第五章(後半部) サヨナラ
* 唯 *
探した。
待った。
けれども沙耶は現れなかった。僕は、俺を信じるしかなくなった。大嫌いな自分の見解を信じるしかなくなった。
僕を、「僕」と言えたのは沙耶だけだった。自分を偽らなかったのは、親でも兄弟でもなくただ一人の別の存在だった。
「沙耶は、僕を試したんだ―――。」
そう思えた。そう思うしかなかった。でもなぜ?なんで僕を残していくのか。何で消えなきゃならないのか?それが不思議で不思議でしょうがなかった。そもそも、何で僕を試したんだろうか?
「僕は正しいことをしたのか?」
沙耶に暴行を振るった自分を、俺を悔やんだ。
僕の沙耶に何しやがってんだ。ふざけてんじゃねぇ―――。
自分の頭を何度も何度も叩いた。悔しくて、悔しくて涙が溢れた。何故かはわからない。
ただ沙耶を失ったことが、他の自分に沙耶をとられた気がしたから。自分の生きる希望をなくしてしまった気がしたから。
僕は強くなった。
強くはなった。
でも、それはハリボテの強さで、本当の強さじゃない。沙耶という支えがないと、簡単に壊れてしまうとても脆いものだった。今の僕は沙耶以外の支えがなかった。支えを自分でつくろうともしなかった。「沙耶」という名の柱の支えが見つかるのを待っていた。ただ、立ち尽くすしかなかった。
「明日になれば来る。きっと。今日はたまたま、これなかったんだ。」
さっき気づいていたはずの、沙耶が消えたということが、また薄れてしまった。無い存在が出てくるのを、指を舐めて待っていることしかできなかった。
既に回りは漆黒の闇夜に包まれていた。時刻はとうに九時を回っているだろう。春の夜空には、暗闇を照らす乙女座が高い位置に見えた。
うずくまっているところに一冊の本があった。
「んっ?」
何故気づかなかったか分からない。二人がよく話した木の下の。それでもって、こんなに目立つところに置いてあったのに、今まで全然気づきもしなかった。気に立てかけられていた本を掴み取る。
「銀河鉄道の夜?」
かすかな月明かりに照らされた明かりで文字が見えた。銀河鉄道の夜といえば、宮沢賢治の名作中の名作だ。本来は存在なき作品だった。宮沢賢治が生前に発表できなかった未定稿の作品だ。研究者が何度も推敲・検討して、ようやくまとめあがった不朽の名作だ。でも何故そんなものがここにあるのだろう?
それとなく本に手を伸ばし、パラパラとめくった。暗かったせいで文字は全く読めない。分かることは、ハードカバーで、なかなか上手な挿絵が書いてあって、表紙の絵もなかなかきれいなことくらい。後ろに何か貼ってあった。
「殺す・・・西?」
一瞬何が書いてあるかと思ったが、少し目を凝らせば簡単なことだった。僅かな月明かりによって照らされた文字。それは、
「殺生西口図書館!」
だった。思わず大声を出してしまった。図書館の書籍が何故こんなところにあるのか分からない。もともとこの殺生市で一番地味で小さな殺生西口図書館は本を借りる人も少ないし、町でも一番、廃館になりえる確率が高い図書館だ。なおかつ小さいため置ける書籍も少なく、この図書館にある本は、他の図書館に行ってもだいたいあった。
しかし、なぜその図書館の本がこんなところにあるのだろう。誰かが嫌がらせで置いていったのか。
「図書館は7時でしまっちゃうしなぁ。明日の朝にでも、戻せばいいか。」
図書館には夜間の返却ボックスはなく、空いている時間に館内にある返却ボックスに返さなければならないという面倒なシステムだった。西口図書館は普段空いているため、試験勉強をするのに絶好の場所だった。そのせいでこの図書館についてよく知ってたし、図書カードも持っているし、知っている人もいた。
世話になっているお返しに明日にでも返しに行こう。
何となくそう思って、その本をとり、僕は公園を去った。
西口の空は明るい。星の光がまだ届く。東の汚れた空は、ほんの五分こちらに来るだけで、ある程度、清い空になる。それでも北極や南極で見る空に比べれば、汚くてしょうがないのだろう。
空を見上げた。星が輝いていた。漆黒の暗闇の中に、光り続ける鮮やかな星。そうして空は晦濁の空を演出するのだ。月光、暗黒。それが調和してこの美しい空が成り立っている。僕の望むものは、この宇宙にあるのだろうか。この空よりももっと尊き存在が、僕にはある。今日はたまたま、会えなかっただけ。
多分。
「沙耶、明日は来てくれるよね。」
僕の声は、自分に響くこともないまま、このきれいな空に呑み込まれていった。自分を信じれていないからだ。
このときの僕は、僕じゃなかったのかもしれない。あまりにも弱き僕を、僕が認めたくなかったんだろう。
* 唯 *
家に帰ったときは、もうすぐ一〇時を回ろうとしていた。
「ただいま。」
「あぁ、やっと帰ってきた。心配してたのよ。」
「ごめん。」
「どこ行ってたの?何それ、本?図書館行ってたの?」
「そう。」
「勉強?」
「そんなとこ。途中で気分よくなったから。」
「あらそう。ねぇ唯。ご飯は?」
「あぁ、ごめん。適当に出しといて。適当に食うから。」
「そう。じゃぁリビングにおいておくから。」
適当にごまかして部屋に戻った。嘘はもうなれていた。嘘無しで世の中生きていくのは無理だから。自分が今、どれだけ嘘に染められているのか分からない。それでもうそが必要だったんだ。
手には銀河鉄道の夜。読んだことは何度もあった。本は大好きだ。読むのも書くのも。ノートパソコンの中には、自作の物語がたくさんあった。本はいい。特に物語。有りもしないことを書ける。そしてそれが評価される。自分の理想・嘘・感情。それを非難されることなく書き表せるからだ。ありもしない話を書いても、現実それで食べていける人はたくさんいる。魔法少女とか、メイドさんとか、ネコ耳とか。そういう馬鹿馬鹿しい存在すらも、ちょっとストーリーが良ければ、それなりの評価の対象となる。
銀河鉄道の夜も例外とは思わなかった。物語なら、巨匠の宮沢賢治も、その他の作家も、若手の無名作家も。はたまたギャルゲーやエロゲーのノベルを書いてる人も、みんな同じだと思った。書いていることは理想郷。現実にはありもしない話なのだ。でも物語は好きだ。あざ笑うために、貶すために存在してるんじゃない。物語は、結局のところ「そんな話しあるわけない」で、全て済んでしまう。でもそれは作家の理想。そして僕も同じ。理想を文字にして気分を落ち着かせるんだ。だから物語は好きだ。
でも巨匠と呼ばれる天才と、そこらへんの作家のどこが違うか。それは自分の理想がかけているか、書けていないかだ。お金のために必死で考えた感動できるストーリーも、つまらない。純粋で作者しか知らない世界。それを探ってみたい。それを誘うのが物語だ。感動とかそういんじゃない。自分の理想の中で動く世界を他人に知ってもらいたい自己満足。それを知るのが物語だと思う。
だから宮沢賢治は好きだ。短い人生の中で、彼の中の「イーハトーヴ」の世界は、理想郷であり、彼の思いそのままだったと思う。そしてそれを文字にできる。それは本当に尊敬すべきところだ。自分の思いや理想を文字にするのは本当に難しいのだ。物語を書ける人がうらやましく、憧れだった。
「宮沢賢治・・・ね。」
何年か前に読んだその本。内容はきっちりと覚えている。
布団に寝転がり、本をパラパラとめくる。最初のページだけを見て、「北十字」「活版所」「鳥を捕る人」いろいろな物語の記憶が蘇った。
「なんだこれ?」
本の序盤のところに一枚の紙が挟まっていることに気づく。
二枚折にされたその紙は、クレジットカード程度の大きの普通のぺらっぺらの紙で、ただのメモ用紙のようにも取れる。
「何か書いてある?」
そこにはこう書かれてあった。
「あなたの心の親友より」
と。
どういう意味かさっぱり理解できなかった。心の親友?一体何が言いたいんだ?この本の借主か?
しかし、その紙の反対側に驚くべき文字が書かれてあった。めくったときは二枚折の反対側に位置していたのだろうか。最初は気づかなかったがこの本の借主、そして僕の心の親友。恋人。理解者。
「沙耶より」
僕の全て、沙耶から送られた最後のメッセージだった。
* 沙耶 *
?月?日。
現在の時刻、不明。
現在に至るまで彼からの応答は、なし。
* 唯 *
沙耶からの手紙だった。
何が言いたいのかよく分からない。
「あなたの心の親友より」
これが何を暗示しているのか。沙耶は僕の親友でもなんでもない。恋人であり、僕の唯一の理解者だ。
「心の親友」
そうか。沙耶は親友じゃない。でもかけがえのない存在だ。心の親友。ずっと永久に繋がっている目に見えない存在。とでも言いたいのか?
この手紙は何をいいたいのか、さっぱりわからない。でも単純かつ単純なトリックなのかもしれない。
何故か分からないけどそう思った。漫画や物語の読みすぎだろうか。妙に勘が冴えた。
推理する。まずは分かっていることからまとめる。
その一。これはあの木の下で見つけた本だ。沙耶からのものに間違いはない。
その二。本は殺生西口図書館のものであり、本とタイトルは著宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」である。
その三。紙には「あなたの心の親友より」と書かれている。
さぁ、推理だ。
といっても、漫画に出てくるような天才探偵のようには、解けない。でも何となく分かるものがあった。心の親友。それはこの物語にある。
銀河鉄道の夜の主人公「ジョバンニ」は僕に似ている。内気で自分を前に出せない。弱い人間だけど、本当はすごく強いものを持っている。強い心を。親友の「カムパネルラ」のためなら漆黒の暗闇の穴の中までも一緒に行けると言える。とても強い主人公だ。カムパネルラはジョバンニを一緒に死なせるわけには行かない。だから自分だけ消えていった。ジョバンニはカムパネルラの死を知る。それでもこのときジョバンニは暗闇への行き先は「死」だということを知っていたのだと思う。それが心の親友。
「カムパネルラ―――。」
沙耶の言いたかった心の親友は、このことなんだろうか。
「ん、待てよ、カムパネルラ。どっかで聞いたことある。」
カムパネルラ。その単語を「銀河鉄道の夜」以外で聞いたことがあった。必死で思いだそうとした。
なかなか出てこなかった。頭を抱えて必死に思い出そうとしたが、答えは一向に出てくれない。
しかし、答えというものは意外とあっけないところにあるものだ。顔を上げ、ちょっと周りを見回した。それで「ぴん」ときた。
「超絶?」
視界にその文字が入ってきた。はっとした。最近テレビ番組でよくやっている「アハ体験」がとんでもなくリアルに。「アハ」が脳内のいたるところに響き、流れ渡った。僕は視界に入ったそれを手に取る。
「リスト・パガニーニによる超絶技巧練習曲第三番『ラ・カムパネルラ』嬰ト短調。パガニーニのヴァイオリン協奏曲第二番ロ長調の第三楽章のロンドを主題にリストが作った、名曲中の名曲だ。そうだ、鐘のロンドだ。」
目の前にあるものは、お気に入りの作曲家のリストのクラッシックCD。かなり有名な合奏団が演奏した価値あるものだ。それで「ぴん」ときたんだ。
そしてもう一つ。カムパネルラだ。直訳すればイタリア語で「鐘」だ。
「わかった。」
ひらめくと人間は頭が何回でも回転してしまいそうだ。
「鐘」で頭に出てきたのは、クラッシック音楽に関連した人物について発行している「天使の鐘出版」という有名な出版社だ。殺生西口図書館で取り扱っていたかは知らない。でももしかしたら―――。
「天使の鐘出版のリストの人物辞典の中だ。」
そう確信した。飛び上がりたくなるほど、面白いように解けた。今度あったときに沙耶に自慢してやろう。そう思って久々に思いっきり笑った。ベッドで久しぶりに飛び跳ねた。嬉しくてしょうがなかった。
「へへへ、僕ってすげぇ♪」
途轍もない達成感が僕を取り巻いた。めったに味わうことのなかった「喜び」がこんな妙なところで味わえた。
そう思ったのもつかの間、ちょっとした消失感に苛まれる。
「沙耶に、また会えるのだろうか?」
その不安が僕の中をよぎった。沙耶に会えないと思うと怖くなった。何も考えたくない。絶対にまた会える。今日はたまたま会えなかったんだ。
そう自分に言い聞かせて、知らず知らずの内に深い眠りについていた。机の上には、銀河鉄道の夜、リストのCD、沙耶の手紙が無造作に置かれていた。
彼の眠りを見守るように。
* 沙耶 *
?月?日。
現在の時刻、不明。
現在に至るまで彼からの応答は、なし。
* 唯 *
パガニーニは天才だった。当時の人々は、パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」と噂されたほど絶賛した。病弱だったが、恐ろしく柔軟な左手で超絶技巧を手にした天才だ。リストやシューベルトも影響を受けたが、慢性の咳、梅毒。治療のためにアヘンを投与。そして結核と誤診され、甘汞(塩化水銀)を飲み、ヴァイオリンを引退。そして水銀中毒による気管支炎・ネフローゼ・腎不全。そして一般的に死因とされている喉頭癌で五十八歳で死亡した。パガニーニは技術が知られるのを恐れたため楽譜を公開しなかった。親族も彼の死後、楽譜を処分したらしく、現存する彼の曲は数少ない。
何故彼はこんなにも寂しかったんだろう。孤独だったんだろう。それは天才だからだ。天才は人を孤独にする。天才は誰かについて行こうとはしない。天才は自分という存在が、突いていくべき存在であり、唯一の絶対だからだ。
でもそれは決して悪いことじゃない。天才じゃなければ、孤独には耐えられないんだ。例えば選択授業で何かの教科を取るとする。すると、凡人なら仲のいい友達と同じものを選ぶだろう。それは自分に絶対的な自信がないから。他人と同じなら間違っても、間違った仲間がいるという安心感が手に入るから。もし誰もいなかったら、凡人は耐えられない。不良やヤンキーやお調子者が群がるのは、調子に乗ってないと不安定でしょうがないからだ。天才じゃないから孤独に耐えられないんだ。絶対的な自信が持てない。チキンだなんだ騒いでいる奴らが一番の臆病者だ。それが凡人だ。
じゃぁ凡人はどうすればいい。簡単なことだ。天才にはなれなくても、もう一つ、凡人が孤独に耐えられる能力を身に付ける術がある。それは秀才になることだ。秀才は天才ほどにはいかないが、孤独には耐えられる。秀才は、何を持ってでも自分を通せる。それは秀才は天才に負けないくらいの頑張りをするからだ。学習面でおいても、生活面でおいても、その時に起きたものに対しての行動に、自信がある人間。自信を持てる人間。頑張っている自分を信じれる人間。それが秀才だ。
孤独が怖いなら秀才になればいい。頑張ればいい。だめな人間なんていないのだから。存在してるのだから。
* 唯 *
夢を見た。孤独でしようがない僕の崖っぷちの夢だった。
「夢―――か。」
まだ寝ボケから覚めてはいなかった。朝はまだ早い。昨日はいつ寝たのか。知らず知らずの内に眠りについてしまったようだ。
「秀才―――ねぇ。秀才ってなんだろ。」
朝は平穏な空間からいきなりめまぐるしく過ぎ、そして静まる。通勤通学の時間帯が終わった後の平穏な沈黙を見たからだ。
適当に起きて、寝ボケを覚ます。机の上には昨日の状態のまま、本やらCDが散らかっていた。
「シャワーでも浴びるか。」
時刻はまだ朝の5時を回っていない。目を覚ますついでに頭くらい洗ったほうがいいだろうという考えから風呂場に入った。
そしてシャワーから上がり、飯を食い、適当に準備をして、本と手紙を持って学校に行く。
「行ってきまーす。」
今日も少年はめまぐるしく過ぎる朝に溶け込んでいった。
「なんか変だな?」
一日ぶりのめまぐるしい朝が、いつもより違う風に感じた。こんなに朝は人が多かったっけと。自分の存在の小ささを改めて知ったように。
* 唯 *
外の世界がこんなに面倒なものだっただろうか。
朝の通勤列車も、通学路も、学校も。行く人来る人が、全て難しいものに見えた。こんなに人間はめまぐるしく動いていたのか。その小さな人間一人ひとり、存在ひとつひとつがこんなにも存在あって動いていたのか。
学校について、いつも通りの席に着く。いつも通り朝読書の本を出して、いつも通り一時限目の授業の準備をして、いつも絡んでくる奴らと話す。
そんなありふれた日常で気づいたことがあった。
「なぁ、大崎。昨日どうした?」
「あぁ、まぁその・・・いろいろあって。」
「そっか。お前さ、昨日、駅に行った?昨日殺生のカラオケいったんだけどさ、何かお前に似たのが駅のとこ全力で走ってるの見たんだよ。あれお前か?」
そんな質問だった。向こうは大した意味を込めていない。別段それが僕でも僕じゃなくてもかまわない。殺生駅の構造上、西口に行くには駅の構内を通って行くしかない。そこを見られたのだろう。普通だったらそこで嘘をつく。当たり前だ。欠席してるやつが全速力で駅のコンコースを走っていたらどうだろう?サボりとかそういう目で見られるに違いない。だから何か適当に―――。
「―――。」
「おい、どうしたんだよ。急に黙っちゃって。」
「わりぃ、久谷。ちょっと保健室行ってくる。」
教室を飛び出す。
どうしてだろう。今までなら、意識せずとも適当なことを言って、この状況をすり抜けることができただろう。でも何故だろう。言葉が続かなかった。嘘をつけなかった。とっさに自分で言葉に出来なかった。駅で見られたことはおろか、何故休んだ理由かさえ、曖昧に言ってその場を逃げただけだった。
「はぁ―――。」
小さいため息は決して失望でのため息じゃない。どちらかというと名作の絵を見て、ため息が出るほどすごい。そんな感じだった。そしてため息と一緒に、自分への恐怖を感じた。俺はどうしちゃったのか?誰にも聞こえない、小さすぎるそのため息は、弱い僕の体を包み、呑み込んでいった。
「はぁ―――。」
無意識の自分がどこかに消え去ったような気がした。大嫌いだったもう一人の自分だ。何もかもを自分から取った、自分から発言する自由を奪った、自分の中の無意識の自分が、突然と姿を消した。そんな気がした。
気がしたのではない。無意識の自分が消えた。
わかってたわけじゃない。無意識の自分の存在にさえ気づいていなかった。それを自分に重ねて、自分を殺し続けた。僕の中ではその原因が消えた。その程度の薄い感覚がこのときにはあった。
僕を取り巻いていた「ナニカ」が消えてしまった気がしただけだった。
もうすぐ授業が始まる。久谷たちには保健室に行ってくるといったままだ。このまま授業に戻るか、保健室に行くか。
元々、平熱が三十七度近くあったため、保健室に行ってだるいといえば、大抵は休ませてくれる。今までもそうだった。保健室は安泰な場所だ。
しかし、周りの世界との均衡を保ちたい。進学校であるためかなり授業スピードは速い。昨日の休みの影響。今日の授業をサボったらどうなるか、とかそんな心配が頭をよぎった。いくら回りの友達がバカやってても、一応はこの学校にいる。ものすごく頭のいい少年・少女たちなのだ。周りについていけない。この学校という空間に置いていかれる。その寂しさを乗り越えられるような男では決してなかった。僕は本当に弱い人間だ。でもまだ気づいていなかったんだ。
「失礼します。あの、ちょっと熱っぽくて。」
選んだのは保健室だった。授業に参加する、というより周りの人間と、一秒でも多くの時間触れているという感覚から逃げた。それだけ。保健室に来た理由も、病状も、周到に用意していた。
「あら、大崎君じゃない。」
「あれ、何で知ってるんですか?」
「知ってるも何も、3年生で委員長で、図書委員とか風紀衛生公安委員とか。いっぱいやってるじゃない。」
「あぁ、そうですか。」
僕は有名だ。周りとの付き合いや、先生との輪を少しでも広げたい。できるだけ多くの人を自分の味方にしておきたい。そのせいで多くの委員会に入っていた。風紀衛生公安委員は、言い換えれば生徒のする生徒指導部だ。携帯電話や、その他校則違反物品の持込があっても見逃してやれば、そいつとはいい仲になる。決していい仲になるわけではないのだろうが、絶対に恨みを買うことはない。
「で、昨日風邪ぽかったとかあった?」
「ええ。一応休んだんで。」
嘘はとっさには出ない。だから、用意してた嘘を言った。無意識ではなく、意識して嘘をつく。
「そう、じゃぁちょっと休んでいきなさい。だめだったら早退の届けも出すから、私に言ってね。」
「わかりました。すいません。」
僕はふと感じた。
嘘ってこんなに面倒で、難しいもんだったっけ―――。
人と話すのって、こんなに大変なことだったっけ―――。
と。
* 沙耶 *
?月?日。
現在の時刻、不明。
現在に至るまで彼からの応答は、なし。
応答願う―――
何か信号をこちらに―――。
どうか―――。
* 唯 *
学校を早退した。昨日の欠席と続いて、初めてのことだった。昼間の時間帯は、やはり静かだ。穏やかだ。車の騒音も、走り去る電車もうるさく感じなかった。なんというか「うるさい沈黙」があった。不思議だ。
学校は気分が悪くなったといえば、簡単に早退届を出してくれた。ちょろいもんだ、とかそういう感覚はなかった。逆に勉強が間に合わなくなっちゃうとかいう不安もなかった。ただ休みたかった。一人になりたかった。うるさい場所から抜けたかった。
「―――そういうもんか。」
うるさい場所。それは人それぞれ違う。大音量でクラッシックなどの音楽を聞いていたら、好きでない人はただの騒音でしかない。赤ちゃんだってただのビニール袋をするような騒音がよかったり、水がぽちゃぽちゃ鳴るような音は好まないと聞く。それと同じだ。本能的に好きな音と嫌いな音がある。まぁ沈黙が好きな人も、そうそういないだろうが、僕は静かなほうが好きだ。大音量で音楽を流しているのにどうしてと聞く人があるかもしれない。確かにリストだのバッハだの、クラッシックも、最近のバンドやアイドルなどの音楽も嫌いじゃない。それだけど何より沈黙という音が好きだった。
「―――」
サー―――。
ガタンゴトン―――。
あはは、そうなの〜―――。
車の音・電車の音・人の話す声。
これらの音が全く邪魔にならなかった。僕を知らないでいてくれる人はいい。気を使わなくてすむ。なにも気を使う必要もない。気を使ってもらう必要もない。自分を知らない世界を心から望んでいた。
それは沈黙の世界だ。なにもない。存在があるかどうかもわからない。そんな曖昧な「僕の世界」を勝手に望んでいた。
目を閉じる。さっきと同じ音が聞こえる。そしてそこには僕の世界が。
広がるはずもなかった。僕の世界は孤独で邪魔者がいない「一人だけの世界」。でも一人ぼっちという孤独に耐えられるほど、僕は頭がよくない。自分で世界の創造を、拒んでいたんだろう。大半の人間は望む事は容易でも、創ることは困難だ。
自分の世界を、創れるほどの力もないから。
* 唯 *
そういえば行くところがあった。図書館だ。宮沢賢治のあの本を、返しに行かなきゃならない。
「よいしょっと」
本を手に取り図書館に向かう。殺生西口図書館は場所的には申し分のないところだ。殺生駅徒歩5分のところに位置する。しかし西口には、本当に気味が悪いほど、森や田畑が広がっていて、ボロボロの家がちょこちょこあって、オマケにアメリカ軍の基地もある。そのせいで全然活気付かない。東口であれだけ人が賑わっているにもかかわらず、西口に来たってだけで、人っ子一人いない。
「本当に、気色悪いな。」
西口に降り立ったとき、不意に言葉が漏れた。いつも見てきたはずの気味の悪い景色が、今日に限って余計に気持ち悪く見えた。天気は快晴にもかかわらず、殺生の西の町並みは、暗い影に覆われていた。
実際は影など一つもなかった。ただ僕はこの景色が大きな悪魔に呑み込まれる。そんな予兆を感じさせる影を見たんだ。嫌な予感がした。
西口の大通りは、白線のない5メーター程度の小さな通りだ。周りには、駅から出たちょっと先からもう田畑が続く。車も人もいない。
沈黙の空間。
でもこの沈黙は、僕の好きじゃない沈黙。落ち着くというより、呑み込まれてゆくような恐怖を感じるものだった。
足が知らないうちに早歩きになっていた。何かから逃げるように。そして、何かを強かに追うように。
図書館には3分も経たないうちについた。相変わらず変わらない。ボロボロで、外装も僕の小さい頃から全く変わっていない。書籍の広さも、棚の場所も、受付のおばさんも。変わったことといえば、かなり昔の本がなくなったり、新刊が入っていたり。たった一人の受付のおばさんが老けたことくらい。
図書館に入り、館内の書籍返却ボックスに本を返却する。返却本は全然なかった。利用者も昼時のせいもあるのか、5、6人しか見当たらない。
「これ、お願いします。」
「あぁ、ありがとうね。」
返却はこれで終わり。
でも僕にはもう一つ確かめなきゃならないことがある。
それは音楽家の事典のコーナー。普段誰も寄り付かないような、図書館の端の端に目的の本があった。沙耶からのメッセージだ。これがどういう意味なのか。この場所はちょっとした恐怖だ。
この棚のところだけ図書館の電気が切れているようで、とても暗い。来る人を拒むような妙な雰囲気が漂っていた。
「ゴクリ―――。」
ついつい唾を呑み込む。ただ本を閲覧しに来ただけにも関わらず、ものすごい悪寒、恐怖を感じた。
「テ‐149L 天使の鐘出版 Ferenc Liszt」
その本に手をかけた。手をかけたまま硬直した。決して本が挟まっていて取れなかったわけじゃない。本に何があるのか。何があるというのか?その「何か」に自分が動けなくなるほどの脅威を感じる。
この本の中には何が?
この本をとっていいのか。
沙耶は―――。
それでも―――。
「それでも、僕は―――」
自分の心に言い聞かして、その本を引っこ抜いた。
リストの本にだけホコリがただ一ついていなかった。ちょっと前に誰かが見た証拠だ。となりにあったリシャフォールやリッターの本には、触るのも嫌なほどホコリがついていた。何かに導かれるように本をとったときに、妙なボリュームを感じた。
本の中に何か挟まっている―――。
フランツ・リスト。僕の大好きなパガニーニの超絶技巧をピアノで編曲した人物。リスト自身が作った曲も大好きだ。紙が挟まっていたのは、「超絶技巧について」のところだった。沙耶はどこまでも僕を知っている。開いたとき2枚の紙がポトンと落ちた。
何回も何回も折られていた。分厚さが出ていたのはこのせいだろうか。紙は、この前と同じ図書館にあるメモ用紙らしきものだった。小さい紙を、厚さが、5ミリくらいになるような厚さだった。
開くべきか―――。
開きたい―――。
この紙を開きたい。開いて沙耶の真意を知りたい。沙耶はきっと戻ってくる。いなくなった理由を知りたい。まだ沙耶はいる。
ずっとそう信じていた。いや、まだ沙耶がいなくなったことを信じたくなかった。何度も何度も言うようだが、怖かったのだ。沙耶が自分の全てだということを、自分がよく知っているから。
大嫌いな弱い僕が、唯一好きになれた。唯一、僕ともう一人の僕が、かぶった感情だったからだ。恋という、不思議な、とても不思議な。
* 唯 *
自分を見失っている。
自分が自分でない。もう一人の自分も、どこかに消えてしまった。何が何だかわからなかった。
「―――。」
口が開いたまま閉じない。
呆気にとられたまま現実に戻れない。現実を受け取れない少年がいた。僕が僕でない。僕が見えない。
「沙耶―――。」
ただその名だけを呟いていた。
もう既に夕方になっていた。
本を返して、本を見つけて、手紙を読んでいただけなのに、時間がとても速く経っていた。手紙のせいだ。手紙に書かれていたことが、受け取れなくて、受け取れなくて。確かめる術もなく、僕は絶望していた。
自分が見えない。
「沙耶―――。」
ただひたすらその名前を呟いた。
夕焼け。
東の雲の暗雲。
カラスの群れ。
そして僕。
何もかもが、寂しく見えた。寂しく聞こえた。
手紙の内容は、正直当たり前のことが書かれていた。
前略 唯君へ
ここの所いかがお過ごしですか。
元気でいてくれると嬉しいです。
いきなりなんですけどあなたに謝らなくてはならないことがあります。
あなたを裏切ってごめんなさい。
私はあなたに嘘を言いました。あなたを試しました。
あなたは私が思ったよりも遥かに強い存在です。
ひとりでも、強く逞しく生きていける。
優しいあなたをずっと見ていた。
あなたの本当の優しさをずっと探していた。
上辺だけの優しさはもうやめて。
でも、それはあなたを孤独にします。ニセモノの優しさは逆に人を不幸にします。
それでもあなたは本当の優しさをもう既に持っている。
ここで一枚目が終わる。
続きを見る。
その優しさは、私みたいなものに使うんじゃない。
周りの世界のために。人のために。
そして自分の存在のために、その優しさを使ってください。
唯君は本当に優しい人だよ。
だから、だから、ずっと唯君で。私の好きな優しい唯君でいてください。
私はあなたのためにならないので消えます。もう会うことはないでしょう。
私は虚無の存在です。存在し、存在しえぬものです。
それでも、優しい唯君を好きになれてよかった。
好きになるってだけで、すごく存在できた気がしたから。
ずっと、唯君は唯君で。私は私でいるから。
だから、もう自分を嫌いにならないで。
沙耶
小さな紙に、小さな字で。ものすごく器用に書かれていた。
沙耶は僕のためを思って消えた。それは本当だ。確かにぼくは沙耶がいたら、絶対に沙耶に甘えてしまう。沙耶は僕の全てだから。
「―――ぅあああ―――。」
涙が出てきた。
あまりにも弱い自分の存在を知ったから。沙耶という支えがないと、簡単に崩れ去ってしまう脆い部分を自分が知ってしまったから。
崩れ去るように泣き崩れた。
誰もいなかったおかげで遠慮なく泣けた。涙が溢れて零れて。鼻水も出てきて。ティッシュもなく、そこに泣き崩れて。
それでも涙を流し続けた。涙はなんとも表現しづらい声だった。叫びなのか、嘆きなのか、喚きなのか。そのどれとも取れないような大声で泣き叫んだ。
今の僕は自分の弱さを受け止められなかった。
弱さどうのこうのより、沙耶の存在が完全になくなったことが、僕にとって全てを奪られてしまったような気がして。どんなに耐震に強靭な家でも、大黒柱が抜けたら、たちまち崩れ去る。僕も同様だ。もともと僕はそんなに強くもない。だから大黒柱以外にも柱が多々必要だ。でも、もしその支えてくれる柱を、失ったらどうなるか。柱一本だけの僕は、たちまち崩れ去る。それしかない。
今の僕はただ崩れ去るしかなかった。
泣くしかできなかった。
こうして僕は、大切な支えを。
「沙耶」という絶対の存在を失った。
「沙耶―――。」
泣き声と嘆き声は虚しく、春の夕暮れの冷たい風に流される。
沙耶という存在を連れ去っていってしまうような、かき消してしまうような。
僕が無くなってしまうような。塵になった僕をありとあらゆるところに吹き飛ばしてしまうような。
そんな気持ち悪く、気持ちのいい風だった。
涙も何もかも、吹き飛んでしまうような。
そんな気がした。
そうなればいいと思ったから。
* 沙耶 *
?月?日。
現在の時刻、不明。
現在に僅かな応答が、あり。
何かの信号。何なのかも分からない。
彼が彼であるように―――。
どうか―――。
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