四章 Zwei sind Weit
「この世界は、能見瑛とΣの夢だ。」
昨日はそんな話を聞かされた記憶がある。
瑛―――。
ずっと教室に入ってから静かに自分の席で読書をしている瑛をちらっと見た。相変わらずの暗い顔。
いつから、どうしてこんな気まずい日々を送るようになってしまったのだろうと、安藤は考えに耽っていた。
昨日は疲れた。
あの後は、「明日は向こうの世界では金曜日で、学校があるだろ?」とアイーシャが夜遅くなるのを気にかけていたので、あの扉のところまで使用人を使って遅らせてもらった。
あそこはどうやら防空壕の跡地であるが、その中にミニマムなラクリマに繋がる道があるということはどうやら国家機密らしく、ゼロもメンテナンス中で、動かせる状態ではなかったので、いかにもいかにもなリムジンで元来たあの草原まで送ってもらった。
ただその時、車の中でハルカと一言も口を聞かなかったことが、少し心の中で、まずいことをしたかなと引っかかっている。
だが、その後が問題だった。
あの扉に入り、リ・フレクトからリ・アルに戻ってくるのは、何の問題も無かった。
だが最大の問題だったのは、ハルカのこちら側の世界の自宅についたとき、時刻は既に午後の8時半。
残念ながら、このローカルな電車たちは、8時前には終電が終わる。
つまり、帰れないと言うことだ。
「なぁ?ハルカ。椿駅ってタクシーとかあるっけ?」
「さすがにこの時間は無いわ。呼ぶことも出来るけど、お金すごく掛かると思う。こっちの世界のお金は、私もあんまり持ってないし・・・。でも、ツカサが帰れなくなっちゃったのは私が明日学校があるってことも忘れてリ・フレクトに連れて行っちゃったのが原因だから、タクシーを呼んでもいいけど・・・。」
ハルカの表情を見るからに、お金の余裕は本当になさそうだった。
そんな少女からお金も巻き上げることも出来ないし、かといってこの寒い夜の中、家まで30キロメートルはあるであろう道のりを帰れるかというと無理がある。
そんな時だった。
「よかったら、泊まっていかない?」
と迷っていた安藤に3つ目の選択肢が舞い降りた。
「えっ?」
安藤は動揺する。
いくらハルカでも、いくら異界の人間でも、一応女の子だ。第一、家に帰らないと教科書だって何も無いじゃないか。といろんな理由を考えた。
が、
「ツカサのクラス、明日は日本史・代数・オーラル・化学I分野・音楽・音楽でしょ?私のクラス、明日は現代国語・オーラル・幾何学・リーディング・化学I分野・代数だから、うまくやれば一日乗り切れるわ。」
と考えると、この場は泊まっていったほうが得だと考えた。
通学カバンとギターもハルカの家に持ってきていたわけだし、第一着ている服も制服のままだ。
ノートもルーズリーフだからなんとかなる。
問題ない、と思って今日は泊まらせてもらう事にしたのだが、問題はそこからだった。
「電話、ない?」
「ないわ。」
「あぁ、そうか。」
「どうしたの?ツカサ?」
「いやぁ、あのさ。泊まること、智子さん、あっ、その、お母さんに連絡しないといけないんだけど、多分心配するだろうし。でも俺携帯持っていないからさぁ。」
「あ、ごめんなさい。電話も無いなんて。その、ごめんなさい。」
あの人のことだ。
もし家に連絡もいれずに帰らなかったら、心配しすぎて警察にだって連絡しかねない。
それが不安要素だった。たぶん今だって、帰るのが遅いからライブハウスや学校に連絡しまくっているのに違いない。
想像ながら、その映像が頭の中に流れるたび、鬱になる。
でも、もう仕方が無い。
今日のところは諦めることにした。
「まぁ、飯食おうぜ!俺腹減ったからさ。」
と、申し訳なさそうにするハルカをあまり責めないようにご飯の話題を出した。
が、ハルカの口から飛び出したのは。
「あの。うちってさ、あんまりご飯とか作らないから、カップラーメンとパンとそれに塗る奴くらいしか置いてない。炊飯器もないし。ガスも通ってないし。」
待て、待て、待て。
ここは日本でも有数の農作地帯だぞ。炊飯器が無いワケがないじゃないか。たとえ炊飯器が無くても、釜があったり。とにかくご飯を炊く施設があるもんだ。
と言われても、この家はかなり洋風な造りだ。そんな古風のものが存在する気配など微塵もない。
「あ、そうか。じゃぁ。カップラーメンでいいか。」
「うん。ごめんね、ツカサ・・・。作ろっか。」
と余計にハルカを申し訳ない気持ちに追いやってしまったのかもしれない。
ハルカは、○×食品のいわゆる一番スタンダードなラーメンを戸棚から取り出した。
「しょうゆと、みそと、塩と、カレーと、スーパー激辛ハバネロチリソースが有るけど、どれにする?ツカサ?」
バリエーションは豊富だった。
「じゃぁ、味噌で。」
「わかったわ。じゃぁ私も味噌にしよっ!あっ、そうだ、ツカサ。バターなら有るけど、いれる?」
「あぁ、頼むよ。ハルカ。」
ハルカは、奥のキッチンに駆けて行き、ポットのお湯を二つのラーメン入れると、小さな冷蔵庫から、バターを取り出して、こちらのテーブルに持ってきた。
「あと2分20秒だよ。ツカサ。」
「あぁ。」
テーブルに二人で向かい合って、カップラーメンが出来上がるのを待つ。
床暖房もエアコンも何も無いこの部屋は、10月と言えども身にしみる寒さだった。このまま冬が来たら、ハルカはどうするのだろうか?と少し不安になった。
二分の時間は、いろんな事を考えていたら、あっという間に過ぎてしまった。
「食べよ!ツカサ。今日はバターを大サービスするのだ!」
とハルカは、自分のラーメンの蓋を開ける前に、安藤のラーメンの蓋を開け、カップラーメンに入れるには、贅沢なほどバターを持ってくれた。
全体の8分の1くらいのバターが、どぼっと味噌スープに浸かった。
今バター(と言うよりは、乳製品全体)は異常な値段高騰にあり、一箱の値段が400円を超えた。
だからこれはかなり贅沢なことだ。
一個157円(もしくは大量購入なのでそれ以下かもしれない)の安藤のカップラーメンは、あっという間に、200円くらいの豪勢なものに早代わりした。
バターのせいか、ラーメンは正直バターの味しかしなかったが、それでもラーメンはすごく美味しかった。
手料理とは言いがたいけど、智子さん以外の女性に料理をご馳走してもらったのは久しぶりだった。
昔は瑛が結構作ってくれたっけなぁ―――。
といろいろ過去に耽っていた。
瑛―――。
「なぁ、ハルカ。聞きたいことがある。君なら知っているはずだ。」
「なに?私でよければ、何だって答えるわ。」
聞きたいことがあった。
瑛のことだ。
自分の大切な―――。
安藤は思い切って聞いてみることにした。
「瑛は、能見瑛がこの世界と君の世界にどういう影響をもたらしてる?」
ハルカが固まった。
空っぽになったラーメンの受け器がコロッと倒れる。音がどこまでも響く。
ハルカが俯く。
ハルカの目の下には、違う世界が広がっているような。そんな目をする。
「言えない。今は、言えない。でも一つ誓って欲しいことがあるの。二度と能見瑛に近づこうとしないで。」
「どうして?」
「お願い。言うことなんでも聞くって言ったよね・・・。お願い―――。」
ハルカの口調が暗い。
この部屋、この空間。全部の空気そのものが、暗澹に満たされていくようで、黒い嫌な雰囲気が漂う。
何だって答えるって言ったのに、それ以上安藤は、瑛のことでハルカにつっ込んだ質問が出来なかった。
聞きたいことは、山ほどあるのに。
近づくなって、どういうことだよ。
「ツカサ、お風呂は入ってきなよ。さっき沸かしておいたから。そろそろお湯、一杯入ってると思う。」
と、明るい顔でハルカは言う。
安藤を必死で元気付けようとしてる。
自分が一番この空気に飲まれそうなのに、どうして他人にこんなに気を回すことができるのだろう?
安藤は、ハルカの強さを知った。
瑛のことは―――。
「いいって。やぁ、あのさ。俺が入った後に入るの、嫌だろ?だから先に入って来いよ。ハルカだって疲れてるだろ?」
「いいの、私はツカサに先に入ってもらいたいの。そうじゃないといけない気がするから。タオルとかはたくさんあるから、適当に使っていいよ。」
風呂の順番一つでも、ハルカの目は真剣になったりする。元帥さんの前だって、おどけた目を見せるのに、安藤との話のときは、目がいつもマジだ。
それがハルカなのか。と少しずつ安藤はハルカのことを知ろうとしていた。
「そうか。わかったよ。」
だから言うことに、逆らうことはやめることにした。
ダイニングに向かう途中の左横のドアにBATH & W.C.という看板がぶら下がっている。見れば分かるが、一応聞いてみることにした。
「ハルカ、ここか?風呂って。」
「そうよ。トイレもそこだよ。」
安藤は風呂に入る前に、自分が今制服でいることに気づいた。
「なぁ、ハルカ?簡単な着替えとかってあるか?」
「え、あ、その・・・。私のサイズなら向こうからたくさん持ってきたんだけど、ツカサに合うサイズは。その・・・。あ、でもツバメの着替えならあるかも。今日、それでいいかな?ツカサ?」
ツバメ。
あの目付きの悪い黒服の男が、ハルカの家に泊まってるのか。と思うとあまり気分はよくなかった。
異界から来たのなら、家はここしかないはずだから仕方ないとは思ったが、安藤の内心はあまり愉快ではなかった。
だからって制服で寝るのは無理だ。しかも今日はかなり疲れた。できたら着替えて楽な格好で、温かい布団の中で寝たい。
「そっか。いいや、別に。大丈夫だよ、ハルカ・・・。」
鬱だ・・・。
でも何となく借りることもできなかった。
そんなこんなで、風呂もハルカに悪いと思ってシャワーだけで済まし、風呂から出た後は、いやいやながら暑苦しい制服を着た。リビングに戻ったとき、ハルカは何も無い床の中央で座っていた。
何か考え事をしていたのか。
「寒くないか?ハルカ・・・。」
ハルカは安藤に気づくと、にっこりと笑う。
「平気よ。私は。お風呂はどうだった?あったまった?」
「あ、まぁまぁ。」
と言っても、実際のところそうではないとはいえない。
「じゃぁ、私も入ってくるね。あ、ツカサの明日の授業の教科書、そこにあるから。オーラルは私が終わったら渡しに行くね。」
「ありがと、な。」
「どういたしまして。ツカサ。」
ハルカはそういい残すと、風呂に浸かりに行った。
テーブルの上には、丁寧に並べられた明日の時間割通りの教科書があった。
教科書を一つ手に取り、後ろを見ると、可愛らしい字で1C、ハルカとだけ書いてあった。
「これじゃぁ誰のだかわからないだろ・・・。」
と思いつつ、安藤はハルカに教科書を貸してもらうことに感謝した。
落ち着かないのはそれからもだった。
リビングからハルカの風呂に入っている音が聞こえる。
なんだろう。安藤は妙に緊張している。
なんというか、とにかく落ち着かない。
「ちょっと外に出るか。」
と誰もいないのに、自分に言い聞かすようにそういうと、玄関に向かい外に出た。
空は綺麗だった。
あたり一面に綺麗な星空が広がっている。
冬が来てしまったら、この地域は毎日のように雪。青い空を拝む機会が少なくなる。そうなる前に見た空。
空には秋の星座が輝いている。
低い空に、綺麗な白い星が見える。
白い星。
そんなとき、冷たい強い風が吹いた。
風で目が滲むとそれはどこかで見たような景色。屈折して縦に伸びたその星は、リ・フレクトで見たシャングリラを思い返させた。
世界が変わる。
安藤は、ありえない現実を受け止めようと必死でもがこうとしていた。
でもまだ自分はその蟻地獄の中に飛び込もうともしていない事に気づく。するとハルカがものすごく遠く感じる。
ハルカ―――。
その名前ともう一つ。
瑛―――。
彼女の名前が安藤をよぎった。
「瑛・・・。か。」
ずっと引っかかっていることがある。
また、シャングリラに行くのだろうか。
それがどんどん安藤自身が、瑛から遠ざかっていくような気がした。
家の中に戻ったときには、すでにハルカが風呂から出ていた。
「ツカサ。どこ行ってたの?外、寒いよ。」
「あぁ。ちょっと星が綺麗だったからね。」
結構長い間、空を見ていたらしい。
ハルカに心配をかけてしまったようだ。
「綺麗でしょ。なんとなくだけど、市街地で見るやつよりはよっぽど綺麗だと思うよ、こっちの方が。」
「そうだな。」
ここは田舎だ。市街地だって星は十分綺麗だ。
だから東京よりは星が綺麗だ。
でも、そんな所よりも、もっと綺麗な星を見れた気がした。
「そろそろ寝よう。朝は早いの。毎日通学に一時間半くらいかかるから。」
「うわぁ。俺朝起きるの苦手だ・・・。何時くらいに起きればいい?」
「ご飯を食べるんだったら、朝5時半には起きないと辛いかな。7時10分に椿駅を出る列車が学校に間に合う最後の電車だし、米沢に着いてもそこから20分歩くからね。6時40分に家出ないと間に合わないから、一時間前くらいには起きておかないと。」
朝は早い。毎日20分の徒歩通学にしか縁が無かった安藤には、朝5時代に起きるというのは相当辛い。
テレビも何もないハルカの家だ。ここは寝るのが先決だと思って今日は寝ることにしたのだが・・・。
部屋の都合上の関係なのか、寝るところはハルカの部屋になった。布団もハルカの部屋にしかなく、ソファーも無いこの家だと布団を出して寝かしてもらうことになったのだが、ハルカの部屋には北国の地方の大いなる味方。ストーブがあった。滅茶苦茶小さいので、狭い部屋にしか対応しないような・・・。
それでも、寒さの葛藤には勝てず、恥ずかしいながらハルカの部屋で寝ることにした。
ハルカの部屋は4畳半の部屋だった。ベッドと制服掛けと。それとタイマー付き電気ストーブ。
それしかなかった。
本当に何も無い家だった。
ベッドの横に、布団を引いて寝ることにしたが、いかんせん、恥ずかしくて寝付けない。
結局ストーブが消えても寝付けずに、そのまま朝が来てしまった。
朝、予定よりちょっと早く起きて、ハルカの寝顔を少々拝見した。ハルカの寝顔はものすごく美人だった。
ふぅ〜、と寝返りを打ったときは、びっくりした。
(あ、やばい。かぁいい。)
って何を考えてるんだ。
安藤は自分の理性を保つので精一杯だった。
(クールになれ。相手はあくまでハルカだ。クールになれ。クールガイになるのだ、安藤ツカサ・・・。)
と頭の中で念じた。
なんとなく、ハルカを好きになっちゃいけない気がした。ハルカはハルカだし、瑛を気にしているせいもあるかもしれない。
その後は、食パン2枚程度、適当に朝食を取り、駅まで歩き、電車に乗り、そのまま学校に登校した。
登校している間は、下らない会話ばかりで、あまりつっ込んだ話は出来なかった。瑛のことで聞きたいことがたくさんある。
校舎の昇降口の下駄箱で、ハルカといったん別れ、教室に入る。いつもより登校時間は早いためか、あまり親しく話す連中はいない。
「はぁ〜〜〜。」
眠い。
安藤は自分の席に着くなり、大きなため息を漏らした。
疲れた・・・。
大いに疲れた・・・。
藤川が登校してきて、起こされるまで、少し眠った。
「安藤!起っきろ。」
「あぁ。よく寝、てない。」
「なんだそれ(笑)?」
と藤川がくしゃくしゃと笑い、カバンを自分の席に置きにいく。
ふと黒板の方を見ると、瑛が視界に入った。
あいかわらずいつものように、静かに自分の席で読書をしている。暗い顔。
憂いた顔。
「はぁ。」
大きなため息をもう一度。
いつも通りの学校という日常が、今日に限っては、ものすごく疲れる存在に思えてならなかった。
日常が大いに変わって見えた。
*
「おい、安藤!お前、いつ久保田ハルカを落としたんだよ。ってかどうやってアイツと接点を持ったんだ?」
「あぁ?」
長ったらしい代数の時間は疲労により爆睡。
藤川の声によって、10分休みに気が付いた。
「あぁ?じゃねぇよ。お前。呼ばれてるぞ。」
「誰に?」
「久保田ハルカにだよ。お前、いつアイツと接点持ったんだ?さっきよぉ、トイレから戻ってきたら、『ツカサ、呼んできて。渡すものがあるから。』って言われてさ。まぁ、早く行ってやれ。」
教室のドアからハルカが手を振っている。
安藤はびっくりして思いっきり椅子から立ち上がった。
ガタッ―――!
「おい、びっくりしたなぁ。もう。」
藤川は安藤が飛び起きた音でびっくりした。
安藤の存在に気づいたハルカは、安藤に向けて大きく手を振っている。
安藤は足早に教室のドアで笑顔で待つハルカの元へ行く。
「な、なんだよ。」
「はい。オーラルの教科書だよ。頑張ってね。ツカサ。」
「あ、悪い。ありがとな。」
「どういたしまして!それじゃぁ、また後でね!」
用が済むと、とことこと自分のクラスにハルカはかけて戻っていく。
ハルカは戻るとき向かい側から歩いてきた生徒とぶつかりそうになる。ハルカは絶妙に避けたが、ぶつかりそうになった生徒はよろめいて、体を仰け反った。
その時、その生徒が安藤のことを気味の悪そうな目で見てきた。
さりげなくスルーしたが、いい気ではなかった。
(ハルカといると、やっぱり他の人から変な目で見られるのか・・・。)
安藤は、自分の中に悲しさと虚しさがあふれ出てくることがわかった。ハルカをみんな勘違いしてるんじゃないかと。
席に戻ると、藤川がニヤニヤした目で待っていた。
「やぁやぁ。安藤司君。知らなかったよぉ。君と久保田ハルカが、互いに教科書を貸し借りする中だったとは・・・。」
「冷やかすなよ。そういうんじゃないって。」
「とかなんとか言っちゃってぇ。まぁ、なんつーんだ・・・。第一、冷やかすとかそういうこと抜きにさ、気になったからだよ。久保田ハルカとまともに話している奴、見たことねぇもん。お前が初めてなんじゃないのか?だってセンコーたちだって、アイツと関わること避けてるんだぜ。」
「そうか・・・。俺、変か?」
「別にそこまで言ってねぇよ。ただ、どうやってあの久保田ハルカを手なずけたのか気になったもんでね。」
やっぱりハルカは変だ。
もちろん安藤自身はそういうことなんか、もう思ったりはしていない。
でも周りの目からすると、やっぱりハルカは不自然な存在のようだ。安藤はそれがとても虚しくて。
心に穴が開くような気がした。
「で、どうやったんだよ?」
「別に。ちょっと話しかけただけ。」
「あのなぁ、だーかーらー、話しかけたらウザイとかウサギ以下だとかそういうことしか返さないあの久保田ハルカをだなぁ―――。」
ハルカをどうやったらもっと気にせずに認められるんだろう。
十分に認めてきたはずなのに、全然足りないような。まだまだハルカを自分のどこかで除外している気がした。
何故だろう。
理由をちょっと考える。
ふと瑛の方を見る。
運が悪く目が合ってしまう。
「あっ―――。」
瑛は申し訳なさそうに、安藤から目を逸らすと、また手元にある本に目を向け、読書をし始める。
「安藤?」
「あ?」
「お前なぁ、ボケーっとしてないで、人が話してるときくらい人の話くらい聞けよぉ。まったく。」
「まて、今の日本語理解できない。」
「だから、人が話してるときくらい、人が話してることを・・・。あれ?ちょっと待て、考える。Wait! うん。あるぇ?」
「バーカ。」
「なんだと!こらぁ!残念ながら前期の成績は俺のほうが勝ってたぞ〜〜。」
安藤は空ろだった。
瑛。
瑛がものすごく遠く見える。
理由なんて無い。
近くにいるはずの存在が、ずっと、ずっと。ずっと遠くに行ってしまって。それで・・・。
そのまま追って行けずにグダグダしている自分が虚しい。
また聞き慣れた鐘が鳴る。
オーラルの授業は基本的に講師のウィリアムス先生が言った英語を、そのまま棒読みで返してただけだった。
口元に力が入らない。
なんどか先生に口が動いてないと注意されたが、どうしても力が入らなかった。
だるい―――。
窓から見上げた空は曇りだった。
昨日の夜空とは打って変わって、太陽が顔すら出さない曇り空。どこまでも遠く灰色。どこまでも視界が開けないような。
視界がぼんやりし始めた。
結局その後2階鐘が鳴ったか。
ずっと空ろなままだった。
ノートも取らず、何も考えずに、ずっと空を見ていた。化学I分野は内容でも難しい部類に入る教科でもあり、赤点の基準が妙に高い神酒q高校じゃ落としてしまう筆頭の教科のひとつだ。
それなのに、普段はせっせせっせとノートを取るのに、今日に関しては指先にも力が入らなかった。
CLEARON―――。
ふとそんな単語が浮かんだ。
安藤は机の上に殴り書きする。
くれあおん・・・
クレアオン・・・
CRE・・・
シャーペンの芯が折れる。
(はぁ・・・。)
とため息がどこからか溢れた。
「なんなんだよ。全く―――。」
鐘が鳴った―――。
午前中の授業がようやく終わった。
終わっ・・・た?
「ツカサ!お弁当食べよう!」
まだ挨拶をしてないのに、ハルカが教室の中に乗り込んできた。
しかも大声でこんなことを言い放ちやがった。
「ぅぁがぁ?」
思わず自分でもわけのわからない声が出てしまい、安藤自身ものすごく焦った。
いや、焦ったのは、安藤だけじゃない。
クラスの連中が奇妙・奇天烈・摩訶不思議な目を安藤に向けた。なにも藤川やそこらの連中だけじゃない。
クラスのうるさい女子たちも、化学担当の先生も、瑛も・・・。全員が全員、安藤とハルカに目がいった。
「あぁ。まぁもう時間的に昼休みなわけだし、挨拶は別にいいや。」
と先生はとことことこの場を後にした。
終わった・・・。
終わった――――――。
安藤は立ち尽くした。脳天に絶望が流星となり降ってきた気がした。空気が・・・。空気が重い・・・。
みんなも昼休みになったのだが、固まってしまっている。
そんなとき、瑛が机を立って、後ろの扉から出て行く。瑛の文芸部の友達である江草や金沢が後から続いて出て行く。
とにかくこの場はハルカをどっかに移動させることだ。
と直感した安藤は、藤川に冷やかされる前に教室の外に出て、待っていたハルカの手を掴むと、一目散に屋上に引き込んだ。
焦った・・・。
「ねぇ。ツカサ?どうしたの?」
ハルカはあどけない目でこちらを見ている。
「ど、どうしたもこうしたもあるかよ。大体、弁当って何だよ!ってか誰がそんな約束取り付けたんだよ?」
安藤はハルカを責めた。ただこの怒りが、ハルカに対してはなぜか空回りしている気にしかならない。
ものすごい怒りたいのに、なぜか安藤自身が悪い気になってしまう。
ハルカは俯いてしまう。妙に申し訳なさそうな顔をしてる。それがまた、アイツに似てて―――。
「や、やっぱりダメだったかな・・・。ツカサに早く食べて欲しくて。その・・・。」
おどおど。
ハルカはツカサに目を向ける。責めないで欲しいのか、許して欲しいのか、そこのところは安藤にはよく分からない。
ただ、そこはかとなく、何かを求めてるような・・・。
「でもなぁ、あの場の空気ってものをなぁ・・・。」
「でも・・・。ツカサ、昨日うちに泊まって、きっとお昼ごはん、食べるもの無いかなって思って、朝、ご飯つめるとき、ツカサの分も作ったんだけど、その。ツカサなにか考え事してるみたいだったから。その・・・。私・・・。いいタイミングで渡せなくて。でもツカサにはちゃんとお昼ごはん、食べて欲しくて―――。」
「ぃやぁ・・・。」
どうしようもない。
女の子が作ってくれた昼食を食べなかったら男が廃るであろう。
だからってあの状況下で渡された弁当を、しかもよりによって久保田ハルカという存在から渡された弁当をこの学校で食べたら、それこそ自分が変な目で見られるんじゃないのか、という不安だってある。
でも、なんでそんな事を気にするのかと、安藤は自分に返った。
「ハルカ、弁当の中身、なんだ?」
変だっていいじゃないか。
ハルカを認めたいってずっと願っていることなんだから。
「うん!ええっとね、サンドイッチなんだけど、挟まっているものは、イチゴジャムとかブルーベリージャムとか、スーパーイベリコ豚エキス入りメイプル牛乳リンゴ糖キャラメルピーナッツジャムとかなんだけどね・・・。」
ハルカが持っても、小さく見ええるそのバスケットの中には、きれいに作られたサンドイッチが入っていた。
当然ひとりでは食べれる量ではない。最初っから安藤と食べるために作ってきたのが見ただけで分かるくらいの量だ。
あ、うまそうだ。
もちろん一部は除いてだが・・・。
でもパンにジャムを塗って挟むだけでも、これはこれで不味いもんじゃないし(もちろん一部は除く)、腹など壊さないし(もちろん一部は除く)、それなりに腹だって満たせるだろう(もちろん一部は除く)。
ハルカの表情が笑顔になった。
どこまでも明るい、いつもの久保田ハルカだ。
「じゃぁ、ブルーベリーでももらおっかな。」
「うん!はい、どうぞ!」
ハルカから紫色の具(具と言えるかはどうかと思うが)が入ったパンをもらう。ラップをはがして、後は口に持っていくだけ。
だけど、一回手が止まった。
なんでだろう。何を戸惑う必要がある。躊躇う必要性が、どこにあるという?
能見瑛の存在が、安藤の脳内を駆け巡った。
あの時教室を一番最初に後にした瑛。あの時の表情が思い浮かんだ。どうしても、どうかしても気になってしょうがない。
「ツカサ?食べないの?何かパンに挟まってる?」
「いや、違うよ。」
ハルカにいわれて、安藤は食パンを半分に切ったサイズのサンドイッチを一口でぺろりと食べた。
というより飲み込んだ。
「おいしいよ。ハルカ。」
「ホント!?嬉しいな、ツカサにそういってもらえると。私も食べよっ。ツカサもどんどん食べていいんだからね。」
終始昼休みは空ろだった。
空はどこまでも曇っていて、屋上は妙に寒いだけだった。
ハルカの作ってくれたサンドイッチを、これでもか!ってくらいほおばって(無論やけ食いともいう)、そのたびハルカのこぼれる笑顔を拝見した。
ちなみにスーパーイベリコ豚エキス入りメイプル牛乳リンゴ糖キャラメルピーナッツジャムはそこそこイケた。
代数の教科書をハルカに返して、屋上を後にした。
「ツカサ。今日もうちに来れる?」
教室に戻ろうと、階段を降りかけたときだった。
ハルカから、また異界へのお誘いが来た。
「バンドの仲間に連絡すればなんとか。日曜日にライブするから練習したいんだ。」
「そう。それじゃぁ、今日も待ってる!」
「どこで?」
「決まってる。」
「そうか。」
会話がなぜか成り立った。
そもそもなぜ自分がリ・フレクトに行ってもいいということをOKしてしまったのか、怖いくらい謎だ。
でも分かっている。これは、安藤自身の夢よりも大切なことかもしれない。
知りたいことが一杯あるからだ。
まだまだ知らない何かがある気がするからだ。
教室に戻ったとき、一人の少女が安藤の目に留まった。いつものように一人、本をたんたんと読んでいた。
違う世界がそこにはあって、その世界には、能見瑛ただ一人が、とある作者が誰かに伝えたい世界をゆっくりと噛み締めながら味わっている。その光景がまた、違う世界を作り出しているのかもしれない。
安藤は瑛の元へ向かう。
「アキラ、ちょっといいか?」
久々に能見瑛に、行事やらなんやらの会話を除いて、安藤自身から話しかけた。
「―――。」
シカト。
無視。
なんだろ?これ?
すごく嫌な空気が漂う。どこまでも目の前にいる瑛が遠く感じる。
「アキラ!聞こえてるだろ?ちょっとは人の話くらい聞けよ。」
「なに?安藤君。なにか私に用?下らない用件だったら、私、行きたくないわ。今、忙しいから。」
冷たくて透き通った声だった。
でも瑛の放った言葉は、とても重かった。
安藤君。その呼び方自体、納得できなかった。ちょっと前までは、下の名前で呼び合っていたのに、たった3年離れていただけなのに。
それだけなのに能見瑛の存在はどこまでも遠くなっていた。能見瑛の中で、安藤はただの一男子となっていた。
「なぁ、アキラ。別にそういうわけじゃないんだ。ただアキラにちょっと話したいことがあるんだ。」
「断るわ。今忙しいの。それから私を名前で呼ぶのやめてもらえないかしら?すごくウザったいんだけど。」
そこに安藤の知ってる能見瑛の姿は無かった。
感じが悪い。こんなんじゃない。
嫌だ。
何か嫌だ。
こんなんじゃない。
能見瑛は変わってしまっていた。どこまでも変わってしまった。もう知ってる姿はどこにもない。そんなこと見れば分かる。
「なんだよ、それ?」
安藤の中で、何かが崩れそうだった。
それでも。納得できなかった。
「なんなんだよ!そんなのないだろ?」
「迷惑だわ。」
瑛はそういい残すと、立ち上がり、教室の外に行ってしまった。
安藤は追いかけることも、呼び止めることも出来なかった。どうしようもなくなって、何も考えられなくなった。
その後、瑛と話すことは無かった。
話したいことはたくさんあるけど、そんなことを出来る状況じゃなくて、ただただ後ろから見てるしかなかった。
瑛は友達と雑談しながら、くすくすと話が盛り上がるたび笑っている。苛立ちじゃない、あの笑顔があてつけのように思えてくる。悔しくて。虚しくて。
音楽の授業は得意な楽器の演習だったのに、指が全然動かなかった。
藤川が途中気分でも悪いのかと心配してくれた様子を見せたが、構うことも何も出来なかった。
授業が終わった後も、音楽室から瑛はさっさと帰ってしまい、帰りのHRが、移動教室のあとは無く、流れ解散であるのが神酒q高校の決まりと言うこともあり、結局昼休み以来、瑛と話すことはなかった。
「なぁ、安藤。今日はライブあるか?昨日はお前居なかったみたいだけどさ。もし今日あるんだったら家に帰った後行こうと思ってるけど。」
窓から空を見上げて考え事をしていたときだった。藤川が話しかけてきた。
ライブ、か。
昨日ライブハウスに行ってない、それだけなのにしばらく音を奏でていない気がした。唄いたくて、ギターを弾きたくてしょうがないのに、どうしてか今は、思いっきり唄う気力になれなかった。
違う。多分うまく唄える気がしない。
「悪い。藤川。今日の練習もパスする。日曜日にライブするから。そのときに来てくれればいいや。」
「そうか。それじゃぁ、日曜日を楽しみにしてるよ。何時くらいに行けばいい?」
「開店はいつも通り6時だけど、多分7時くらいからの演奏になると思う。」
「そっか。楽しみにしてる。」
「あぁ、悪いな。」
約束がある。
ライブの練習よりも大切な、約束がある。
新曲の作成だってあるし、三ヶ月に一度程度のペースでやっている、駅舎の中にあるライブ用ステージでの演奏の日もあと2週間と迫ってきている。準備もそろそろしなければならない頃だ。
それでも、それよりも大切なことがある。
「ハルカ。」
桜の木の上には、いつものように少女が一人。
「待ってたよ、ツカサ。」
「よし来い!」
三回目にもなるとさすがに慣れが来る。特に今日はいつもよりうまく決まった。ハルカをお姫様抱っこの形で受け止めることが出来た。
「ツカサ、カッコいい。」
うん。重い・・・。
でも決まった―――。誰も見てないけど。というよりも見られていたら気まずいけど幸い裏門は人気が無い。
「ありがとう。来てくれるって思ってた。」
「バンドのみんなには、休むって連絡してきた。でもさ、行く前にちょっと一回家に帰っていいか?昨日帰んなかったから、多分思いっきり叱られると思うけど、とりあえず事情を母さんに説明してくる。」
「いいわ。大丈夫よ。時間はまだたくさんあるから。」
まだ。
言葉を理解するのは時間がかかる。理解しようとしても、やっぱりハルカのことでは知らないことがありすぎる。
ふと、借りてた教科書のことを思い出した。
「これ、借りてた教科書。」
安藤は、ハルカから借りていた教科書を返す。
「今じゃなくても良かったのに。ありがとう。」
「それこっちのセリフだと思う。」
「それもそうね。」
ハルカにはやっぱり笑顔が似合う。
瑛のことでショックを受けていた安藤にとって、その笑顔はほんの少しではあるが、支えになる。
「ウサギさんたちに餌をあげなきゃ。ツカサも来て。」
「あ、あぁ。」
今更になって気づいたことだが、ハルカは学校の通学カバンの他に、白いビニール袋をもっていた。
恐らく餌だろうか。学校の学食の残飯だ。
ハルカがウサギ小屋に向かって駆け出し、小屋の前にたどり着いたときだった。
ハルカの足が急に止まった。
「どうした?ハルカ?」
「ウサギさんが・・・。シロが、死んでる。」
ウサギ小屋の柵の正面、一番近いところに、ピクリとも動かなくなった白兎が一匹いた。
「なんだよ、寝てるだけじゃないのか?」
「そうだったらいいけど。多分―――。」
ハルカは自分から小屋に入り、白兎を抱いた。
ハルカの行ったとおり、そのウサギは死んでいた。
「まだ寿命にはほど遠いのに。ごめんね。気づいてあげられなくて。」
「・・・。」
ツカサはハルカに何も言ってやることが出来なかった。しゃがみこんで呟くハルカを、ひたすらに見ているだけだった。
ハルカの声のトーンが急激に落ちた。
でもハルカは涙を浮かべることも、声が悲しみに震えることも、ショックの表情を見せることも無かった。
「きっとツカサを呪った業なのかな。私に他の人の世界に鑑賞する権利なんて無いのに、それをムリヤリやった私への呪いなんだわ、きっと。」
「呪いなんて無いだろ?ハルカに。」
安藤自身、無意識の内にそんな言葉が出た。
言ってから言葉に困ったのもあるが。
「えっ?」
それでもハルカは予想にもしていなかった顔をした。とても驚いていた。
「お、俺がハルカに・・・、その・・・、呪い消してくれって言ったとき、お前めちゃくちゃ笑ったじゃないか。なんつーか、俺のことバカにしたみたいでさ・・・。だからさ、呪いなんて無いんだよ。ウサギが死んじまったのもただの偶然だって。俺はそう思うぞ。あんまり深く考えんなよ。」
ハルカを元気付けるつもりなんて無かったし、ハルカを責めるつもりも慰めるつもりもなかった。
ただ、自然と言葉が喉の奥からあふれ出てきた。
「お前禁止。」
「今、俺、『お前』なんて言ったっけ?」
くすっ、とハルカが微笑する。
「言ったわ。でもありがとう。ツカサにそう言ってもらえてうれしいわ。なんか少し元気出たかも。」
お前、禁止・・・。
ハルカが安藤の話をなによりも一語一句逃さず真剣に聞いてるから、そんなことが言えるのかもしれない。
安藤自身、『お前』と言ったことを覚えていないのに、ハルカは指摘した。
それが怖くて。でもそれが凄くて。びっくりして。でも聞いてくれたことが嬉しくて。嬉しくて―――。
ハルカは嬉しそうにしていた。でもその笑顔は、悲しみの中の嬉しさというのか。それが表情から読み取れる。
「この子を用務員さんに渡してくる。ちゃんと天国に行って欲しいから。私がこの子を見送ったり、埋めたりすると、なんかこの子が地獄に行っちゃう気がする。」
「そうか。じゃぁここで待ってる。残りの餌は二匹に俺がやっとくよ。行ってきな。」
「うん。ありがとう、ツカサ。」
ハルカはウサギを抱えて、一旦校舎の方へ向かった。大切そうに抱きしめたウサギ。離れ離れになることが怖い。
それをどこからか安藤も感じた。
一方安藤は、ひとり裏校舎に取り残された。
空を仰いだ。
「地獄、ね・・・。」
(ハルカ、俺はお前についていったら、地獄に行ってしまうのだろうか。お前の行く先には地獄が待っているのだろうか。)
安藤はさっきの言葉が引っかかってならなかった。ハルカも瑛も、今の安藤にはよくわからない。
空はどこまでも曇っていた。
その後ハルカと一緒に安藤の家まで歩いていった。
途中、顔の知らない何人かの神酒q高校の生徒に遭遇し、微妙な目で見られた。安藤は知らないけど、向こうはこちら側を知っているようだった。ハルカの存在は、相当有名なことをこの状況から知った。
あの時、安藤はハルカの存在すら知らなかった。
全く学校の他の連中を気にも留めていなかったのだろうか。その理由とか、そんなことは全然分からなかった。
無知すぎる。
だからハルカも瑛も何も知らないのかと、虚しくなる。
家に向かう途中、ハルカが学校であった話とかを話してきてくれるのがわかったが、適当に相槌を打っているだけだった。話した内容なんて覚えていない。
20分の家までの道のりが、今日はいつもより長く感じた。
家に帰ったとき、どうも残念と言うか、家には智子が帰っていた。金曜日が早いことは安藤も知っていたが、どうも気が重い。
ハルカには外で待ってもらおうと思ったが、事情を説明するために家に上がってもらうことにした。
「ただいま・・・。」
「おじゃまします。」
帰った瞬間、今のほうから智子がかけてきた。足音が廊下に響き渡る。
「おかえり。司くん。―――と、そちらは?」
「久保田ハルカです。」
「まぁ、その。友達だよ。昨日、こいつん家に泊まった。ちょっといろいろあって。」
「そうなの?でもね、そういう時はちゃんと連絡して。私昨日とっても心配したのよ。もし今日帰ってこなかったら警察に連絡しようと思ってたくらいなの。」
智子は安藤を心配している。が、安藤自身には、それが鬱陶しくてしょうがない。たかが一日以内くらいで警察扱い。過保護すぎるのが嫌だった。しかも仮に母親だろうが、血の繋がりは一切ない。
だから遠ざけたくて、どうしようもなかった。
ただ、反論を言う前に、このことを謝ってくれたのは、安藤ではなく、他でもない、ハルカだった。
「ご、ごめんなさい。私の家、電話無くて・・・。」
「え、あ・・・そうだったの。」
智子自信も驚いた。
当然謝るも怒るも安藤の口から出るものだと思っていた。
「でも、今度からは、公衆電話でもいいから、なんかの形で、家に連絡を入れてくれると嬉しいんだけど・・・。ほら、留守電だってあるわけだし。ね。置手紙でもいいし。とにかくあまり心配かけることをしないで欲しかったの。ほら、お父さんからも司くんのこと任せられてるし。」
もっと怒られるかと思った。
もっと叱られるかと思った。
もっと罵られるかと思った。
そして殴られるかと思った。
いつもと違う智子がそこにいた。安藤はそんな人を初めて見た。違う。見ていたのに気づかなかったのか?
母さんに思えた。
「ごめんなさい。」
そしてなぜか謝っていた。知らないうちに、侘びの言葉が口からこぼれていた。
それからが大変だった。
(やっぱりこいつは母さんじゃない!絶対に!)
そう安藤が思った理由は他でもない。
いろいろと詮索してくるのだ。安藤にとって女友達は能見瑛と上園夏奈(しかもこいつに関しては従姉妹である)以外存在しない。
しかも能見瑛と親しかった頃を知らない智子にとって、ハルカは安藤の初めての女友達なわけだ。
となると、うざったい母親に早変わりする。
「ねぇ、その、久保田さんは、司くんの彼女なの?それとも音楽とかそんな関係?もしかしてファンとか?」
「いえ、その・・・。まぁちょっとした友達です。」
「ちょっとしたってねぇ。司くんが女の子を家に連れてくるなんてこと初めてだし。しかも久保田さんの家に昨日泊まったんでしょ?もしかして、そういう関係なのかな〜とか思ったりしちゃって。」
「い、いえ!別にそういうんじゃなくて、ちょっとツカサに見せたいものがあって。」
「『ツカサ』だって〜。この、この〜。熱いなぁ、もう。やっぱり付き合ってるの?ねぇ、そうでしょ?」
「い、いや、その、だから、そういうんじゃないんです。その・・・。」
「じゃぁ、やっぱり司くんのバンドのファン?私、ギターとか、そういう楽器系はよく分からないのよねぇ。」
「いや、その・・・。まぁ、ええっと・・・。」
今にハルカを上がらせるなり、自分のふざけた想像をこれでもかとぶつけやがった。
さすがのハルカもたじたじだ。
赤面したり、恥ずかしくてしょうがないような・・・。安藤はその場がとても嫌だった。が、どうも止める気になれなかった。
止められなかったのかもしれない。
30分は妙な話に時間を取られたか。「今日もハルカの家に泊まってくる。」なんて話を持ち出したときには、また厄介なことに巻き込まれるんじゃないかと思ったが、妙な笑顔でとも子は安藤たちを送り出した。
「いってらっしゃ〜い♪」
「嫌な想像されちまったかな?」
外に出て、家を見ながらため息混じりに安藤は吐いた。
「ツカサのお母さん。とても厄介。ツカサのお母さんの前だったら、ハルカじゃなくてもいいや・・・。」
そんな事を思いながら、家を後にした。
安藤にとって、あんな智子を見るのは、初めてのことだった。
ハルカと出会い、安藤を取り巻く環境は急激に変わって行く。
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