第四章 沙耶




  * 沙耶 * 彼が会いに来てくれたのは、夕方ちょっとすぎ。日ももう少しで暮れようとしていたころだった。
「よっ。」
 私は笑みを浮かべる。勝手に笑みが浮かんだ。
「待ってたよ、唯君。」
 彼もにっこりと笑ってくれた。昨日と同じように、草の上に座って話し合った。今日何があったとか、どうでもいいことも。彼が今までどうだったかも話してくれた。私は全部知ってるけど、彼の視点で話してくれたことで、また違うものを知ることが出来た。なによりはなしてくれたことが嬉しかった。
「なんていうかさ、不思議なんだけど、我妻さんと話してると、なんていうか、その、抵抗がないって言うか、話しやすいって言うか―――」
「沙耶って呼んで。」
「あ、ごめん。その、沙耶と話してると落ち着く。なんていうか、とても昨日あった気がしないんだよね。なんか僕も沙耶のことをずっと前から知っていた気がするんだ。その、沙耶と逢えてよかった。」
「そう。よかった。私もあなたを知っている。ずっと前から。」
「やっぱりどっかで会ったことあるの?僕たちって。」
 彼はこちら側を見る。
「ないわ。でもずっと知っている。不思議と。」
「不思議だな。」
 意外な答えだった。今までの彼なら、おかしなことは、ところかまわず質問して、解決しようとしたはずだ。彼がまるくなった。もちろんそれは、私の前でだけかもしれない。我妻沙耶として私が存在することで、彼が変わる。じゃぁ私がいないところじゃ?
「ねぇ、唯君。―――聞きたいことがあるの。」
「なに?沙耶。」
聞いてみたかった。昨日私が夢の中で言った、聞いたあの言葉。彼に質問してみたい。不安だった。彼が何て答えるのか。でも聞かなきゃいけない。私がここにいるのは、彼にとってもよくない。自分を信じているから。私の知ってる彼も、そして私自身も自分に正直に行きたいと願っていたから。
「あのね、唯君。落ち着いて聞いてほしいんだ。」
「なに、沙耶?」
 私は深呼吸をする。心をとにかく落ち着ける。自分の辞書の中から言葉を選んで、なお、簡潔に。
「唯君は、私がいなくても生きれる?」
一番単純に。それでも一番聞きたい核心を、そのまま聞いた。
「何言ってるのさ、ぼ、僕は沙耶が好きさ。とっても。で、でも何でいきなりそんな事を言うの。僕は沙耶がいないと、いないとまた―――」
動揺が見える。とても分かりやすい動揺。表に出さない彼のほんの小さな動揺。でも焦燥感が浮き出ていた。
「そういうことじゃないの。好きとか嫌いじゃなくて、あなたにとって、私は必要かって聞いてるの。」
「ひ、必要に決まってるじゃないか。僕は君がいないと、君がいないとダメなんだ。」
「私がいたら、自分を殺さないって約束できる?」
「―――殺していないよ。僕、昨日は自分を殺していない。」
「嘘。そんな嘘つかないで。私は全部、分かってる。」
 分かっているわけじゃなかった。ただなんとなく、昨日の彼と違った。だからそんな気がしたんだ。昨日彼は、確実に自分を殺した。そしてまた私のところにきた。私が少しでも彼を癒してあげられたからだ。
やっぱり、私は彼のためにならないのかもしれない。

  * 唯 *
 心を読まれた。今までずっと読まれないように。どれだけ心を殺してきたか。感情を前に出さなかったか。なぜ彼女は、『沙耶』は僕のことをここまでよく知っているのだろう。怖い。人に裏切られる怖さでない、見透かされる怖さが僕を襲った。焦りに近かった。そして喜びでもあった。ただ悔しかったのかもしれない。負けた気がした。今までずっと隠し通してきた、弱い自分を存分に見られた気がした。
 先日、沙耶と別れた後のことだ。家に帰ると飯も食べずに、自分の部屋にもぐりこんだ。約束を破って自分を殺した。恐怖に包まれたからだ。ずっと守ってきた『表の自分』を壊された気がした。『中の自分』を抉られ、覗かれた。今までずっと見られなかった自分を知っている。自分さえ知らない自分を知っている沙耶という存在に恐怖を覚えた。忘れようと自分を、痛めつけ、手首に傷をいれ、息を止めて失神するまで自分を殺した。でも今回は殺せなかった。痛めつけただけ。結局いつも自分を殺せないのだが、今回は心で殺すことも出来なかった。手首の傷跡は、一日もしないうちに塞がる。自分を傷めるのに一時間、二時間もの時間を使ったのにもかかわらず、直ってしまうのは、戻ってしまうのは早いものだ。でも傷は塞がっても、自分を戻すのは時間がかかる。傷ついたものは戻せるけど、壊してしまったものを元に戻すのは困難だ。
「沙―――耶―――。」
 なぜかその名前が出てきた。恐怖の存在だ。恐怖の象徴だ。それなのに、とても沙耶の存在が、愛しく、そして尊く思えた。一人の理解者として、恋人として、そして人間として彼女に魅力を感じた。彼女は一体何なんだろう。疑問が浮き上がった。だけどその疑問を追いかけることはしなかった。追いかける気すら起きなかった。なぜだろう。追いかけても意味がないと思ったからだろうか。絶望の意味ではない。希望は誰の前でも希望なのだ。そんなものを求めたところで、なんということはない。
 沙耶は僕にとっての希望だ。だからあの時、「必要に決まってるじゃないか。僕は、君がいないとダメなんだ」って言えたんだ。
 その後の話を、僕の視点で語ろう。
 僕は逃げたんだ。その場にいるのが怖くなって。公園から駅に向かってダッシュした。家に帰ると速攻で、部屋にもぐりこんだ。そして今に至る。でも分かれてどうだろう。また不安な自分が出てくる。今まで自分を殺せていても、それが怖いだとか、不安だとか思わなかった。でも昨日から何かがおかしい。怖いと思っている。殺されるのがじゃない。殺すのが。しかも殺すのは自分の中の自分じゃない。今ここにいる自分だ。ここにいる自分が、ここにいる自分を殺す。その理由は何だろう。沙耶なんだ。沙耶が僕を殺させなくしている。重すぎる緊縛。それが僕を取り巻いていた。沙耶が消えたら僕は大変なことになる。そんな予感がした。でもうすうす自分でも気づいていた。いや、もうこの時には確信に変わっていた。ただ自分が弱かったせいで答えが出なかったんだ。今の僕が沙耶無しでは、あまりにも脆かったから。
「沙―――耶―――。」
もう一度彼女の名前を口にした。彼女に今は僕の全てを託すしかなかった。僕が強くなれないのなら、僕はもう変われない。でも沙耶がいたら強くなれるって。本当に何となく、そんな気がしたから。




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