第六章 葛藤




  * 唯 *
沙耶を失った。
 大切なものをなくすというのは、こんなにも―――。
「―――」
 家に帰って部屋にもぐりこむ。なんともいえない喪失感が漂う。痛みとも悔しさともいえない。苦しくもないのに、とても心が痛む。軋む。響く。
 ただ堪えても堪えきれない涙を必死で流さないように。弱い自分を誰かに見せないように必死でいる。
「沙耶―――」
 なくす悲しみは大きかった。ありえないほどの絶望、自分でも今まで感じたことのないほどの絶望、どうしようもない絶望。その「絶望」たちが、崩れ去った僕の周りをウヨウヨしている。
「―――く―――ひっ―――。」
 部屋は暗い。いつの間にか日は暮れる。時間は待ってくれない。もちろん戻すことも、やり直すこともできない。
 悲しみをどうすることもできなかった。
「ねぇ、唯。ご飯よ。出てきなさい。あぁ、そうそう。今日、早退したらしいじゃないの。大丈夫なの?」
 無視した。答える気にもなれなかった。答えることができなかったのかもしれない。涙がのどにつまって声が出なったのか。沙耶の前でしか泣けなかった。僕の唯一の心の支えだった。だから何があっても怖くなかった。沙耶という支えがあったからだ。自分を自分で維持するには沙耶の支えが絶対だった。心を殺さないためには、沙耶の支えが絶対だった。
 漆黒の暗闇の中に一つの輝きがあった。
 ナイフだ。僕が僕を殺し続けたときに使ったナイフだ。とんでもない猟奇な凶器だ。頭の中に甦る映像。
 血
 死体
 叫び声
 そして自分を殺している自分。
 どれも妄想の中での劇場にすぎない。ただナイフを自分に突きつけて、今日あった嫌なことを忘れる。
 そうして今まで生きてきた。
「―――。」
 ナイフを手に取る。また僕はこうして生きていかなきゃならないのか。こうして毎日のように自分を殺して、そして嫌なことは忘れる。周りにいいように見せておいて、弱い僕を絶対に見せない。
「ゴクリ―――。」
 唾は気持ち悪いくらい粘気を帯びている。
 このままナイフを自分に突き刺す。そしてこいつに変わる自分になる。そうすればすぐに楽になる。全て忘れてしまえばいい。そうして明日に繋げられればそれで生きていけられる。周りからいい人間に見られていれば、それでいい。周りから非難されるのが怖いから必死で今までも自分がKYにならないように。回りから疎外されない人間になるようにずっと努力してきたんだ。
「―――く―――ぐすっ」
 涙が溢れる。
 何故だろう。今までなら迷うことなく自分を殺しただろう。それが一番楽だからだ。何もかもの感情を殺し、自分を否定することで、明日に繋がっていた。それだから今日を、明日を生きれた。
 でも―――。
 僕はそのナイフを使って、殺すどころか自分にナイフを突きつけることもできなかった。殺したいと思う相手が、今日生きていた自分じゃなく、今生きている自分になった。ただとても自分から死のうとは思えなかった。死ぬ勇気がなかった。死んだ後は本当に怖い世界だって知っているから。
「沙耶―――。」
 死んだら沙耶に会えるのだろうか。
 死ぬだけで絶対に沙耶に会えるのだろうか。
「沙耶―――。」
 今の僕にはその名前を呟くことしかできなかった。

  * 唯 *
 次の日は僕にとって二度目の欠席となった。入学時に皆勤賞を取るといっていたのに、そのときの僕は、今はもうどこかに消えていた。
あの頃はまだ僕が純粋に僕だった。いつから僕は人目を気にしなきゃならなくなったんだろう。友達が変わったからかもしれない。小学校の頃は晃や和葉とか、幼稚だったおかげで今でもタメ口が聞ける。でも、僕の通うこの学校自体が違ったのかもしれない。有名私立校だったため、周りにいるのは、頭の固いのか柔らかいのか分からない連中だった。計算だの、文章だのやらせば頭のいい連中だった。ただその他の頭が悪すぎる。それでも頭がいい。頭が悪いやつに、嫌味みたいなことを言うと普通に恨みを買うだろう。頭がよかったら「くだらない」と流すはずだ。しかし流さずに、恨みを買って、しかも頭がそこのところばかりいいために、妙ないじめに遭う。その様子を1年間見てきたのだ。一年もしないうちに5人が、公立中への転校や、別の私立中学の編入を余儀なくされた。二年生あたりからだっただろうか。だから人間不信になった。この中学校の連中だけでなく、他の周囲の連中も、他人も、顔見知りも人目を窺うようになっていた。
「―――」
 昼間の沈黙が痛く響く。
 今日は雨だ。昨日の晩からどうも天気が崩れだした。春の晴れる日、雨の日の繰り返しから、夏の梅雨の季節に入る。五月はそういう季節だ。
 この家に防音とか、そういう類の便利なシステムはない。普通雨が降ったら、部屋の中には悶々とした湿気と、ザーザーと五月蝿い雨音が聞こえるはずである。でも、その音は僕に全く響かない。
 今日はいつになく沈黙がひどかった。
 大切な何かが、大切な音のキーがなくなったような。
 そんな感じがした。

  * 唯 *
 頭がぼうっとする。
 何もかもが歪んで見える。だるい。妙なだるさが僕を取り巻いている。何をするにもしたくないという感情が先に出てくる。
 外に出ることも―――
 立ち上がることも―――
 生きていることさえも―――
 何もかもがだるい。何もする気が起きない。
「―――」
 ただただ沈黙に呑み込まれていく。けだるさが僕をなくしてしまうような、僕から僕が抜け落ちてしまうような感覚がする。倦怠感でもない、喪失感でもない。なんともいえない感覚がずっと漂う。
「―――」
 時間が過ぎていく。ゆっくり、ゆっくり。
 時間が経つのってこんなに遅かったっけ―――。
 5分間ってこんなにも長かったっけ―――。
 起きていても、寝ていても時間はゆっくり過ぎた。全然過ぎて行かない。本当に時間がゆっくり経っていった。
「―――」
 それなのに起きることもできない。体が動いてくれない。動かそうと思っても、体が動こうと思わない。自由が利かない。
 どうすりゃいい?
 何を考えても、何をしようと思っても僕の体が動くことはなかった。ただ長く、ゆっくりと過ぎてゆく時間に、今は身を委ねるしかなかった。
「沙耶―――。」
 できることはその名前を呟くだけ。
 自分を殺したらどれだけ楽だろう。またいつかのあの日みたいに、毎日毎日のように自分を殺し続けていけたら、どれだけ楽だろうか。
 でも―――
「―――。」
 無音の沈黙がひどく響きだす。心臓の鼓動音が響き渡る。
 ドクッ―――ドクッ―――
 このままナイフに手を伸ばす。そして殺したい自分をそこに倒して、刺す。
刺したい。殺りたい。殺したい―――。
 それでも―――
「―――。」
 いつしか鼓動の音は消え、またあの沈黙に音を変えていた。
 自分を殺せない。殺そうとも思えない。殺したらいけない。そんな感覚が僕を取り巻いていた。
「沙耶―――。」
 結局何も出来ないまま、何百回、何千回もその名前をつぶやいた。
何もできない自分への失望、沙耶を失った失望。そのほかにもありとあらゆる失望感が漂った。
「僕は―――。僕は―――。」
 一日が終わる。長いようで短い一日が終わってゆく。
 雨はまだやまない。この様子だともう何日か降り続くのかもしれない。夜になっても夜にならない暗雲。ずっと限りない灰色の空。
 その感覚が妙に嫌だった。夕暮れ・漆黒の空。そうして時間は過ぎていく。時間とか季節はそういうもんだと思う。
 雨も季節の一つだ。雨が降らなかったら、水か無いとかそういう類の理由で、人間は生きていけない。でも今降るこの雨は、とてもいいものに思えなかった。雨が好きという人はそう多くはないと思う。でも今日の雨はとても
「嫌だ」
嫌だった。言葉に出てしまうほどの嫌悪感だ。
 その雨が、まるで僕の時間の感覚を奪っていってしまう気がしたから。その雨が、僕の光までもを奪っていってしまう。
 そんな気がしたから。
 時刻はもう6時。ここまで時間が経つのに、ものすごく長い時間を感じた。でも過ぎた時間を思い返すと、それは本当に短く、儚い時間だった。
「今は、何時だろうか?」
 時計を見て6時と分かっているにも拘らず、時間の感覚を失った。だから言葉に出た。今、世界はどう動いているのか。そんな感覚が襲った。目の前にある絶対の科学を、信用できなかった。
 本来なら夕暮れの茜色と藍色の交わる空が、ずっと同じ灰色の空だったからか。広がる黒色の灰が、遥か空の茜色と藍色を呑み込む。
 僕を残して、沙耶を呑み込んで行ってしまったような。
 空がそういう風に見えた。
 
  * 唯 *
時刻は夜になる。そろそろ起きよう。さすがにご飯くらい食べないと力が出ない。
「適当に何か作ればいいか。」
 そうして僕の一日は終わった。何もない。何も進まない。
 どうでもいい無為な一日が終わる。父さんと母さんの帰りは遅い。姉貴もバスケットボールの部活で毎日夜遅くに帰ってくる。
 ただ一人ぼっち。誰の助けもないまま、時間は過ぎる。
 明日を生きるという希望も見えないまま。

  * 唯 *
 翌日も雨は続いていた。
 学校には行かなきゃならない。ただ不安はあった。周りとの接し方がうまくできない。そういう感覚がした。
 雨の日の駅は無駄に混雑する。傘をはたく音、水に濡れた人の足跡、いつもより駅に響き渡る声。
 雨の日はこんなにも、厄介なものだっただろうか。
 電車に乗るのも傘とかの類のものが嵩張るせいで、いつもよりこんでいるように思えた。といっても、僕らの町のこの殺京線(殺生と東京を結ぶ路線だからだ)の上り方面はいつも大混雑なのだ。東京行きの電車は毎日嫌ってほど混む。
「苦しい・・・」
 そうして僕は学校の最寄り駅に向かう。
 学校の駅でのことだ。背中を後ろから叩かれた。
「よっ、大崎。」
「あぁ、久谷か。」
 現れたのは悪友(ある意味この学校での一番の友達)の久谷だった。こいつは僕が学校にいるときに、何かと出てくる。席が一年の最初で隣だっただけなのに、今ではこの学校で一番の友達だ。
「なぁ、またどっか遊びにいかないか?田川とか誘ってさ。」
 久谷、田川は僕がこの学校で、まともに話せる2人だ。田川は文芸部の、同期のメンバーだ。もともと文芸部には入っていなかったのだが、図書委員で部活の様子を傍から窺っていたら、書いた本を読んでくれ、とか言われているうちに、友達になっていた。クラスは今まで一度も一緒になっていない。久谷は3年になって違うクラスになった。そんなちょっと遠縁な友達だが大切な友達だった。
「悪い。ちょっと今回はパス。」
でも今はそれ所じゃなかった。何かで頭がいっぱいだった。まぁ何かなんて曖昧な言い方をしなくても決まっていることだ。
 沙耶―――。
「ぉーい。」
「あ?」
 はっと現実に戻る。
「おい、どうしたんだよ。ぼうっとしてさ。まぁいいや。適当に空いた日があったらメールしてよ。いろいろ予定組むから。」
「あぁ、わかった。」
「何だよ、元気ねぇな。」
「ちょっとな―――」
 元気がないのは分かっている。とてもノることができない。多分、久谷たちの誘いを断ったのは、一年のときから初めてだろう。友達と思ってきた人の誘いに乗れなかったのも初めてだったと思う。
 学校につく。いつも通り自分の席に着く。
 ただちょっとした異変を感じた。周りの景色がいつもと違った。周りの全てのものがつまらないものに見えた。
 友達も―――。
 勉強も―――。
 ありとあらゆる目に映るもの全てが、つまらないものに見える。何か自分がここにいること自体が妙な感じがした。背中にぞくぞくと、倦怠感のような感覚が走る。気持ちが悪い。だるい。
「なんだろう。この感じ。気持ちわりぃ。」
 僕はこの空間にいることが辛くなった。
 どうしようもなく、この場所に居たくない。そう思った。
 どうすることもできずに、帰る選択をする。周りからの視線が痛かった。ただどうしようもなかった。
 この場からどうしても逃げたかった。
授業が終わると、適当な理由をつけて早退した。別段、適当に切り取った紙に、体調が悪いだの理由をつけてその場を去ればいいだけ。
 そして僕は、学校を後にする。
「おい、大崎。なんだよ、また早退かよ!」
 久谷の呼びかける声が聞こえた気がした。
 僕はそれを無視して学校を跡にした。久谷が嫌いだったからじゃない。ただその場を一刻も速く去りたかったんだ。
 とにかく人と居るのが嫌だった。

  * 唯 *
 この日からだろうか。外に出るのが怖くなった。不思議と周りに溶けていくのがとても嫌になっていた。それは単なるこじつけの理由に過ぎない。自分の中でも自分が自分に納得させるしかなかったんだ。
 自分に正直になれなかった。沙耶がいない外の世界が、怖い。
 昨日は早退した後部屋にもぐりこんだ。そして今日の朝、ここに閉じこもったまま学校を休んでいる。
「昨日はどうして帰ってしまったんだろう?」
 そう言って見たものの、今ここに学校にいっていない、外の世界に出れない自分がいた。だめだ。だめだ―――。
 頭の中に色々な妄想が走る。一番最初に出てくるのはもちろん決まっていた。沙耶。その存在だけだ。その存在がどうしても忘れられない。沙耶がいない世界が信じられない。沙耶を失って、よろけている自分は、体勢を立て直すこともできずに崩れる。そして、そのまま立ち上がることもできないまま蹲っている。
 涙がこぼれ続ける。自分を見失いそうだ。もう自分が壊れてきた。どうしていいかも分からない。
 世界が歪んでみえる。外の世界と隔離された、自分の部屋という空間。クラッシックの音楽CDと軽いゲームたちや漫画。ひきこもりを存分するには食べ物と風呂以外は存分な環境があった。ただ何にも手をつけることができなかった。
 自分をひきこもりと、思いたくなかったわけじゃない。ただ異常なほどの喪失感。そのせいで何にも興味がわかなかった。
 それは僕がここで生きていくことも、その希望も奪ってしまうくらい、黒くて厄介なものだった。
 今日も天気は雨。体調が悪いといえば親はなんとも言わなかった。とても鬱だ。この雨が鬱を増大させるように強く響く。
「沙耶―――。」
 その名前をつぶやきながら、ずっと布団をかぶって潜り込んでいるしかなかった。それ以外の方法が見当たらない。ただ深く悲しみに浸る以外は何も出来なかった。それが何にもならないことも知っていた。知っている。
 それでも体は動かない。
 死にたい―――。
 本気でそう思った。沙耶のいない世界で生きているということが、どうしても耐え切れなかった。

  * 唯 *
 いくら自分の世界が変わっても、絶対に変わらないものがあることを知っているか。時間の進むスピードだ。いくら早く感じても、遅く感じても、時間が進む間隔は絶対に変わることのないものだ。
 長い時間さすがにこもっていると、いくら自分を気にしない親でも気にする。親というのは厄介なものだ。自分を心配しているのか、心配していないのかよく分からない。僕自身が、今まで親にできるだけ迷惑をかけないように、親から何か面倒なことを言われないように無駄に努力してたのもある。
 だから今まで僕の親は僕を放っておいたんだと思う。僕は心配ないから一人でも大丈夫。放っておいてもらえることが親にとっての僕へ愛だったと思う。でも僕は心配してくれない親に反感を抱いていた。
 愛の形をまだ受け止められてなかったんだ。
 それだから、改めて心配されるとそれがイライラに変わる。
 僕が学校を休み続けて1週間がたった。いつしか6月になった関東は梅雨がずっとあの日から続いていて、晴れの日が見られない。湿気た僕の部屋は、そのどんよりとした空気のせいで余計に重くなり、僕の悲観を増大させていた。
「ねぇ、唯。今日も風邪?いい加減病院に行ったら?」
「―――」
 もう何も言い返せなくなった。悲しくて、苦しくて周りの環境や人間についていけなくなっている。
 鍵をつけ、容易に扉が開かないように、椅子や棚をそこに置き、外の世界との交流・空気を遮断する。そうして自分だけの世界が出来る。何もない、実際は色々あっても別に使うわけじゃない。だから何もない世界。
 沙耶も僕も、周りの世界も最初からなければいい。だからこの世界は落ち着いた。ばかばかしい妄想の中の僕の城塞。
 そこでただただ泣く。それをここのところ毎日繰り返していた。不思議とトイレも食べ物もいらなかった。実際は無意識の内に部屋を出て、適当なものを食べて、トイレにも行っていたのかもしれない。でも自分の意識は今はただただ沙耶を追い続けているだけだった。自分がそれしか感覚が残っていなかった。
「―――。」
 涙を何リットル流しただろうか。それでも絶えず涙は溢れてくる。
「もう、僕は―――。」
 無力だ。何も動けない。何も出来ない。どうしようもない。もう完全に自分が動かない。僕が僕でない。僕はただ沙耶を見ていたい。でも見ていることなら別にひきこもる必要なんてない。
 ただ悲しみに耐える強さがなかったんだ。
 泣くしかできなかった。悲しみはそれでも連鎖する。こうして泣くことしかできない自分を見てるともっと悲しくなってくる。変わりたいと望んでいるのは自分だ。それなのに力が出なかった。沙耶のいなくなった痛みを糧にできなかった。
「沙耶―――。」
 雨は余計に強くなる。梅雨はまだ明けない。例年稀に見ぬ雨続きだ。僕の先がまるで見えないように、太陽もこれからどれくらい見えないのだろう?次に太陽が出る頃には、僕は立ち直っているだろうか?
「沙耶―――。」
 この陰湿な暗闇の中の部屋の中では、沙耶の存在は太陽よりも眩しい。でも誰もが気づくことがある。
この部屋には影しかない、と。

  * 沙耶 *
?月?日。
現在の時刻、不明。
 あの応答以来、
彼からの信号は、弱まり、途絶えた。
 彼は今、辛い思いをしているだろうか。
 苦しすぎる葛藤を―――

  * 唯 *
 僕の運命はこうして進んでいってしまうのか。
 もともと外で必死に自分を崩さずに、そして自分の中で自分を否定し続けた。そうしていつしか壊れて、自分を見失って死んでいく運命はまぬがれた。でもそのせいで、こうしてまた詰まってしまっている自分がいる。
 季節はもう一ヶ月が経っている。だろうか?もう時間の感覚がない。目の前の時計が刻む時間が本当でないような。そんな感じがする。
 親や姉も心配しだす。そりゃそうだろう。一ヶ月もこもりっきりの同居人がいれば、それは誰だって心配する。ただ僕にとって家族なんてものは赤の他人なのだ。
「唯、いい加減に出てきなさい。」
「―――。」
「唯、聞いてるの?唯!」
 無視する。もう言葉を返す気にもなれなかった。意識のある自分は、もう立つこともできない。ただ悲しみにくれるだけ。
 完全に迷ってしまった。人生という何本も分岐点がある道の上で、たまたま何もない、そんなところに出てきた。永遠と広がる砂漠。どちらが北だろう?どちらが正解の方向だろう?そんな迷いが、頭の中で響き渡っていた。右に行くか、左に行くか。まっすぐ行くか、引き返すか。
 悩んでいたらその場所で身動きが取れなくなってしまった。ただ途方にくれて泣くしかなくなってしまった。
 選択肢 ― 泣く
 これしか選ぶものが出てこなかった。
 ただただ虚しさという名の闇の中に、自分が蝕まれてゆく。この影すら溶けていく闇の中で自分の場所を。影じゃない僕を確かめるため。そして、悲しみという名の闇の中からただ沙耶が、僕を見つけてくれるように。
 期待をしているわけじゃない。泣けばどうにかなるってことを知っているわけじゃない。逆に泣いたってどうにもならないことは知っている。
 それだけど今の僕には身動きが取れなかった。

  * 唯 *
 既に季節は夏になっていた。ただ僕には今、自分がどういう環境にいるか分からなかった。
「暑い―――。」
 だから今は夏だ。時計の刻む音は途絶えない。それでも今の僕はこの時間軸に平行に歩いている気がしなかった。
 冬以来ここから出ている気がしない。それなのに時が止まったここは今でも寒い。電気毛布も夏だというのについている。まだ部屋のベッドには、分厚い掛け布団が乗っかっているままだ。とっくに外の世界は衣代わりが終わり、夏真っ盛りの夏休みといったところだろうか。もう夏休みだろうか。
「トゥルルル」
 夏休みでもうちの輩たちは忙しそうだ。電話が忙しなく鳴っている。イライラするくらいの電話の悲鳴だ。5分おきにかかってくる電話がとても嫌なものに思える。頭に響く。その音たちが余計に僕を追い詰める。
 不愉快な妄想に過ぎない。それなのにとても恐ろしく思えた。外の世界からの使者とかそんなようなとても怖いものに思えた。
「うるせぇ。」
 煩わしい。
 ウザい。
 電話をかけてくるやからは知っている。大抵は久谷とか晃とかだ。何で家にかけてくるかというと自分のケータイを切ったからだ。電源を落として、電池パックをどっかに放り投げて見れないようにした。だから家の電話にかけてくる。うるさくてしょうがない。
 それからもう一人。担任のセンコーからだ。毎日のように電話をかけてきているのは知っている。でもそれが嫌だった。
 自分の生徒の中にヒッキーがいるのだ。もともとできた僕が、変になるのを自分の責任だというのが嫌だからだ。だからここまで僕を呼ぶんだ。
 そしていつしか自分は勝手に部屋を出て受話器をあげて、勝手に部屋に戻って布団に包まっている。ここまで無意識の内に勝手にやっている。
 そうして余計に僕は僕を見失っていた。大嫌いだった僕が、中の僕じゃなくて今の僕が。恨みを買い、罰を押し付けていた中の僕を責めるんじゃなくて、それを咎められもしない僕に苛立ちと苦しみを感じた。
 今ここにいる僕に、とんでもない罪悪感が降りかかる。
「―――。」
 いつしか沙耶の消失は、悲しみとなり、それが自分の弱さをしる引き金となり、そしてその弱さを責める苦しみとなっている。
 自分ひとりじゃ何も出来ないという苦しさ。
 外の世界に出て行く気力がわかない苦しみ。
 そしてなにより自分が自分でないような―――。
 なんともいえない。苦しいのか、悲しいのか、虚しいのか。さっぱりわからない。だから迷ってしまった。
 人生は長い道だ。たくさんの分岐点がある。でもその道は一歩間違えると引き返すことはできない。長い間ずっと同じところを回っているような気がしても、そこは誰も知らない自分の歩いている道だ。全く違う道だ。
 我妻沙耶の存在も一つの分岐点だったのだ。
 あの時逃げていたら、今の僕はこうしていなかっただろう。毎日のように外で必死に強がっている。自分に素直になれない自分を前に出して、いい子ちゃんぶっている。それは周りから見れば、最高の優等生だ。そしてある意味便利な傀儡である。優等生になるか傀儡になるかは全く分からない。下手をすれば本当に命を吸われた人形になってしまう。それでもよかったのかというとそうでもない。
 この道は正解だ。間違ってなどいない。
「でも―――。」
 でも、それが今、正解・不正解だとは分からない。とても判断できなかった。判断するのは権利であり、義務だ。この先、絶対に答えを出さなきゃならない問いだ。ただ、迷ってしまったんだ。
 これは難しい問題だ。常人には解けないだろう。そもそも自分の中だけの問題なのだ。そこら辺のヤツに理解されてたまるもんか。でも今の僕は理解してくれる人を探していた。でも今その理解してくれる人は、いない。そのせいで僕は迷っている。だから分けがわからない。頭を抱えても、泣いても解決はしない。問題は解けない。そう分かっているにも拘らず、答えが出ることはない。
 不思議と。
 不思議に。
 だから今ここにいる自分は大嫌いだ。普通に考えれば簡単な問題だろう。でも答えが出ないんだ。
「お前の問題なんだから、お前が解けよ、バカヤロウ!」
 誰だ。
 声の発信源は僕じゃない。でも明らかに僕から聞こえた。
 知らないうちに眠りについていた。何というか、眠りにつかされた感覚がした。不思議と眠った気はしないのに寝ていた。

  * 名の無い自分 *
「お前の問題なんだから、お前が解けよ、バカヤロウ!」
 とっさに声が出た。俺は誰だ?
 俺の目の前にはずっとこもっている、人生のクズみたいな野郎がいた。なんというか目の前に現れたのは今が初めてだ。ずっとこんな弱いこいつにずっと俺は抑えつけられていた。だけどこいつがいないと俺はいない。何せ俺は俺だからだ。こいつの中のこいつだ。この泣きじゃくってる野郎のもう一人の俺だ。
 名のない自分だ。「唯」って名前があるこいつがうらやましい。こんな野郎に俺はずっと抑えられてきたんだ。こいつ自身がこいつ自身を肯定するために、俺は今までずっと犠牲になってきた。
 それなのになんでこいつに声をかけたんだろうか。
「この野郎!」
 いつの間にか思いもよらぬ苛立ちを覚えた。始めてあった俺の主。そして俺が一番嫌っているはずのヤツ。何故かはわからねぇけど、何故かこいつがここにいる。怒りをぶちまける標的が目の前に。
「誰?」
「わからねぇ。俺も誰かわからねぇしな。」
「―――なんだよ、それ。」
 目の前にいるやつは、何も分からない顔をしている。しているだけで本当は気づいているのかもしれない。
「知るか、バカが。」
 こいつは本当は強いんだ。強いからこそこうして悩んでしまっちまったんだ。俺は本当は弱い人間だ。でも俺はこいつといるしかない。こいつに縋り付いてしか生きていけない存在なきこいつ自身だ。
 だからこそ俺はこいつとして、こいつをどうにかしなきゃならない。大嫌いな弱くて強い俺自身だ。僕ってヤツだ。頭がよすぎて柔らかくなった分、違うところが滅茶苦茶固くなった敏感で鈍感なわけのわからないやつだ。でも嫌いになっちゃいけない。決して否定しちゃいけない俺自身だ。
 そして今だ。
 今、何故かはわからない。それでも目の前には俺が、僕がいる。俺であって僕である自分が目の前にいる。
 姿かたちは見えない。影。影以上に影。そして周りには果てなく闇。漆黒の闇に解ける影の中の、影じゃない影を探すのは一苦労だ。それでも間違いなくいる。それが僕の存在そのものだ。
「お前、俺が見えるか。」
 沈黙。俺の声は闇に吸い込まれる。でも音が返ってくる。俺の反射じゃない声。そう、僕の声だ。
「見えない。でも―――聞こえる。君は誰?」
「他の誰でもない。お前だ。」
「意味分からないよ。」
 それはそうだ。どうしようもない笑い声が聞こえる。それが温かかった。俺の見た僕の温かさだ。
「あのさ、本当に聞きたいんだけど、君は本当に僕なの。」
「俺はお前だ。」
「ええっと、何かの冗談かい?くだらないことは言うなよ。」
「信じろ。お前は俺の味方だ。」
 声が聞こえなくなる。冗談じゃない。俺は真面目に応えた。表情が見えないこの闇の中でもわかるくらい必死に。
すると向こうもこう応える。
「それ、ちょっと前に僕の大切な人が言ってた。」
 沙耶だ。
「沙耶だね。」
 彼の大切な人。俺にとっても。僕の存在を変えてくれた存在として。でも俺は沙耶の存在は必要で不必要な存在だ。彼女の存在は恐らくこいつ自身の欲望の塊だ。自分に素直になりたいこいつ自身の強い願いの象徴だ。そしてその願いは何故か叶った。願いを通す存在、自分の背中を押してくれる存在が沙耶という形で現れた。だから思う。沙耶がもし一般人だったらこんなことは普通、起こるわけがない。
 彼は驚いた様子を見せない。そんな気がする。影の中の僅かにわかる彼の呼吸や心臓音。その鼓動が乱れもしなかった。
「知ってるの?」
「あぁ、知ってる。」
 俺も僕も黙り込む。話が続かない。僕のほうは俺を絶対にいい奴とは思わないだろう。俺は今までずっと彼に嫌われた存在。そんなやつが何を言っても通用しない。ただどうしても警告しなきゃならない。
「お前、いい加減、沙耶の存在がニセモノだって気づけ。お前以外、誰も存在を知らない。そしてその存在自体はお前による形成だ、って。」
「ドカッ!」
 一瞬だった。見えない存在に殴られた。殺されるくらい強く、右頬に食い込むようなとんでもないグーパンチだった。
「黙れ、黙れ!ふざけるな!好き勝手言ってんじゃねぇ!」
 僕が暴れだした。僕が見失ってる。俺はそれを何もすることも出来ない。何も見えない。それなのに、俺は僕に殴られた。
「沙耶は、沙耶は僕の―――僕にとって、た、たった一つの光だったんだよ!お前に何が分かる。何が見方だ、ふざけるな。お前なんか、お前なんか死ね、斃れ、消えろ、消えろ、バカヤロウ―――あああああぁぁぁぁぁ!」
 僕じゃない、俺が知ってる僕はもういない。俺が何を言ってもこの場は何にもならない。誰か第三者に彼を救ってもらわないと、俺は。
「沙耶は!沙耶は僕の全てなんだよ。たった一つの光なんだ!」
 狂っている。そう言い表したほうがいいか。彼の闇が途轍もないくらい大きな晦冥を作り出している。その黒さといえば果てしなく黒。「真っ黒」とか「どす黒い」とかそういう類の色じゃない。尋常じゃない空気が流れる。何もない闇の空間に、身の毛もよだつようなそんな空気が流れる。
 それでも俺は僕だ。俺として、僕にいくら嫌われようとも、俺は俺の信念を通さなきゃならない。彼はこのままいったら死ぬ。死にに行く。
「お前の存在は闇そのものだ。でも考えろ。沙耶が光だったら絶対に闇と混じったらだめなんだ。必ず闇と光のどちらかが勝って、どちらかに呑み込まれるんだ。お前か沙耶のどちらかが消えるんだ!だから沙耶はいなくなったんじゃないか。お前と沙耶が交わったらお前の存在が消えるんだ。双方の消失もなく、どちらかが取り残されるんだ。沙耶はお前を信じた!だから闇のお前がこれないように、惜別って壁を張ったんだろ。お前がその扉を開くようなら、それは沙耶を裏切ってるじゃないか!」
「黙れ!うるせぇ!」
 刹那、俺の存在が抹消された。
 彼の中で「どうしても強がっていたい。そして自分を肯定したい。」その感覚だ。それでも耐え切れなかった。俺は僕自身だ。それだけ沙耶の存在は僕にとって大きかったのかと改めて思った。
「誰か。」
 自分の影が闇に溶けてゆく。真っ暗な状態から真っ暗な状態に。何も変わっていないその空間。
 でもそこには、影じゃない俺がいた。
「誰か。」
 もう一度。
 誰かに頼ってはいけない。そしてその存在は第三者だ。だから同じことを繰り返す。でもそれしかない。もう僕は自分ではどう仕様もできない。
 それでも信じる。
 ひとりでも僕が僕でいられるような、その存在を信じた。
 俺の存在が消えた。跡形もなく。

  * 沙耶 *
 ?月?日。
 現在の時刻、不明。
 人と出会った。
 このただひたすら透明な空間の中で、
 存在なき人の影だ。
 彼のことをよく知っているようだ。
 またその人も彼の事を思いながら存在を消された人物。
 彼の信号音は弱まるばかり。
 それでも僅かな兆しがあることを祈る。
 応答願う―――。

* 唯 *
 悪夢とは何のことを言うのだろう。
 また、自分の中の自分が消えたような。そんな夢を見た。
その自分の中の自分の存在は消えたのではなく、僕自身が消したといった、そんな感じだ。
 目が覚める。目覚めが決していいものだとは思わなかった。なんともいい辛い蟠り。妙な感覚。気持ち悪い。背筋に妙な感覚が走る。チック症とは違う、震えのような感覚が走り抜けていく。
「悪い夢だ。」
 何もしてないのに人を殺したような。そんな感覚がした。いや、感覚じゃない。僕は取り返しのつかないことをしたのかもしれない。
「あれは誰だろう。」
 疑問形なのもおかしい。あれは僕が大嫌いな存在だ。僕自身の本音なのかもしれない。それでも、僕は僕を信じられなかった。
「僕はあと何人、見方を失えば気が済むんだ?」
 人と話したのは久しぶりだった。話したのは夢の中だ。それでも僕は、大変なことをした。大切な僕を知ってる見方を捨てた。
「もう、ダメかも―――。」
 既に思考停止状態だった。何をしていいかももう何も考えられない。迷ったというよりは、人生の砂漠の中で埋もれてしまった。
そんな感じだ。
死んだほうが何倍も楽だ。
 夏の暑さが余計にその妄想のような感覚を呼んだ。死んでしまえばいい。そして新しい世界を作るんだ。新しい世界に沙耶と一緒。それでいい。
 もう自分を完全に見失った。
「僕を呼んだあの声は、誰だっけ―――。」
「そもそも、僕は何だっけ―――。」
「僕は―――。」
 何もかもを見失う。そんな感じがした。
 もう、何も見えなくなっていた。
 死にたい。息を止める。
 苦しい。とても苦しい。頭の中が熱くなり、涙が溢れ出してきた。とても苦しい。
「苦しい、苦しい、苦しい。でも息をするな。死ぬんだ。」
 と強く心で思ったものの、結局2分も経たないうちに、再び呼吸をしてる。まだ僕は生きている。
 心臓が続いている。寿命の終焉はまだまだ遠い。
 悔やむ。泣き喚く。
 完全に身動きが取れない。何も見えない世界で、孤独な自分が一人。



  * 存在無き者 *
 忘れないで、思い出して。



  * 唯 *
 やけに騒がしい。
 僕が僕でなくなってからどれくらい立つだろう。もう、意識のあるうちの僕はほとんど分からない。人を殴っただろうか、泣いて喚いていただろうか。そういうことを、全然覚えていない。全く思い出せない。
 何もかもを。自分を見失うとこまで見失った。その中でもまだ沙耶の存在がずっと僕の中にいた。
 騒がしいのは家の連中か。僕がここにこもりっきりになったことを嘆いている。今までなんらへんなところがなかった僕自身の対応に戸惑ってしまっているのだろうか。でも、そんなことはどうでもよかった。
 もう誰が誰だかもわからない。聞こえるのは家族の声だろうか。ただの他人の嗟嘆の合唱にしか聞こえない。もちろん嘆きの理由が自分のせいだということなどわかるわけがない。もう全てを失った。
 家族の存在も―――
 友達の存在も―――
 自分の存在も―――
 自分の名前も―――
 唯一の味方も―――
 沙耶も―――
 大崎唯というもの全てがなくなっていた。今ここにいるのは生かされるだけの傀儡。わずらわしい人形。呼吸をしてしまうような地球のゴミ。
 それが僕だ。
 何も見えない。それなら消えたほうがいい。ここまでしてまで呼吸が続くことが許されるのか。それなら今消えてしまったほうが、全てのためだ。人も、地球も喜ぶのなら僕の存在なんていらない。
 僕が僕を要らないといってるんだ。そうだ。
「死のう。」
 そう決めてからどれくらいの日数が経つだろう。もうずっと死ねないままここにいる。わからないがだんだん布団のなじむ季節になっていた。秋は颯爽と過ぎ去り、厳しい冬の寒さが始まる。
 すでに僕が閉じこもってから半月を過ぎ、月日は師走を迎えていた。寒さも暑さもどうでもいい。自分を見失っているときはそういった感情は全く分からない。ただ本能で食べなきゃ死ぬとか、老廃物を排出しなきゃ病気になるとか。そういうことを気づかずにしている。だから死ねないんだ。信念や自分の意識が薄いせいだ。そのせいで死ねない。生かされている。それが一番の問題だった。
 外は相変わらずうるさい。出て来いだの、ちゃんと話そうだの。必死なのか泣き喚いてるのか分からないような声が響いてくる。
 涙はもうでなかった。沙耶のことで頭はいっぱいだった。だから沙耶と離れた気がしなかった。妄想という名の世界でずっと一緒にいる。そう思い込んでいる。それが崩れたら僕は耐えられないだろう。でも今は夢の世界に縋りつくしかなかった。
 夢の中の世界は楽しい。自分の理想の沙耶という像がそこにいる。でもそれは虚像。それは自分でもよく分かっている。それでも僕にはそれしかない。でもそれは虚像。でもそれは僕にとって大切なもの。でも虚像―――。
「もう、わからない。」
 誰もが、周り物者が全部つまらないものに見える。そしてくだらない縋りつく自分も本当につまらない。
 もう限界だった。妄想に縋りつく自分も、煩わしすぎる外の奴らも、外の世界の恐怖に耐えようとする自分も、全部いらない。
 砂漠は永久に広がり、僕を孤立させる。この孤独という状況で、死ぬか歩き出すか。歩き出す選択肢は、横に※注付で「この道は辛いです」と書いてある。僕はどうすればいい。引き返すことも他の道に行くこともできない。道は無限と広がり、分かれている。その中でたった2つだけ道標がっている。
 それがこの二つだ。どっちに行っても、それ以外の方向に行こうとも間違いのような気がした。僕は何をしたいんだろう。僕は沙耶にあって何を学んだんだろう。僕の生きる道は、どれだろう。
 僕の目指した僕は何だっけ。
 そんなことよりも、一刻も早く地球上から存在を消したかった。もう、世界で生きていけない。
 僕はトビラを開けた。最悪の未来に向けて旅立った。
 道 ― 選択 ― 死

  * 沙耶 *
 ?月?日。
 現在の時刻、不明。
 彼からの救難信号が聞こえる。
 だれか彼を止めないといけない。
 警告を。

  * 唯 *
 トビラを開けて、ダッシュで家を出て駆け抜けた。階段を上に上り、高層マンションの屋上に向かう。最上階の一五階で降りる。そこから屋上に行くには、横の非常階段でしかない。そこは普段進入禁止のフェンスがある。でも今の僕にそんなものは子供だましの邪魔者でしかなかった。侵入防止のフェンスをよじ登る。高さは2m以上あったのに、軽々と登れた。何故だろう。死ぬ前はこんなに力が出るもんなのか。火事場のバカ力の逆のような。死にに行こうとしているのに力が沸く。不思議だった。
 冬は着々と進んでいた。寒い。屋上には冬以上に冬の北風が、吹きしめていた。何ヶ月もこもっていたせいか。髪の毛はここまで伸びていたのか。自分の異常なほどに多い髪の毛が冬の北風になでられる。
気持ちいいのか、気持ち悪いのか分からない。それでも妙に心地よい風だった。久々に風にあたった。
 目を閉じると、そこは僕の望んだ世界が広がる。足をもう一歩歩けば、その世界が現実として見えてくる。沙耶に会える。
 目を開けると、そこには限りなく綺麗な夜景が広がっている。殺生駅に広がるネオンのいろは闇夜の中に光り、とても美しく見える。外の世界ってのは、こんなにも綺麗なものだっただろうか。
 風がとても清々しい。冬が寒くて本当によかったと思う。ただの風も、空気も。多少ながら澄んでるように感じるから。本当は木々が枯れるせいで、光合成が行われないので、二酸化炭素が増えて汚い空気のはずなのに、空気が冷たいってだけでそれがとても澄んだ気持ちのよい空気に思える。
 一歩前に立つ。マンションのコンクリートが見えなくなるところまではあと数センチだ。一歩でも進めば落ちる。
「僕の人生ってなんだったんだろうな。」
 改めて思う。死ぬことってこんなに怖いことだったんだって。死後の世界には何があるのだろう。沙耶に会える保証なんてない。でもこの世界に僕の求める沙耶の存在はもうない。だから僕は今死のうとしている。
「僕がここにいるのってなんだっけ。」
 もう考えられない。興奮して意識が整理できていないのでもない。ただ沙耶を失ったってだけで、沙耶の存在の意味、そしてそれが自分の存在の延長となるということが、どこかで抜けてしまったのかもしれない。頭が悪くなったんじゃない。ただ身動きが取れなくなってしまったんだ。それでどうしようもなくなってしまった。それだから僕は今こんなばかげたことをしている。
「何だっけ―――。」
 何も分からない。
 ただ、この先に見える闇は、何らかの形で僕をいざなおうとしている。存在を喰らう闇。そして存在し光。光に照らされる存在する闇は、光に呑み込まれてしまうのだろうか。だとしたらこの先の闇は、今闇として成立している分、光ですら呑み込まれてしまう。抗うことのできない闇だ。
 僕は光、それとも闇。
 闇だったら怖くない。闇だったら闇に溶けても闇なのだ。だから怖くないはずだ。それなのに何故だろう。足が竦む。手が震える。僕の体には必死で闇に溶けまいと抗う反応を本能的に見せているじゃないか。
 僕は闇だ。でも闇じゃない闇。必死で光になりたがる闇だ。
 必死で、ただ必死に光になろうとした、おろかな影だ、闇だ。その存在は光がないと見れない。影は光がないと存在できない。闇の中での影は、存在の見えない存在。だから光がほしかったんだ。僕を照らしてくれるライト。僕を照らしてくれる太陽を。
 でもそれはできない。光と闇は交わることができない。光と闇が交わったら、それこそ闇がかき消されてしまう。
 沙耶が光だった。闇の中にきてくれた僅かな光だったんだ。闇の中で呑み込まれることも泣く、闇をかき消すこともなく、存在できた唯一の光だったんだ。唯一の僕にとっての影を照らしてくれる太陽だ。
 それを失った。
 失った悲鳴は大きい。自分の存在をちゃんと照らしてくれる光が消えてしまい、また同じような暗闇の中で過ごす。これに耐え切れなかったんだ。だから僕は光のほうへ行こうとしている。それは自らの存在をかき消すことと同じこと。つまり「死」である。それを決めるのは自分自身。僕はどちらを選ぶこともできずに硬直している。闇と光のどちらで過ごすか。僅かな光もない闇の中。それが僕の周りの世界。そして唯、一つの光の世界。それが沙耶といた世界だ。
 迷いに迷ったあげく、光のないところに耐えられなくなった。
 それだけなのに、どうしてだろう。自分で出した絶対の答えのはずなのに、自分の意識とは別に僕を食い止めるやつがいる。手足が動かない。頭の中は「後、一歩前に進むだけ。そうだ、飛びたて、早く。」といっているのに、体の自由が利かない。意識が、自分の脳内の信号が体の細部まで届いていない。
 僕の闇の心。
 僕が光になりたいと思う心。
 それが交じり合って、体の自由が利かなくなっているんだ。動かない。苛立ちと悲しみが立ち込めてきた。僕の死か生か。それを考えていたら動けなくなる。
「なんで僕はここまで悩まなきゃならないのだろう。」
 悩んだ。それでもわからない。
 しかし、本当は既に気づいていたのかもしれない。ただそれを肯定するのが嫌だったんだ。だからわざと迷子になっていたのかもしれない。
 とっくに気づいていたのに、気づかないフリをしていただけなのかもしれない。正しいのに正しいと思えなかった。
「ここから飛び立つことは―――。」
 正解、不正解。選択の判断は僕だけに。
僕だけの葛藤だ。



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