第五章(前半部) サヨナラ




  * 沙耶 *
 初めて会った日から二ヶ月が経とうとしていた。遅咲きの桜が咲き乱れていた。だんだんと日は伸び、暖かな皐月を迎えようとしている。
 この二ヶ月でいくらか分かったことがある。まず私だ。私は存在あって、存在無き者。ご飯を食べなくても、寝なくても、着替えなくても、私は常に彼の理想なのだ。だから私の格好はいつも普通。彼の望むのは普通である私。知らないうちに生かされてる。私は彼に操られてるのではないかと思ったこともある。でもそうではなかった。私は彼の思うままであり、彼は私の思うままなのだ。彼は私がいなかったら限りなく脆い。でも、私も彼がいなかったら限りなく脆い。彼が別存在として存在してしまったから。私が弱いから。
 ここのところ、彼はよく会いに来る。会いにくる頻度が明らかに増えている。今日も彼は来た。時刻はまだ4時過ぎだというのに。学校が終わってから、ここにすぐさま来たような感じがする。
「よぉ、沙耶。」
そしていつも通り、今日何があったかとか、昨日は自分を殺してないとかを、報告してくれる。現に彼は、ここのところ自分を殺していない。その代わり私を異常なほど、執拗に必要としている。
「でねでね、そうしたら久谷のやつがバカやってさぁ―――」
「ねぇ、唯君。覚えてる?」
「何が?」
 私は出来るだけこの質問を避けていた。私を必要としなくなるまで、彼を見守ろうと思ったからだ。彼が私なしでも生きれるようになるまで、と思っていた。彼は確かに回復した。元に戻りつつあった。中学校の友達や、晃、和葉たちとも、気楽に話せるようになったとも言っている。でも彼は私に寄りかかりっぱなしの人間になっていた。このままじゃ彼はもっと弱い人間になる。私なしでは生きられないような、脆すぎる人間に。だから聞くんだ。彼を強い人にするために。
「唯君。あなたは私がいなくても生きれる?」
 沈黙に包まれる。長い。5分間くらい会話が止まった。どちらからも声が出せなかった。私も彼の応えを待つことしかできない。
 沈黙―――。
 それはある一種の音だ。何も聞こえないという音。それは自分を見失うほどの不協和音。その中から自分という和音を、自分の言いたい本音を探さなきゃならない。彼の応えはどう返ってくるのか。
「あ、あのさ。」
沈黙が破られた。
「あの、最近どうもおかしいんだ。」
「何が?」
「最近、考えるんだ。人の質問に。今まで知らないうちに、なんというか無意識の内に答えを返していたんだけど、最近はどうもおかしいんだ。どうしても自分の言葉を考えるんだ。伝えたい気持ちが前に出るんだ。だから―――。」
「だから?」
「答えられないんだ。難しすぎて。言葉に出来ないんだ。『嫌だ』って言えればいいんだけど、いいたい事はそうなんだけど、どうしても言葉に出来ないんだ。」
 彼はそういった。彼の本音は「嫌だ」だ。でもそうではない。何かが言いたそうな顔をしていた。私は言葉を返す。
「純粋に私がいなくなったらどうする。」
「嫌だ!」
強い口調で返された。
「あ、ごめん。その、いなくなるなんて言わないで。ずっと一緒にいて。僕は沙耶がいないとダメなんだ。」
 弱い彼が出ていた。ちょっと前から比べると言葉に出来るだけでも十分強い。前だったら自分を正直に伝えなかっただろう。勝手に消えろ、とかいわれたはずだ。でも純粋に、彼は彼の気持ちを私に伝えている。でも、それじゃいけなんだ。今日ここで終わりにしないといけないんだ。
「それはできない。いつかは離れ離れになる。」
「なんで、どうしてだよ?ずっとここに居てよ。言ったじゃないか。ずっとここにいるからって。」
 私は首を横に振る。ゆっくりと、彼の願いを拒絶するように。
「唯君、あなたは強くなった。自分も殺さなくなった。でも、私がいないと生きられないんじゃそれは本当の強さじゃない。君一人で生きるんだ。私は君の味方だから。だから一緒にいてあげられない。」
「どうして、嫌だ。一緒にいてよ。嫌いにならないで。沙耶、君が好きだ。いかないで。いかないで、沙耶。」
「私も好きよ。唯君。だけど私はあなたの恋人になれない。恋人になろうって言ったのは私だけど、あなたにとって私の存在は―――。」
「言わないで。」
 彼はその場を立ち上がり、私に抱きついた。両手で首元を包むように、ぎゅっと抱きしめてくれた。温かかった。とっても。彼の温もりが、痛みが伝わってきた。彼の心の叫びが、本音が聞こえた。
「嫌だ、行かないで。」
 彼は泣いていた。私も目に涙が溢れ出してくる。必死にこらえても勝手に零れる。勝手にどんどん涙が溢れてくる。
「ずっと一緒にいて。沙耶はなんでそう冷たいの。僕は、僕はこんなにも変われたじゃないか。沙耶だって知ってるだろ。全部沙耶がいてくれたからなんだ。沙耶が僕の全てなんだ。だから、だから―――。」
 声がかすれている。泣き声とともに痛み、苦しみ。そういう類の感情が、心臓の鼓動を通して伝わってくる。彼の心臓の痛みが聞こえる。胸が苦しい。今にも張り裂けてしまいそうな感覚。私もそうだ。
「もう言わないで。そんなに一緒にいたいんなら今すぐ私と一緒に死にましょ。」
 そういったのは、もちろんわざとだ。彼を試した。私の見てきた彼を。正しい彼になっているか。私の大好きな彼がいるか。「うん」といったら終わりだ。彼は弱い人間のままここで、私と死ぬ運命を辿る。でも彼は、彼は強かった。
 私が言い放ったすぐ後に、彼は私を突き飛ばした。私の体が妙に水気の多い、嫌にぬれてる草むらに埋もれる。そして彼はマウントポジションを取り私を殴る。1発目は強く左頬にグーで一発。
「ふざけるな。」
 今度は左手で私の右頬を一発。
「ふざけるな。」
 彼はそれを繰り返して私のことを殴り続けた。
「ふざけるな、ふざけるな!何が死ぬだ。ふざけるな、ふざけるな」
 彼の目から涙が零れてくる。ありったけの涙が溢れ出し、私の頬に落ちる。彼は強くなった。私の非を一瞬で見破った。
「沙耶が、沙耶が自分を殺しちゃだめだって。死んだら終わりだっていったんだろう。僕は、僕は本気で沙耶が好きだったんだぞ。なのに、なのに。裏切るな!死ぬなんていうな。ふざけんな!あああああああああああ!」
 本気で。私を素手で撲殺でもするくらい思いっきり、見境なく。
「本当に、強くなった―――。唯君、君は。」
 私は彼のところにいちゃだめだ。そう本気で感じた。言ったのはわざとだったのに、すごく罪悪感を感じた。今まで作ってきた彼を、こんなところで崩してしまうんじゃないかって自分を悔やんだ。
「殴れ、もっと私を殴れ。」
 私の顔は今どうなっているんだろう。限りなく腫れ上がっているのか。目から血も出てきたような気がする。口からも。鼻からも。血のにおいがする。匂いでも臭いでもない妙な香りがする。そして彼の涙。口元に落ちてとても塩っ辛い味がした。彼の痛みの味がした。私の血と混じったその液体は私たちの苦しみの味がした。
「ふざけるな―――っ、―――ぅざけるな・・・。ああああああああああああ」
痛みが体の中を走る。痛いってこういうことなんだって。手も足も動かないくらいいたい。涙が止まらない。痛い。痛い。彼の姿が、どんどんかすれて見えなくなる。声もだんだん遠くなる。
「―――っ―――ぁぁ――――――」
 声が遠い。私はどうすることも出来なかった。ただ殴られるだけ。ひたすら彼の思いのままに殴られる。目の前は、血で赤く染まっていた。血が私の顔を包み込んでいた。殴られて血が止まらなくなっている。それでも彼はなお、私を殴り続けた。それだけ私は馬鹿なことをしたんだ。
「――――――――――――」
 もう彼の声はほとんど聞こえない。それでも絶えることなく彼は、私を殴り続けた。それでも私は反抗しなかった。何も言わなかった。痛いとか言いたかった。ごめんとも言いたかった。でも何もいえなかった。殴られることが、当然だと思ったから。殴られることが気持ちよかった。これで彼が落ち着くのなら、そう思うだけでよかった。
 それから一時間位しただろうか。彼は殴るのをやめた。そして去っていった。私は起き上がることも出来ずに、そこで気を失った。
「ごめんね―――ゅ―――ぃ―――君―――。」

  * 唯 *
「はぁ―――はぁ―――っ、はぁ」
 僕は全力で、家に向かって走っていた。逃げていたともいうのか。息が上がる。きつい。それでも、なお走った。
「はぁ、はぁ―――沙耶、沙耶が。沙耶が―――」
 家に着く。マンションの階段をダッシュで上がる。必死で家の鍵を開けようとする。でも焦って、手が震えて、うまく鍵穴に鍵を入れられない。
「あぁ、この野郎」
 必死に鍵を開けて、玄関の前の自分の部屋のトビラを開けて、部屋に飛び込んで閉じこもった。
 逃げ込むように部屋に入り、鍵を閉めた。
「はぁ、はぁ、はぁ―――。」
 息が上がる。力が一気に抜けた。トビラを背にして滑り落ちた。体育座りになり、自分のしてしまったことを悔やんだ。
「僕は、僕は―――。」
 思い浮かぶのは、悍ましいほどの沙耶の姿だった。とんでもないことをした。何であそこまでボコボコにしたのか。
「ああああああああああああああああ。」
 思い出すだけで怖くなった。僕のしたには、愛おしい沙耶はいなかった。いたのは憎しみの象徴。そして、その存在を自分がこれでもかというくらい壊したんだ。その存在は一人の人間だった。顔には、目から涙の代わりにでた血で染まった赤色の曲線。口元や鼻にも血がたまっていた。顔は晴れ上がって彼女の美しい整った顔の原型をとどめてはいなかった。傍から見たら、それはとてもグロテスクで吐き気すら起こる。それなのに僕はやめなかったんだ。彼女を、沙耶を、そこまでしても殴り続けた。
 悔やんだ。僕自身泣いていた。どうしようもなかった。なんで、なんで?と繰り返し問いかけた。
「なんで、なんで。」
 口に出しても楽にはならない。沙耶を、自分の全てであったはずの沙耶を何故あそこまで否定したんだろう。
 僕は考えた。
 今までのどんな難題よりも考えた。
 夕闇はいつしか漆黒の暗闇に変貌を遂げていた。明かりをつけていなかった部屋の中は暗く、
陰湿で気味が悪かった。それでも外には出れなかった。沙耶がそこにいて、恨んでいるんじゃないだろうかとか、それでも消えてしまわないだろうかとか。僕を嫌いになってしまったのではないだろうかとか。たくさん考えると外に出るのが怖くなった。僕はどうしようもない臆病者だ。沙耶を正面から見れない。
 でも、今の僕には僕がどうして沙耶を殴ったのか、という前に、何故沙耶があんなことを言ったんだろうって、なんで僕はそんなことで沙耶に手を上げたのだろうって。それを考える方が先だった。
 泣いても答えは出ない。溢れ返る涙をこらえ、僕は考え続けた。その夜も、僕は自分を殺さなかった。自分を殺して逃げるよりも、考えて自分の答えを出したほうが何倍も強いって思ったから。

  * 沙耶 *
 空が暗くなってきた。
 カラスの鳴き声も、今は遠く感じる。
 意識が戻った頃には、もうそこに彼はいなかった。
「痛―――っ・・・。」
 彼に殴られた痛みが、まだすごく痛い。じんじんと内側から痛んでくる。顔と首元をやられたせいで、痛くて立てない。特に鼻の頭は、本当に痛い。
「―――はぁ、よいしょっと」
 と立ち上がったときにはもう既に日は暮れていた。周りは、何度も見慣れてきた夜とは違って、いつもと違う暗くて陰湿だった。まるで私のよう。多分、彼も今必死だろう。答えは自分で出さないといけない。
「頑張って―――。唯君。」
 何もない空に向かって私は呟いた。

  * 沙耶 *
 時刻は真夜中だった。ここのところ続いていた雨は止み、久しぶりに満天の星空が広がっていた。駅から離れた西側のほうはまだ星がきれいだ。今にも沈みそうなオリオン座やシリウスがきれいに見える。果てしない宇宙で、この一人の少年を救うことに意味は有るのか?という問いを勝手に提示した。変な話だが勝手に問題を作って勝手に自分で問題を解く。変なヤツだ。
でも必死に考えた。私が彼を救う理由は何?
「痛っ。」
 その回答を妨害するように風が吹く。目の元に当たるとすごく痛かった。でも答えは意外と単純に出るもんじゃない。
「私は―――。」
 何か言おうとしても言葉につまる。
「私は―――、私は。」
 その続きが、全然出てこなかった。言いたいことはたくさんある。伝えたい気持ちだらけなのに言葉にできない。
 私は何で彼を、唯君を。
 もう一度考え直してみた。彼は私にとって何か。彼の存在は私の存在でもあるんだ。今は存在が分離しているだけで、本当は私はいなかったんだ。じゃぁいない私が出来ることは何?もし別存在だったら彼を助けるより、もっと他にいい事をしてるはずだ。彼一人より他の知らない人を何千人って助けたほうがいい。
「じゃぁ、私は何のためにいるんだろう。」
そっと呟いた。それはこの宇宙でもちっぽけな銀河系の、ほんの一片の太陽系の、ちっぽけな惑星の地球の、そのまたちっぽけな日本の、この殺生市の、この公園にたまたま吹いただけの風にかき消された。
「はは、小っちゃいな、私。」
そして私はその言葉を放った人間の、人間になりきれなかったただの存在なのだ。その私が何を言おうと宇宙から見たら“ヘ”でもない。私という存在は一体何なんだろう。仮に造られた我妻沙耶という人物は、一体何のために存在してるんだろう。彼を、大崎唯を変えるためなんていったら宇宙に悪い気がした。ちっぽけな存在に時間を費やすことがおろかに思えた。
「ん?ちょっと待った。」
 ついつい言葉が出てしまった。
 言葉が漏れた理由は簡単だった。
「彼の存在は決してちっぽけなんかじゃない。」
 彼の存在はちっぽけなんかじゃない。そうだ。彼は宇宙をも越える存在じゃないか。宇宙の数も彼の数も同じ「1」じゃないか。そうだ。何を考えていたんだ、私は。彼は宇宙とも比べられない大切な存在だ。私と一緒にいた一人の「存在」として。彼を知っている、理解できる彼の唯一の「理解者」として、そして、彼のたった一人の「恋人」として。彼はかけがえのない存在なんだ。ちっぽけなはずがない。
 だから―――。
 これが私にできる最後だ。最後に伝える言葉は直接言うよりも手紙のほうがいい。文字は一生残るものだ。自分の思いがよく伝わる。そう思った。この手紙をどうしようか。彼にもっと伝えたい。
 私は真夜中、暗い中、彼に伝えるのに一番いいと思う術を考えた。その前にまずは紙と鉛筆を用意しよう。

  * 唯 *
 気がついたら夜が明けていた。
 考えていたら知らないうちに時間が経っていた。時刻は7時を既に回っていた。いつもならもう起きて、学校に行く準備を整えるはずだ。でもその気が起きなかった。
「唯。起きてないの?」
「ごめん母さん。俺、今日学校休む。何か風邪引いたみたいで。」
「あら、大丈夫。面倒見る?」
「いいよ、うつったら悪いから。仕事も有るんだろ?行きなよ。」
 学校に入って初めての休みだった。風邪を引いても休んだら、勉強についていけなくなるとか、無駄に友達にも心配をかけるから、無理してでも行っていた。その学校をはじめて休んだ。
どうしても考えなきゃならない事があったからだ。
 でも、それはとても難しかった。今までずっと味方だって信じてきた沙耶に、裏切られた気がしたからだ。ずっと自分を守ってきた沙耶が、ちょっと前の自分と同じようなセリフを言ったからだ。
どうして?
 それが疑問で、疑問で、仕方がなかった。
「―――」
 平日の昼間はこんなに静かなのか。そういえばこんな沈黙は、初めてじゃないだろうか。あのうるさい雑音はどこに行ったのだろう。怖いくらいの沈黙だった。夜の静けさとは違う昼の静かさ。外から僅かな車の騒音と、若者のけらけらと嗤う声が聞こえる。でも静かだった。夜になれば家がうるさくなる。両親が遅く仕事から帰ってくるせいで夜は静かじゃない。真夜中になっても静かになれば、逆に騒音がうるさく感じる。家に帰ってきた後も、ロックバンドやクラッシックの曲が年中、永久に流れていた。だからどうか分からないけど、とても静かな昼だった。とても音楽などかける気になれなかった。何もいらない。何もなくても、心が落ち着いた。
「静かだな―――。」
 声がこぼれた。静けさがあまりにも脅威に感じたから。静けさに呑み込まれてしまうのではないかと逆に不安になった。自分の考えてることが声に出た。独り言じゃなく、必死に誰かに話しかけるように。
「なんでだろう、なんで。」
 時間は長かった。何もしないと時間はこんなにも過ぎないのかと。部屋にはゲーム機器やノートパソコン、ラジカセなんかがあった。でも何もいじらなかった。長い時間で自分が何を考えても答えが出ない。ずっと答えを出そうとしていた。暇を潰そうとか、そういうことを、する気が起きなかった。
 ずっと考えた。考えても考えても、否定したいことばかりでてきた。沙耶に何か深刻なことでもあったのだろうか、沙耶が変わってしまったのだろうか、沙耶が頭でも打ってたまたま口が滑っただけなのだろうか、沙耶が―――。
 いくら考えても何も出てこなかった。そして最終的に出た答えが、「沙耶が嘘などつくはずがない」だった。
 そうだとしたのなら、沙耶は本当に死にたいと思ったのか。でもそれは沙耶が沙耶を否定している。あれだけ僕を知っている。僕の味方。僕のためにならなんでもできるといった沙耶が僕にマイナスのことなど言うだろうか。だとしたら、
「沙耶が僕のためにわざとその言葉を言ったのか。」
そう察した。
 もしそうだとしたら、何のために沙耶は言ったんだろう。沙耶は何で僕にわざわざ嫌われるようなまねをしたのか。
「そんなに一緒にいたいなら、私と死のう。」
 か。
 ため息がこぼれた。沙耶は何のために僕にあんなことを言ったのか。ずっとわからないまま時間が過ぎていく。
 チック、タック、チック、タック―――。
 時計の音がうるさい。
 チック、タック、チック、タック―――。
 今まで何にも妨害しなかった音までうるさく感じた。時計の音、僅かな車の騒音、誰かがマンションの階段を降りる音、足音、自分の息。そしてついには、この空間の沈黙も、騒がしく感じた。
 チック、タック、チック、タック―――。
「何故―――。」
 チック、タック、チック、タック―――。
「どうして―――。」
 チック、タック、チック、タック―――。
「沙耶―――。」
チック、タック、チック、タック―――。
「沙耶―――。沙耶ぁぁぁぁあああああああああ!」
 叫んでも、喚いても答えは出なかった。ついには自分が何なのかも分からなくなった。また不安定になる。
ドサッとベッドに倒れこむ。布団に顔をうずくめる。
「死にたい。ごめん―――」
 沙耶の言葉に便乗したくなった。でも自分はその言葉に激怒して、そしてその怒りを沙耶にぶつけた。
「そういえば、なんで、僕―――。」
 不思議だ。なんで僕は。
「何で、あんなに怒ったんだっけ。」
 そう思い出すと沙耶の血みどろの姿が頭をよぎった。嫌な感じがまた走る。また考えるのをやめる。ふと隣にあった毛布を抱き枕代わりに抱いて蹲る。
「うぅぅぅ―――。わかんねぇ。」
 沙耶は僕に何を求めたんだろう?
 僕に何を試しているんだ?
 僕に何を―――。
「ん、試す?―――そうか。」
 試すという言葉にちょっとヒントを感じた。何を考えたいか自分でもよく分からなかったけど何かを感じた。
「沙耶―――。」

  * 沙耶 *
 町の図書館は早朝から開いていた。図書館といってもとても小さな図書館で、たいした本があるとは思えないようなところ。でも逆に小さな図書館で助かった。図書館に入ったとき周りの人間から変な目で見られた。昨日の傷がまだ目立っているからだろう。図書館の受付の横のメモ用紙をばさっと取り、一番端っこの席に座って手紙を書いた。図書館にはボールペンもある。何度も訂正して、彼への思いをありったけに語った手紙を書いた。それをとあるところに隠す。貸し出しは5年前から、誰も借りていない本の中。そこに私の手紙を隠した。たった一冊。他に同類の種類もない本。この図書館にはこれ以外に、この類の本は見当たらない。私はそれを確認して本を閉じた。
「これでよし。」
 そうしてもう一冊本を借りて、図書館を後にした。
 公園はいつも通り鬱蒼として暗かった。そして私と彼がよく話した木。今はもう緑に変わりつつあった桜の木。その下にその本を置いた。そしてその本に手がかりを託した。簡単な文章だ。彼ならきっとわかる。
「私の本を見つけて。」
 私の長い髪をゆする風がとても気持ちよかった。顔の腫れが痛かったけど、それでも最後に味わう感覚が「気持ちいい」でよかった。
 自然の風の流れが私の髪の毛を包み込んでいく。この風が宇宙のちっぽけな風だ何て思えない。これは価値ある私だけの風。大切な風。私を包む痛くも優しい風。彼もこの風のように、大切なものだ。価値ある存在だ。
 置いた本は「銀河鉄道の夜」
 書いた紙は「あなたの心の親友より」
「どうか―――。」
 僅かな願いを込めて私は消える。私の存在は彼のためにならない。ずっと彼が元に戻るまで見たかった。でもそれもできないのが寂しい。でも彼が変わってくれるなら私はそれでいい。それが私の望む世界だから。彼が彼でいてくれる世界。
 また私をなでるように吹いた風が気持ちよかった。ずっとこの世界が続けばいいと心から思った。それでも私は行かなきゃならない。決して消えてなくなるわけじゃない。消えても私はずっとここにいる。ここにいたい。そう願った。
「唯君。どうか、どうかお元気で―――。」
 次の風が吹いたときには、もう私の髪がなでられることはなかった。ただ、消えてなくなった。でも、私という存在がいたことは消えない。この短い間での私の存在が、どうか意味を成し実を実らすように祈りながら。
 風はただ木の葉をゆすり、さわさわという音を立てながら、ひたすら吹いていた。ここに私はもういない。ただ本と手紙。その二つが無造作に取り残された。
 私の限りない思いを残して。

  * 唯 *
 気づいたときには、家を飛び出して殺風景な街を走り抜けていた。全力で沙耶のいるであろう所まで、走った。ひたすら走った。
「沙耶―――沙耶―――はぁ、はぁ。―――くっ。」
とんでもない粘り気を帯びた唾液が、のどに張り付く。駅を駆け抜け寂しい町並みの西口の田舎臭い一本道を全速力で走っている。走ったら十分もしないうちに着くのに驚くほど息が上がっていた。
「沙耶―――さやぁぁぁあああああ!」
 走った。
 とにかく走った。

  * 唯 *
 全力で走った後は息が切れる。十分程度の走りこみでも、全速力で走れば、相当ばてる。辛い。吐く息が重かった。
「沙耶、沙耶は?」
 周りを見回す。でも僕の望む存在はもう、なかった。この時、もう気づいていたのかもしれない。
もうここに沙耶はいないってことを。
 それでも信じたくなかった。自分を信じれなかったからじゃない。純粋に鞘とはなれることが怖かったからだ。
 少年はあたりを探す。でも周りには誰もいなかった。公園中を探しに探しても、出てくるのは虫や見たこともない雑草ばかり。望むものはなかった。
「きっと今日は、たまたまいなかったんだ。そうに違いない。だって時刻もまだ5時を回ったところだし。」
きっと今日は、たまたまいなかったんだ。そうに違いない。だって時刻もまだ5時を回ったところだし。
「―――5時?」
 そう思った答えが壊れた。時刻なんて関係ない。授業が早く終わったときも、委員会で遅くなったときも、雨が降っていても、風が強くても、それでも彼女はここにいたんだ。「たまたま」なんてない。彼女がいないことはなかった。彼女が、沙耶がここにいることは「絶対」だったんだ。
「さ―――ゃ―――。」
 彼女の名前が自然に言葉に出た。
 気がついたら理由もなく彼女の名前を叫んでいた。一度探した公園の中、外のあぜ道。水路からくまなく探した。
「沙耶!沙耶ぁぁぁぁあああ!」
 今までこんな大声を出したことがあっただろうか。僕の歴史の線上では、こんな点は一つも打たれていなかった。ここで初めて僕の歴史線上に大声を出したという点が打たれた。自分でもびっくりした。こんな声が出せたのか?甲高いのか、低いのか分からない。地声ではない声が響き渡った。低く出たかと思った声は、夕闇の弱い風に揺られてどんどん高くなる。何もない田舎道に響き、それがどこからか戻ってくる。
「沙耶、沙耶、沙耶、さやぁぁぁああああ―――」
 呼ぶ。
 叫ぶ。
 僕の。
 希望。
 沙耶。
「沙耶ぁぁぁぁぁあああああああ―――」

  * 沙耶 *
 彼の声が聞こえた。
どこからか分からない。
小さく。微かに。
でも確かに。
聞こえた。
私を呼んでいる声。
振り返る。
もう彼の姿は見えない。
 ここはどこだろうか?きたことのない世界だ。
 どこだろう?ここは―――。
 なんだろう?ここは―――。
 私は死んだんじゃない。消えたんだ。短い間だけど存在していたものが、跡形もなくなくなった。存在しないって言うのはこんなにも「無」なんだ。何もない世界に私はいた。はるか先まで何も見えない。人も、生き物も、空も、風も、空気も、形も、影も、そして色もない。限りなく透明な世界に呑み込まれた。もちろん自分の形さえ分からない。存在が見えない。自分の存在すら形として現れない。見えるのは限りない透明。私はどうやってこの透明を見ているのかも分からない。目があるわけじゃない。目で見ていない。でも透明の何もない。私を包むものもない。水の中にいる気がするけど、水なんかない。それでもただひたすら透明の中に呑み込まれていく。ただ透明な空間をひたすらに動いている。落ちている。どっちに落ちているかも分からない。上か下か。左か右か。それすらも分からない。ただただ、呑み込まれていくだけ。
 存在が消える。でも何故だろう。私の感情はここに存在している。存在の消滅は。何を基準に「消えた」となるのだろう。人に見えないからじゃない。自分が見えなくなった時が、存在の消滅だ。
 だったら存在を証明すればいい。精一杯。どうにかして。
 でも、ここはどこ?
「私の証明の術は何―――?」
 彼の声はまだ聞こえる。微かに。近くもならないし、遠くもならない。ひたすら透明に呑み込まれていく中で、追いかけもせず、追われもせず。それでも彼の声が聞こえてくる。小さくても、脆くても。
私を呼んでいる。



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