ふざけるな」
「ふざけるなはこっちのセリフだ。唯、何があったんだ。」
「関係ねぇだろ、放せ、放せよ、バカヤロウ。」
「親に向かってその口の聞き方は何だ?」
「お前のことなんて、親だとは思ってねぇよ、貴様なんか知らねぇ。放せ、このクズが、死ね、ハゲ!クズ!死ね!バーロー!」
 必死に抵抗する。でも完全に鈍りきった体は、何の抵抗することもできずに押さえつけられる。
「放せ、放せ!バカやろう!」
 もがく。暴れる。その姿はとても哀れなものだ。
「お前なんかに何が分かる。」
「分かるわけないだろ。」
「わかんねぇなら放せ、バッキャロー」
「いいたいことがあるなら聞いてやる。」
「うるせぇ、黙れ。死ね、放せ、あああああぁぁぁぁぁ―――」
 必死で抵抗しても、こいつの力は強かった。自分の無力さを知った。死ぬこともまともにできない。そんな存在。
「放せ、放せぇ―――。」
 それでも必死で抵抗した。腹を殴っても、顔に思いっきり頭突いても、それでも尚、僕を抑えるその存在は僕を放さなかった。
 赤の他人なのに。なんでもない別の存在なのに、何でこんなに僕に構うんだろう。とてもウザったくて、厄介で、下らない存在が目の前にいる。そしてそれは僕の進む方向を阻む、とんでもない邪魔者だ。
「なんで、なんでそんなに俺に構うんだよ?」
「お前の父親だからだ。」
 強い口調だった。当たり前のようで、ものすごくアバウトな理由だった。
「お前なんか認めない。認めるもんか。俺が、僕がどれだけ苦しんだと思ってんだ。お前は手を差し伸べもしなかった。ただ苦しんでる僕を、傍で傍観してただけだろ。僕が学校に行かなくなったのに、行けとかそういう言葉もかけなかったじゃないか。そんなのが親なんて認めねぇぞ。普通だったら声くらいかけるだろ。それなのに、今更父親だのそういう面こいてんじゃねぇ―――。」
 ありったけ言いたいことをぶちまけた。本当はもっと家族とか、親とか。そういうものにもっと甘えたかったのかもしれない。ずっと自分をいい子に見せるために、絶対的な味方を勝手に敵に回してしまっただけなんだ。それなのに反論した。自分のせいなのに、声をかけてくれなかった親のせいだと。自分から存在を遠ざけておいたのに、何て身勝手な質問だと思う。それでもそうしてきたせいで不安定になりすぎていたんだ。だれかに鬱憤を晴らしたり、そういう類のことをしないと、どうしようもなかった。
 僕の叫ぶ声は夜の闇に呑み込まれていく。思いのたけも、僕の何をかもを。月明かりは、太陽の明かりとは違って、影を照らす光じゃない。影をかき消す光でもない。影を浮き立たせる光だ。
「悪いが、それはできない。俺がお前の父親なのは、どうしようもない事実だ。だけど一つ言っておく。お前のことなんか誰も知れはしないんだよ。何かあったんだろうが、それはおまえ自身が解決していくしかないんだよ。どうしようもなく理解したくても理解できないことなんだよ。だからお前に手を出さなかった。そんな事をしてもお前のためにならないことくらい分かっているからさ。私をいくらでも貶すがいい。いくらでも悪に仕立て上げればいい。それでも人間、生きていかなきゃどうしようもないんだ。いくら悩もうが、悔やもうが、死んだら全ておしまいだ。お前は俺の子だからわかるだろう。死の先を。知ってんだろ。お前は昔から神様とかそういうのを信じてなかったよな。俺も同じだ。お前なら分かる。大丈夫だ。心配するな。自分を見失わなければ、俺はいくらお前が変わろうともお前の味方でいてやる。生きてる限りお前の父親でいてやる。」
怖い。死とは恐怖そのものだ。人間が本能で感じる一番の恐怖だ。誰かに助けてほしい。死の先は「無」だ。
「俺はお前の味方だ。だからずっとお前を放っておいた。お前は強い子だ。だから俺がいなくても大丈夫。自分を見つめろ。お前はお前だ。俺の大切なたった一つの命だ。ほっぽろうなんて思うんじゃない。」
 僕は泣きじゃくっていた。完全に感極まってしまって分けも分からず、意味もなくないていた。
 でもそれが父親が父親としての僕への優しさだった。そう考えると、母親や姉貴は馬鹿げた連中だ。
 僕の人生にとって入らない存在なのかというとそうでもない。ご飯とかそういう類のものを作ってくれてるし、仕事だってしている。それで頭がいっぱいだったのかもしれない。今の僕のように、みんな心がどこかに行ってしまっていたのかもしれない。
 涙が止まらない。
 こらえても、こらえても、涙が止まらない。
「死にたくない。」
 そう思った。本当に心からその言葉が出た。沙耶の存在の否定はしたくない。沙耶はやっぱり僕の希望なのだ。でも失望に囚われて自分の命まで失ったらいけない。存在が消えることは全てを失うのと同じことだ。絶望も消える。ただその代わり、希望も何もかも、なくしてしまう。
「あああああぁぁぁぁぁん―――。」
 涙が止まらない。
 頭をなでられる。沙耶以外の人で、始めて人からの優しさを知った。遠いと思っていたその優しさはこんなにも近くにあった。今までそれを自分から遠ざけていたせいで、ないものだと勘違いしていたんだ。
「大丈夫、お前はお前だよ。」
 父親の優しさはここまで。いや、ここからだ。
 長い時間が経っていた。僕が7時過ぎに家を飛び出て、もう何時になるだろう。満月がもうあんなに高いところにある。いつの間にか時間が経っていた。
 縋りつく僕を、父親の手が引き離す。
「後はお前次第だ。好きなだけ泣け。でもお前なりに答えが出たんならそれが正解だ。ただ一つ約束しろ。絶対に死ぬなよ。それだけはおまえの父親としてのわがままだ。聞いてくれ。分かるよな、俺の息子ならよ。」
 そういって帰った。
 その優しさを今の僕はどう捉えていいだろう。これは最大限の親の優しさだ。僕の望んでいた親の優しさだ。
 今の僕はただ泣くだけ。意味もなく。自分の味方は自分だけ。それを改めて聞いた。それが自分の信頼できる人から聞けた。何故だろう、あんなに大嫌いだった父親が、家族が、とても尊いものに思えた。
「あああああっ―――。」
 僕の声だ。こうして泣き叫ぶ声は、紛れもなく僕のものだ。僕の存在の証明だ。それが確かめたかったのかは分からない。ただ泣いた。ひたすら泣いて、自分がここにいるのを自分が確かめるように。

  * 唯 *
 何時間泣いても涙は枯れることはなかった。そして目に溜まる涙が虹色を作り始める。夜明けだ。何時間泣いていたのだろう。いつしか月は消え、太陽が出る。日の出前の、僅かに光が漏れる限りない瑠璃。
「―――。」
 何故だろう?何度も見てきた色のはずなのに、とても綺麗に見えた。いつもとは違う空。いつもとは違う空気。いつもとは違う風。
 とにかく何もかもいつもと違う。そんな感じがした。
 動かなかったからだが、自分の意思で動く。立ち上がる。
 ゆっくりだけども、日の昇るのがわかる。果てしなく続く人生という名の旅路。見上げた空は限りなく澄んだ綺麗な空だった。
 人生の中で立ち止まってしまうことがある。でも人生を諦めちゃいけないんだ。決して死んじゃいけない。
「沙耶―――、聞こえる―――?」
 何となく空に呼びかけてみた。沙耶ともっと一緒に居たかったのは僕の本音だ。これは間違いない。でも、だからこそ、僕が僕でいなきゃ、沙耶に対して恥ずかしいのかもしれない。
「僕の行く道は、正しいのかな?」
 砂漠の行く先のちょっとしたところに埋もれた標識を見つけた。何度も同じ標識を今までにも見てきた。明日という名の進むに進めない標識だ。この道はあっているのか。僕の未来に僕はいるのか。
「沙耶―――」
 変わりゆく空に向かってぼやく。朝方の空の色は、あっという間に本来の水色を取り戻してゆく。
 沙耶の存在は僕の望んだ世界そのもの。でもこんな人生は望んじゃいない。
「望んでいたのは―――。」
 まだ砂漠は、果てしなく地平線の先まで広がっている。まだ僕はこの先のことをいろいろ迷わなくちゃいけない。沙耶の存在はある意味、僕にとっての一本道を外さしてくれる一つの意外な標識だったのかもしれない。だからそれに縋りつき過ぎたんだ。あまりにもその標識が珍しいものだったから、それ以外のものが信じれなくなってしまったんだ。一直線の道はその標識のせいで多数の分岐路に分かれている。一度選んだら戻れない。一度選び間違えたら、もう引き返すことはできない分岐した道。どれが正解なんて分からない。悩んで、悩んで、悩んでそれでやっと開けるのが、人生なんだ。
「沙耶―――。」
 もう迷わない、なんてこの時には到底言えなかった。
 考えるんだ。
「僕が望む世界は―――。」

* 大崎家 *
「ねぇ、あなた。唯、どこ行っちゃったの?昨日何があったの?」
 時刻は翌日7時。家族全員が、仕事だの学校だの行く時間だ。母さんは昨日のことが心配なようだ。
「はは、あいつなら心配しなくても大丈夫だ。俺の子だしな。お前も遅刻するなよ。」
「わかってるわよ。行ってらっしゃい。」
 母さんはそれでも心配な目をする。一番分かっていないのは自分だろう。でもそれも本人は気づいているはずだ。ただ母さん自身も砂漠で彷徨ってしまったんだろう。それだけだ。父さんは家を出て行った。父さんは強い。本当に。
「私も分かる気がするよ。」
「なにが?優。」
 口を開いたのは姉の優だ。
「さーね。それじゃ、いってきまーす。」
姉も強い。とにかくこの家には不思議と精神の強い人間が集まっている。誰に似たのかわからない。
 みんな僕の味方だった。そして味方だ。
 とても強力な。遠くてものすごい近くにいる、わからずやで意味不明だけど、とても心強い僕だけの味方。

  * 唯 *
 東の空から太陽の昇る鮮やかな橙色をずっと見ていた。朝焼けを見ていたら、自分の存在が本当にちっぽけなものに思えて仕方なかった。自分の存在や、自分のこんなにもどうしようもない悩みとかそういうものがものすごくくだらないものに思えた。
「広いな。」
 地球は自分が思っている以上にとんでもなくでっかい存在だ。それでも広いと思ったのはこの地球以上の存在だ。自分の存在が大きいと思ったことはない。でも僕がここで生かされているということは、ものすごい存在なんだと思う。
 僕以外にも限りなくたくさんの存在を巻き込んで僕の人生という道は、果てしなく続いているんだ。途中での失脚は、自己の存在の抹消、そして他の存在にも限りない損害を及ぼすのかもしれない。
 今僕の位置はどこだろう。それをずっと探しているんだ。人間の場所取りだ。存在が続くことは自分の位置を確定させなきゃならない。3次元のユークリッド空間の中で必ず存在という点を取らなくてはならない。僕の座標はどこにあたるんだろう。限りない宇宙の中で、必ず僕は「場所」という存在において必要なものをとっている。
 そしてその存在。場所をとるものは、大きくもあり、とても小さいものだ。ダニとかミジンコにとっては小さくても、人間になればそれは大きな存在となる。大きな高層ビルもその存在の場所をとっている。でも全てのものを存在だけであらわしてもいいのか。
 それが僕の最大の迷いだったんだ。
 沙耶を失って迷っていたんじゃない。自分という存在の変化が、この空間においてどれくらい大切なものとかそういうものが分からなかっただけ。
 でもそれが本当に僕を悩ませていた。
 目の前にはまたいつもの朝が広がってゆく。人が多々群がり、忙しなく動く粒。その存在一つ一つが本当にちっぽけであってもなくても同じものだと思っていた。でも本当は違う。それぞれは小さくても、その存在は、誰にも奪うことも消し去ることも否定することもできない存在である。
 でも自分はどうなんだろう。誰にも奪えないのなら、自分で捨てることも当然できないはずである。
「それなのに僕は。」
 屋上で体育すわりをして、両膝に両腕をつき、頬杖をついて悩む。いかにも考え事をしているように、わざと。
「俺ってやっぱり何なんだろう。」
 最近気づいたことがある。考えているときは時間が経つのが早い。自分の意識があるときは特にだ。
「戻るか―――。」
 僕は独り言をしたことがない。自分の中の自分と話すときは、本当に別の存在と放しているかのような錯覚を覚える。それが独り言というのだろうか。僕にはよく分からない。独り言って言うのは数学の問題とかを解くときとか、読書で黙読するときとか、そうやって声に出さない範囲で、自分の中で結果を出すのが独り言なんじゃないかって思っていた。でもそうでもないようだ。
 僕は本当に一人だ。何人もの温かい存在を自分から遠ざけたせいで、知らないうちに自分すら失っていることに気づく。
「あーあ、誰か話す人いないかな。」
 とわざと声に出して叫んでみた。僕はどこまで寂しいんだろう。自分の存在や、僕をわかる人の存在を遠ざけた自分を悔やんだ。
 部屋は本当に見苦しいところだった。
 何ヶ月僕はここにいたんだろう?部屋中に散乱していたのは、お菓子のゴミとかティッシュで鼻を?んだり、涙を拭いた僕の葛藤の痕だ。
 無意識の内に暴れたのか、ゲームのカセットとか、音楽CDとか本が棚から落ちていたり、不規則に並べられていたりと、その部屋はとても気持ちのいい空間ではなかった。それでも悩むことはある。
 部屋のベッドに横たわる。
「なんで僕、こんなことしてんだろう。」
「それ、この前も考えた。埒が明かないだろ。」
「そうだね。」
 わざと声に出して。自分で第二者になって話してみる。独り言は難しい。もし自分が他人だったらこんな苦労はしないだろう。でもそれが自分だったらどうだ?結構恥ずかしい。他人のことなんて考えたこともなかった。いつも曖昧な表現をして逃げていたからだ。今考えると他人からいつも逃げていたせいで、こんな性格が、出来上がってしまったんだ。大っ嫌いな僕自身だ。
「そうだ、じゃぁ何で僕は悩むんだろう。」
「ふ、不思議なこ、ことを聞くな、んじゃないよ。そりゃおま、お前が変わりたいと願っているからだろう。」
棒読みで噛みまくっている。
「じゃぁ、僕が変わる理由ってなんだろう。どうしてここまでして変わろうと願っているんだろう。」
 悩む。第二者になって話すのは、それはもう大変だ。独り言ってのは、本当に厄介で難しいものだと知った。
 答えを探す。僕が僕に送る答え、それは。
「沙耶だ。」
「沙耶―――?」
 噛むこともなく、悩んでぱっと頭の中に名前が出てきた。そして僕はその答えに対して質問で返した。
「そう、沙耶。君にとって特別な存在。」
「存在―――?」
「そう、とっても特別な。」
「特別―――?」
 説得力のない答えしか返せない。とても第二者になって僕自身とはなすって言うのは、結構無理があるものだ。逆に質問を吹っかけた僕もなんていえばいいか分からない。
「特別ってなんだろう?」
 僕は、僕に質問をぶつけた。
 沙耶の存在が特別なら、特別って何を指すんだろうか。すぐさま辞書を手に取る。荒らされている本棚の中で、唯一そのどデカイ本は、自分の場所を確保していた。

特別 ― 大辞林(三省堂)
1 (形動)
[文]ナリ
他と特に区別されているさま。一般と特に異なっているさま。
・ ―待遇
・ ―急行列車
・ ―な便宜を図る
2 (副)
[1] とりわけ。とくに。
・ ―大きいのを手に入れた
[2] (下に打ち消しの語を伴って)それほど。大して。
・ ―変わったこともない

特別とはそういうものだった。本当に役に立たない辞書だ。そういう当たり前のことを知りたいんじゃない。特別の定義って何を指すのかってことを知りたかった。そうすれば沙耶のことを分かれる気がした。「一般と特に異なっているさま」というところがある。沙耶は、確かにそこら辺の存在とはワケが違う。でも、そういうことを知りたいんじゃない。そんなことはもうとっくに知っている。
 特別の本当の意味って何だろう。
「なぁ、何だと思う?」
「わからないよ。」
 自分に質問しても、結局僕は僕だ。頭の固さは双方がよく知っている。やっぱり独り言は難しい。別の僕がやっぱり別にいないと、僕はまともに答えを出すことすらできない。それは弱さなのだろうか。
「なぁ、沙耶って俺にとってなんていえばいい?」
「同じことを何度も言わせないでくれないか。」
「そうだな、へへっ―――」
「なんだよ。」
独り言は続いた。何にも解決しないような意味の無さげな独り言。それでも僕は「ヒトリゴト」を続けた。声に出して、自分でも馬鹿々々しいと思いながらも続けた。
独り言は自分が自分であるために、自分を確かめるためにするんだ。このとき僕は直感的にそう思った。独り言は道標を選択する上で、重要な一つの手段だ。考えるのは僕のため。
 沙耶という存在を、どう受け止めるかで、僕が変わる。現にそうだったじゃないか。沙耶の消失で僕は死を前にするような恐ろしい道を歩く破目になった。それは僕が僕を見失っていたから。正しい判断ができなかったんだ。正しさなんてありはしないけど、こっちが良いとか、そっちはダメだとか。正解は行く先々であり、失敗だって行く先々であるんだ。
 じゃぁ今僕がすべきことは何?
 僕の意味ってなんだっけ。

  * 沙耶 *

 ?月?日。
現在の時刻、不明。
 応答を確認。
 僅かでも彼の応答を感じる。
 そして私の消失も時間の問題だと気づく。
 唯君。
 頑張―――って―――。

  * 唯 *
 お正月になろうとしている。もうクリスマスが終わった十二月の終わり。そんな中でも僕は悩みに耽っていた。部屋の片隅で、ずっと悩んでいた。
それでも変化はあった。家族との会話もするようになった。ご飯も普通に食べてるし、朝も普通に起きている。ただ何故か外に出れなかった。何となく答えが分からないまま外に出ることがとても怖かったからだ。ただの臆病者じゃないかと思ったこともあった。それだけど外に出れなかった。
 今は冬休み。学校や外に出る理由もなく、一日中悩んでいた。なんで矢なんでいるか忘れるくらい悩んでいた。
独り言が多くなったと姉貴に言われた。
 そこのところは、わざと独り言をしてるんだと姉貴に反論した。
 ここのところの日々はそうして過ごしてきた。それでも僕が僕である証明はできなかった。沙耶の存在定義も何も分からないまま、一日中、バカみたいに悩み耽っている。それしかできなかった。
親へは「考え事」で通していた。相変わらず母親のほうは不安げな顔をしているが、父親は相変わらず振り向きもしない。それはある意味ものすごい愛を感じる。二通りの愛の形だ。自分を放っておいてくれるのと、自分をどこまでも心配してくれるのと。その「愛」という謎かつ謎な問題は存在の大きさで解ける。
 まだ僕にはよく分からないが、我が子とはそういうものなのだろう。
「じゃぁ、その愛される対象の僕自身は何だろう?」
って思うと、そこで硬直してしまう。またあの未来という名の広大な砂漠の中で道標のないアネクメーネのなかに、また放られたような。
「難しいね。」
「うん、難しい。」
 傍から見ればただの独り言のようだが、僕自身は僕と意識を取り合いながら答えを必死に出そうとしている。
 でも出ないんだ。僕だから。でも僕がその問いを解決するのに他に誰の存在がいるだろう、と思うと沙耶しか出ない。それでは意味がないんだ。
 決して沙耶を忘れようとはしてない。遠ざけようともしてない。ただ沙耶を思うことは、沙耶が僕と離別したその価値を無くすものだと思ったから。
 それが分かっているのに、答えが出ない。特別って何だろうって。
 分からないまま時間が経つ。それを繰り返しているうちに、知らない間にこんなに時間が経っていたんだ。僕が恐れるものは何だろうと。
 おなかが減った。考えると必然的に腹が減るもんだ。時刻は2時過ぎ。ちょっと遅い昼食をとることにした。家にはいつも通り誰もいない。そのせいもあったのか、無意識の自分が動いていたのかもしれない。
「ラーメンでも食うか。」
 と、引き出しの中に買いだめしているカップラーメンを取り、かやくと粉末スープを投入し、お湯を注ぐ。そして待つ。
 そんな現代人なら誰もが一度位したことのある行動をする。ただ今の僕はその一つ一つが自分のした存在の跡だと思えた。深く考えすぎて、シリアスになりすぎていた面もある。そのせいで頭がカチコチになっていた。
 暑い砂漠の中で、何故か凍ってしまったんだ。人間の神経とか心は、これだから不思議なんだ。あまりにも多すぎる矛盾。それでも人は考えて生きている。考えられる頭がなければ、今の時代、まともな人生など送れるはずがないのだ。でも僕はそれを嫌った。普通より回りによく接する。そして自分を必死に隠す。嫌になったら殺す。それで過ごしている自分が本当に嫌いだった。
「何故だろう?」
「何故でしょう?」
「質問で返すな、まともに答えてくれ。」
「嫌だったからでしょ」
と、一人じゃ何も分からない。無知で弱い存在だ。本当に誰かのタスケがないと生きてはいけない。人間はそういうものだ。
3分間がちょっとすぎ、ラーメンをすすり始める。というより、がぶ飲みする。インスタントラーメンの口のところを持ち、箸で一挙に麺とスープを口の中に押し込む。3分待って、1分で食う。これがインスタントだ。という自分勝手な理論が勝手にできたのも、自分のせいなのか。
 ラーメンをゴミ箱に片付けた時だった。
「ピンポーン」
 マンションの下玄関のチャイムが鳴った。
「はい。」
「もっしー♪和葉だよ。」
 そこには明るすぎる声があった。うちのインターホンはカメラがない。だから出ないってワケには行かない。でも何で出たんだろう。いつもならスルーするのに。
 でも手に持っているインターホンを切る気にはなれなかった。とても久々に話した友達だったからだ。大切な友達。だから何故かはわからない。不思議と切れなかったんだ。友達だからという理由だけでは説明しきれないような感覚だった。
「かじゅ?なにさ。」
「冬コミ、行こうよ♪」
「えぇ、今からか?絶対混んでるって。」
「あったり前じゃん。ねぇ、上がっていい?」
「え、ちょ・・・いや、汚いし―――。」
「おっじゃましま〜す♪」
といって家に乗り込まれた。和葉は本当にいつもハイテンションだ。でもなんで今になって僕のところに来たんだろう。確か適当な理由をつけてずっと遊びを断っていたのに。もうとっくに失望されたかと思っていた。
「おっはー♪あれ、誰もいないのかな?」
 といって僕の部屋に上がりこんだ。
「ちょっと待てよ、汚いから。」
「うわぁ、ホントだ。マジきったな〜い。」
 部屋の中は整理したつもりでも、ゴキブリが出るくらい汚かった。本とかはある程度整理しても、やはり何ヶ月もこもっていると、そりゃ絶対に傍から見ればとんでもなく散らかってるように見えるだろう。
 和葉はベッドの上に乗り、ゴミを除けて適当な位置に自分の場を取った。僕は勉強机の椅子に座る。
「なにさ、いきなり。」
「なにさって、アンタ、ブログ更新しなさ過ぎ。」
「悪い。」
「メール見なさ過ぎ。」
「忝い。」
 パソコンもケータイも全然いじる気になれなかった。確かに何回も無視ってたら誰だって心配するはずだ。特に和葉や晃なら。
「謝らないで。何かあったの?学校も休んでるみたいじゃない。」
「知ってんのか?」
「やっぱそうなんだ。どうしたのさ。急にヒッキーになっちゃってさ。」
 焦った。ハメられた。でもそれは和葉の仕掛けた巧妙な質問だった。てっきり誰かに聞いたのかと思った。でもそれを僕から聞き出した。
「図った?」
「うん。図った。」
「参ったな。」
「えへへっ♪」
 正直、和葉の頭のキレには一目置くところがある。とても鋭い感性を持っている。その割には腐女子なのだが。
「でさ、本当に何があったの。」
 悩んだ。何て答えれば良いだろう。嘘はいくらでもつける。でもそれは自分が望む自分ではない。しかも和葉のことなら、嘘くらい簡単に見通すだろう。でも大丈夫なような気がした。和葉ならという勝手な安心感があった。赤の他人。しかも家族でない人なのに、沙耶と同等の安堵を感じた。何故だろう。それは、
「なぁ、かじゅは。俺たちって、友達だよな。」
 和葉は軽く笑みを浮かべて、小さく、でもちゃんと分かるように頭を縦に振った。
「うん、友達だよ。友達以上に大切な、『特別』な友達だよ。親友以上の親友だよ。だから大丈夫だよ。私たちは大崎の味方だよ。」
 何度その言葉を言われただろう。また迷ってしまいそうだ。誰が味方で、誰が敵なのか。外の世界の奴ら全員とも言い切れない。でも今目の前にいる一人の少女は、間違いなく僕の味方だ。なぜかこの時は、すぐに信じることができた。疑いの目を持たない純粋な自分の意思で始めて人と話せた。
「正直、自分でもなんで休んでんのか、わからないんだ。外の世界が怖くなったってワケじゃないんだ。さっき、かじゅはが言ってくれたように、僕も友達だと思う。だから外の世界が怖くなるはずないんだよ。だって、こうして話していることだって、怖かったらできないはずなんだ。だから―――。」
「何かあったの?」
 話している最中に、質問が入った。答えづらい質問だった。何かあったといえばあった。だけどこれを話したところで和葉はどういう反応をするだろう。正直自分でも言葉がまとまらない。
「ねぇ、何か答えて。」
 言葉をまとめるのは難しい。思っていることを言葉にするって言うのは、本当に難しいことなんだ。勘違いとかそういうのもなく明確に、そして要点を捕らえ簡潔に。一番良い言葉で相手に伝える。これが本当に難易度の高い問題だ。
「あ、あのな、うまく言葉がまとまってないから、うまくはいえないんだけど―――。」
 前置きだ。これで多少は伝えたいことが簡単に・・・
「そんなことはどうでもいいの。早く言って。」
 なりそうになかった。和葉ってこんなに難しかったっけと和葉と出会ってからの9年間を思い出す。僕がいない間に、世界は変わっていっている。みんなだんだんと大人になって難しくなっていく。僕だけは、ずっとこのままなのかな―――。
「大崎!」
 パシーーーン。思いっきり頬を平手で殴られた。かなり痛い。
「アンタ、人の言うこと無視しないでよ。こっちはアンタのこと必死で考えようとしてるんだよ。ずっと心配してきたんだよ。そんでわざわざここまで来てやったんじゃないか。こんな友達いないぞ!大切にしようとか思わねぇのかよ!」
 思いっきり言われた。そのせいで吹っ切れたのかもしれない。言葉は曖昧でも、品川和葉という存在に、自分を任せてもいいんじゃないかって。なんとなくだけど、そう思った。だから言葉が出たんだと思う。
「た、大切なものを無くしたんだ。」
「大切なもの?」
「うん。僕にとってはとても大切なもの。それで、それがなくなっちゃったせいで、なんて言えばいいのか分からないんだけど、身動きが取れなくなっちゃったんだ。なんていうか、もう、自由が利かなくなっちゃって。」
 和葉は真剣な眼差しでこちらを見つめる。その目には曇りがない。沙耶のような、全てを受け止めてくれるような。そんな目だった。
「それは本当に僕にとっての全てって言えるようなものなんだ。とても特別なもの。なんだけどそれに囚われた自分が嫌になっちゃって、それでもう、いろいろこんがらがっちゃって、それで、それで、えぇ〜っと、それで―――。」
 こんなに言葉がまとまらなくても、わかってくれる人はいるのか。今にでも涙腺が切れそうだった。
「辛かった?」
 その言葉に、僕はコクリと頷く。それしかできなかった。言葉を出したら、もう涙が溢れて、零れ落ちる。そんな気がした。
 震える唇で、どうしようもない自分を言う。それはとても辛いものだった。弱い自分を他人に曝け出しているからではない。弱い自分を人に言うことで、自分が弱さを認めてしまう気がしたから。
「ねぇ、かじゅ・・・と、『特別』って何だと思う?さ、さっき、か、かじゅはも、和葉も僕のことを『特別』な友達って、い、いってくれたろ。特別って一体なんなんだろうって、それが分からなくて。」
 言いたいことは全部言った。僕の悩み。本当にちょっとしか喋ってない。全部口にしたら、僕が崩れ去ってしまうだろう。もう崩れ落ちる寸前。それだけど、必死に僕を訴えた。今、僕を特別といってくれた、一人の友達に。
 彼女はくすっと微笑んだ。
「特別って大したもんじゃないと思うよ。当たり前でいて、それだけど大切なもの、それが特別なんじゃないかな?」
 もう一度こちら側を見て、微笑んだ。
「えっ?」
「私もね、大崎のことは私にとって特別だと思うよ。いつも一緒にいたから、ずっとそばにいてくれることが当たり前で、それだけどとても大切な存在なんだよ。大崎と連絡が取れなくなったときは本当に心配した。でもさ、それって友達からしたら当たり前なんだよ。心配して当然なんだよ。晃だって、他のみんなだって。絶対に大崎のことを心配してるよ。だからもう迷わなくていいんだよ。大崎は大崎なんだから。誰も否定できないし、少なくとも私だけは絶対に否定しない。ね、だから行こう。コミケ。気分すっきりさせようよ。面白いと思うよ。大崎の大好きな・・・―――大崎?」
 涙を堪え切れなかった。必死に涙を抑えようとして。それだけど涙がずっと零れた。必死に抑えようとした。他人に涙を見せるなんてとても恥ずかしいと思ったから。でも今までみたいに感情を殺して涙を抑えるなんてことは、できなかった。ただただ自分の意思とは無関係に、それでも自分の意識が一番、泣いてるくせに、意識してるのか、意識してないのか分からないけど、涙が止まらなかった。
「泣いていいよ。」
「泣いてなんか、い、いねぇよ。」
 といっても明らかに泣いていた。強がったってどうしようもないけど、それでも何故か強がってしまう。それは本当に不思議だ。これが自分なんだ。必死に強がりの壁で防護してる弱い存在だ。でもその存在を認めてくれる人がいる。それは怖いくらいの感動だった。
「なぁ、和葉。」
「何?」
「その、キスしてもいいか?」
「えっ、ちょっと、え?へっ―――?」
 こんな質問をしたのは、和葉の存在を自分のものにしたいとか、そういうんじゃない。ただ目の前の一人の少女の存在が、とても尊く、愛しく見えたから。その存在をもっと確かめたかった。もっと近くで触れたかった。
「ダメか?」
 僅かな笑みを浮かべ、一度コクリと頷いた。
「いいよ。」
 そういうと、ベッドから立ち上がり、椅子の前に立って、目を瞑った。
 僕も椅子を立った。和葉の肩に手をやる。和葉ってこんなに小さかったっけ。小学校のときは、やんちゃで元気で、いつも僕と晃を連れて遊びまわったり、図書館で漫画を読んだりして遊んでいたなと。そしていつしかその少女は、僕よりも小さく、そしてあまりにも可愛くなっていた。ずっと一緒にいたのにこんな変化に気づかなかったのかと思うくらい。その体は華奢でちょっとでも力を入れたら潰れてしまうほどに脆く思える。でも、その中身はとても強固な精神の持ち主で、僕を助けてくれた。本当に特別といえるのかもしれない。沙耶という存在を失ったのは、大切な存在を一つでも知るためだったのかもしれない。『特別』という名の存在はいつまでも残り続ける。その存在を、自分を殺して忘れさせるなんてことが、起きちゃならないんだ。だから沙耶は警告してくれたんだ。今この瞬間が来ることをずっと前から知ってるような気がした。
「ねぇ、大崎。まだ?」
「あ、うん。いくよ。」
 今までこんな感情は初めてだ。沙耶に抱いた恋とは違う、恋だった。今までなんとも思っていなかった少女が、ある日突然いきなり可愛く見えてしょうがなくなる。その現象はこれだ!といっていいのかもしれない。
 段々と顔の距離が近づいてゆく。まず頬元にひとつ。そして僕も目を瞑って、その唇と唇が触れ合う。この瞬間が訪れる時に、今後の自分の世界を変えてしまうような。そんな一瞬が訪れる。
 なんでだろう。純粋にこの刻がとても愛おしい。普段は大嫌いなこの部屋の空間も、本当にどうでもいいものまでも、つまらないものには見えなかった。時計が刻を刻む音も、和葉の吐息も、この唇に走る感覚そのものも。
 全てが気持ちよかった。
 ずっと前から和葉を見ておけばよかった。こんなにも強い見方が近くにいたんだ。それなのに僕は何てバカみたいなことをしてたんだろう。
 数十秒もすると息が続かなくなる。互いの唇がはなれると、そこには微笑む和葉の顔があった。
「ど、どう?」
「なんか、なんていったらいいんだろう。すごかった。」
「そんなんじゃわかんないよ。」
 僕らは笑った。
 久々に笑えた。ここで今日あったことが、あまりにも感動すべきことで、それに気づかなかったのがおかしくて笑えるし、相手がそれまた和葉だなんて余計に笑える。それなのにとても嬉しい。嬉しいから尚、笑える。
「ごめん。僕、かじゅはのこと好きかも。」
「なんで謝るのさ?意味わかんない。それからなんで仮定形なのさ。やり直し。」
 失敗したかな。でもそれもまたとても温かかった。ずっと前から僕のことを知ってくれていて、僕も和葉のことを知っていて。
「やり直しって。あははは・・・」
 こんなにも近くに、こんなにもたくさん僕の存在を認めてくれる人がいた。それに気づくのが遅すぎた。でも人生に早い遅いなんてないんだ。確かに平均とか普通に比べたらとかはあるけど、人生や人の存在に、どうこう言えるわけがないんだ。普通とか周りの環境に囚われすぎていただけなんだ。僕はそんなどうでもいいことに足場を奪られて、立ち尽くしていただけなんだ。
「はい、どーぞ!」
 ピシッと姿勢を整える。
呼吸を正す。
「大崎唯は、品川和葉のことが好きです。」
 そのまま、思っていることを。一番簡潔な言葉で言った。
「単純だなぁ、もっとどっかのアニメみたいな、かっけー告りかたねぇのかよ。」
「えぇ、すごい緊張したのに、そりゃないよ。じゃぁなにさ、『お前のためなら死ねるぜ』とか言ってほしかったのかよ!」
「いやいや、格好よかったぞ。少年♪」
「なんだよ、それ。」
 ふと笑いがこぼれた。とても温かい恋人の笑顔。恋って言うのはこういうことを言うのかもしれない。沙耶は確かに僕が大好きな人だった。そこに存在が居てくれないと死んでしまうくらい好きだった。
 でもそれは恋とは言わないのかもしれない。恋人というよりは、もう自分に近い。あそこまで自分を知られてはいけないんだ。失うときに出会えて幸せだったと思えることが恋だ。失ってより不幸になった人は、恋人じゃない。
それでも命が燃え続ける限り、僕らが生きる場所は僕らの中にあるんだ。例えそれが一面に続く砂漠でも、果て無く拾い空でも、小さな部屋の中でも、それが自分だけの命なんだ。その中で、自分に出会えることが本当の幸せなんだ。沙耶は「僕じゃない僕自身」だ。沙耶に出会えて本当によかった。
そして目の前の少女だ。よく分からないけど、それでも何となくこの人が好きだ、っていうような感覚が恋なのだ。どうしようもなく好きになる感覚。一緒にいるだけで擽ったい。そんなどうしようもなくただただ好き。今まで全く意識してなかったのに、ちょっとスキと思っただけで、ものすごく意識してしまう。なんというか、その人が光って見える。そんな感覚が恋ってヤツだ。青春ってヤツだ。
 さて、僕の青春は誰だろう。
「もちろんオッケーだよ。大崎。」
 今まで気にも留めなかったこの目の前の少女、品川和葉なのかもしれない。
「ありがとう。」
 和葉が笑みを浮かべる。僕もつられて笑みを浮かべる。自然と笑いがこぼれる。同じ理由。ただ笑える。それすら笑える。だから笑える。
「何、お礼なんか言ってんのさ、ほら。行こう、コミケ!」
「今からか?」
「何言ってんのよ。半月に一度の大イベントじゃん。三日しかないんだよ。早く行かないとほしいものなくなるよ。」
「えぇ、でもさぁ。」
「彼氏でしょ?ほら、さっさと着替える。」
「わ、わかったよ。ちょっと出ててよ。」
「早くね。」
 そういうと、部屋を出てトビラを閉めた。和葉のペースについていくのは大変なのかもしれない。
 さて、洋服だ。といっても今まで全然外に出ていなかったせいか、全くまともな服が見つからない。苦労して、ようやくタンスの奥のほうからセーターとジーンズを取り出すと、それを着て、トビラを開けて外に出ようとしたときだった。
「ぁ!?―――」
 飛びつかれてキスをされた。沙耶と同じようなシチュエーションで、それでも何かが違うキスだった。とっさのことでびっくりした。でもとても振り払ったりできなかった。静かに目を閉じて、妙に幸せなこの感覚を味わう。
「さぁ、行こう。唯君♪」
 短いキスが終わると、笑顔で手を差し伸べられた。和葉に名前で呼ばれたのは、初めてだった。だから僕も、
「うん。和葉。」
 名前で呼んでやった。
笑って鍵も閉め忘れて家を飛び出した。気が利く和葉に、後で「家のカギ、閉めてないよ」といわれたのは言うまでもない。

  * 沙耶 *
 ?月?日。
現在の時刻、不明。
 最後の応答を確認。
 彼との距離はどれくらいあるだろう。
 でも、分かることがある。
 距離は離れようとも、
 私は確かに、彼のすぐそばにいた。

* 唯 *
「和葉、大好きだ。」
「もう、やけるからやめてよ。えへへ、でも何か嬉しいや。」
 電車の中で人目も気にせずに、この会話の繰り返しを何度もしてる。世間的に、バカップルというのは、こういう奴らのことをいうのかも知れない。でも今は、そんなこと気にもしなかった。
「好き。」
 ずっとこの言葉をつぶやき続けていた。あまりにも、この感じが新鮮だったのかも分からない。ただただ和葉のことが好き。だから好きという。自分の気持ちに嘘はつけない。嘘はつかない。
 なんで、そう決められたのかは分からない。ただこの汚れた世界が好きになれた。受け止められた。そんな気がする。
「なぁ、和葉。今思ったけど、なんで和葉ってオタクなの?」
「え?それ聞く?」
「ん、まぁ気になるし。」
「聞きたい?」
「聞きたい。」
 唯一、引っかかっていた疑問だった。いつから僕らは一緒だったんだろう。スポーツも漫画もずっと一緒だった。でも普通はヒクだろう。なんせ漫画オタクだ、腐女子だ。世間から蔑まれるべき存在だ。でも理由は単純だった。
「ええっとね、唯君が、ずっと好きだったからだよ。離れたくなかったんだ。元から漫画は好きだったけど、やっぱり唯君が好きだったんだよ。」
 自分で言うのもなんだけど、ちょっと若気た。
「あ、そうなんだ。嬉しいな。でもさ、それじゃぁ、今まで無理して同人誌とかゲームとか買ってたってことか?だって和葉、女性向けのヤツ買わないもんな。いつも僕と一緒のヤツかってたし。」
 嬉しさと、疑問が一緒に出た。最初から和葉の気持ちに気づいていれば、和葉に無理をさせずにすんだかもしれないし、自分自身も苦しまずにすんだのかも知れない。それなのになんで和葉は、わざわざ僕と同じものを買ったのだろうと思う。僕の言う同人誌は、大抵の人が想像するであろう、まぁエロくて、説明しがたいR18とかが付くやつだ。女性向けのヤツはいわゆる、「やおい」ってやつだ。
 というとこで何故、和葉が男性向けのほうを買うかというと、
「私ってさ、なんていうのかな?BLとか見るより、なんていうの、いじめられるほうが好きなんだよね♪」
とのことだ。
「マジ?」
「まじ。」
「え、なに?やっちゃったりするの?自分で。」
「にひひ、しちゃうかも。」
「マジ?」
「まじ。」
 コメントがしがたい。
和葉の思考回路についていくのは大変だ。でも楽しい。今はこれが楽しい。世界は自分のものだ。それがどう転ぶかは分からない。でも今、歩き続けるこの世界は、限りなく僕の望んだ世界だ。
 自分が正直でいられるのは、和葉という初恋の存在がいたお陰だ。そしてその存在は僕の近くにある。失いたくない。だから絶対に離さない。そう決めた。また同じ繰り返しにならないように。でも和葉は違うんだ。沙耶とは違う。このドM野郎のどこに魅かれたかは、わからない。それでも大切な、『特別』な存在なんだ。
 話している和葉の顔がとても可愛かった。
 素直に、皮肉もなく、ひとりの少女をかわいいと思えた。
「和葉、大好きだ。」
「もう、全く―――。へへへ、私も。唯君のこと、大好き。」
 これが本当の自分だ。思うままの自分と、自分の世界だ。
 これが僕の望んだ世界だ。
「私からも質問。いつから私のこと好きになった?」
 少し考えたけどすぐに答えが出た。
 決まってるだろ。
「さっき。」
 僕は歩き出すことになった。
 ただ、歩き出した初っ端、電車のギュウギュウ詰めに合うことは、予測してなかったけどね。

  * 唯 *
 もう一度呼吸をした。僕がまた生まれた。呼吸を始めた。僕の中の僕が、また生まれた。自分を知る自分が生まれた。いや、ずっと待っていた。僕の中で、僕を選んでくれることをずっと心の水溜りの奥底で待ってくれていた。
「おはよう。僕。」
 心臓の音が、ここまで響くものだっただろうか。生きてる。脈打ってる。生きてた。今まで絶えることなく心臓が続いていた。
「おはよう、僕。」
 もう一度、存在を確かめるように言った。
 僕は僕をずっと待ってたんだ。自分に正直になろう。ずっと僕がそう思ってくれるのを待っていたんだ。突き放されても、殺されても。それでも僕は僕を待っていた。
 僕は泣いていた。泣こうと思って泣いたんじゃない。ずっと僕を待っていた。息絶えた僕は、いつしかまた息を取り戻している。こんなにも僕は強いのだろうか?存在がないのにも関わらず、僕の中の僕は、とても強い。
 僕は強いとは決して思わない。でも僕には僕が見えた。
「おはよう、僕。」
 孤独を知った。暗黒を知った。悲痛を知った。そして喜びも知った。知ったことで見えた世界は、決して同じものじゃない。世界はどんどん新しくなっていく。同じ時間なんて存在しない。昔と変わっていないとかよく言うけど、決して変わらないことなどないのだ。変わることは寂しい。でも人間は変わらなくては生きていけないし、変わることは決して悲観だけではない。変わることは喜び。でも哀しみ。
 変わることという砂漠で葛藤した僕は、また歩き出した。そしてその道が、正しいとか間違いだとか、そんなことは分からない。でも一つだけわかることは、ここに命があること。命が続いていること。
 いつかは途絶えるその光は、僕だけのもの。
「おはよう、僕。」
 僕はまた歩き出す。砂漠には足跡も残らない。もう後戻りはできない。でも、人間は存在しているのだから、歩いていかなきゃ行けないんだ。
 僕は自分から、あの重苦しいトビラを開けた。リビングに向かうと、そこには当たり前の日常が広がっていた。
「おはよう。」
こういうと、
「唯、おはよう。」と料理を作る母親。
「おっはよー、眠いよぉ。」とコタツでうずくまる姉。
「ぅん。」と茶を啜り新聞を読む父親。
 返事をしてくれる家族がいた。
 今日は元旦だ。一年の最初の一日だ。僕が僕を見つけてから、知らないうちに年が明けていた。
「今日もどこか行くのか?」
 父さんに聞かれた。昨日まで3日連続でコミケにつき合わされていた。晃とも久しぶりに会った。
「あぁ、今日は友達と初詣。」
「彼女か?」
「まさか。」
 実際本当だが、気恥ずかしくてその場をごまかした。
 コミケの後、元旦に和葉と晃と僕で初詣に一緒に行く約束をした。一緒に居ることがここまで楽しいとは思わなかった。別段、気を使わなくても、晃も和葉も僕を認めてくれた。友達というものを知った。そして僕の位置を知った。
 僕が僕をなくしてから、僕を取り戻すまで知らないうちに時間がかかっていた。しかも、まだ僕は僕自身を取り戻してはいない。ただ取り戻す旅に出発したところなのだ。永遠に続く人生という名の砂漠を歩き出しただけ。その中で、僕の命は、妬まれ、恨まれ、嗤われ、そうして続いていくのだろう。
 ただ、僕の命をそうするだけじゃなくて、喜んでくれる人もいる。僕は決して不幸じゃないんだ。自分が見えない自分を、不幸せなやつだと決め付けていただけなんだ。ここに居場所がないと、すさんでいただけなのだ。
 どんなときも僕は僕だ。砂漠に埋もれても、蜃気楼で掠れても、僕の命は燃え続けていくのだ。
「いってきます。」
 そういって、僕は家を出て初詣に向かった。僕のいく先には、大切な恋人・友達がいる。それが心強かった。
 春の訪れは本当に近いところにあった。暖冬のせいか、既に神社の前では、たくさんの梅の花の芽が萌していた。
 新しい僕の始まりだった。僕の中の僕が萌した。
 そしてそれは、僕が僕であることの萌し。



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