二章 Zwei Mädchen
彼女と再会するのにそう時間はかからない。
安藤自身が他クラスのメンバーに全く興味がなかったのもあるかもしれない。
「なぁ、藤川。久保田ハルカって知ってるか。」
「はぁ?」
「な、なんだよ」
「それってC組のか?」
「あ、あぁ。そうだよ」
朝一、親友の藤川に話を聞いたときだった。ある程度顔が広いこいつなら、知っているかと思って聞いた。
藤川は少し苦笑いをしながら安藤に言う。
「お前、狙ってるのか?ならやめとけ。普通の意見だ。やめとけ。」
「いや、別にそういうことじゃないんだけどな。」
「お前さぁ、久保田ハルカは有名だぞ。いろんな意味で。ってか朝礼で見てなかったのかよ。あんまり俺も詳しくは覚えてないけどよぉ、二ヶ月か三ヶ月くらい前、えらい美人の転校生が来たってさ。でも中身は最低―――。というよりは話す人はなす人に『あなたはただの人間ね、とかあなたはうさぎ以下だ。とか呪ってやろうかこの糞ナンパの郎。とか言って回ってる奴。―――だぜ。」
「一番最後はお前じゃないのか。」
「なにを!」
やっぱりアイツは変なヤツなのか。
とりあえず今は朝休みの会話を楽しむこととした。
「でも久保田ハルカはやめとけ。本当に。釘は刺しておいてやる。」
「そうか。」
「あぁ。変な噂もあるしな。」
「噂?」
「あぁ、異世界人と交友があったり、最終兵器を操縦できたり、自分には世界を守る使命があるとかで―――。」
不思議すぎる。
一瞬そんなことありはしないだろ、と思った。が、ふとあいつならある気がすると思ってしまった。
「あともう一つ、ちょっと耳貸せ。」
「なんだよ。」
藤川の口元に耳を持っていく。
「あくまで噂だがな。アイツに呪われたやつが、既に二、三人くらいいてな、一人は階段からすっ転げ落ちて捻挫。あとな、その。呪われたやつが使い物にならなくなったっていう怖ぇ噂も聞いてる。」
唖然。
ぽかーん。
「・・・」
「―――」
「怖ぇ。」
「だろ。ならやめとけ。な。」
「あぁ。まぁ。ありがとな。」
鐘の音が鳴る。
かったるい授業が始まる合図だ。
安藤は席に戻ろうとする。
一人の少女と目が合う。
少女は目があったことに気づくと、ぷいと逸らす。
能見瑛(のうみあきら)。
昔から幼馴染だった。いつからまともに話さなくなったんだろう。中学校の受験のときだったか。
違う。
確かあれは。
ふと思いつつ、安藤は自分の席に向かった。
入学して半月。
そろそろ耳にも慣れた新しい鐘の音が聞こえた。
席に戻り窓から空を見上げると、そこには季節はずれの一羽の黒い鳥が飛んでいた。
*
久保田ハルカと再び会うのに、そう時間は掛からなかった。
田舎の影響もあるのか。この県立神酒q高校は特に広い。
全校生徒もそれなりに多いし、部活も多彩だ。
けど安藤は部活に入っていない。
帰宅部、というわけでもない。
夢があった。
音楽だ。ギターだ。
ロックがしたい。自分でも恥ずかしいようなラブソングを唄ってみたい。大声で自分の叫びを誰かに聞いて欲しい。
そんな夢があった。
希望があった。
軽音楽部には入らなかった。
自分はそんなとこにいる人間じゃないというプライドと自信があったからだ。
米沢市内のとあるライブハウスで、同じ夢を持った同志たちとライブをする。ライブハウス内では、看板アーティストで、知らない高校から駆けつけてくれる同年代のファンも多かった。
実力を試してみたいと、夏休みにオーディションを東京に受けにいった。親には内緒だったが、受かったら高校も辞めてロックの道に進もうと思った。
受かる自信はあった。
明日は結果が来る日である。
それが楽しみだった。
近道してライブハウスに行こう。
そう思って裏門の方面に歩いていたときだった。
ふと気分が高鳴ってきて、空を見上げたとき。
「あ。」
「あ―――」
まただった。また選択を間違えたのか?
学校で一番大きいかもしれない、桜の木の上に、一人の少女がいた。
今日も曇り。
銀色の空から舞い降りたような天使かと思った。
でもそれは一瞬にして違うものだとわかった。
「おい!」
「・・・」
シカトする。
「おいっ!」
さっきより大きな声で叫んだ。
「危ねぇぞ!」
何度叫んでも彼女は無視し続けた。
「おい!」
「私、『おい』って名前じゃないし。」
安藤は心の中でため息をつく。
やっぱりこいつはどこかおかしい。
「なぁ、久保田ハルカ!」
「なに?」
「だから、危ないって言ってんだろー」
空にいる彼女に呼びかけた。そしたら彼女は何かつぶやいた。
「――――ぃ。」
「えっ?あのさ、聞こえないっつーの。」
「ぉりれなぃ」
「あぁ?」
「降りれなくなったって言ってるの!」
「はぁ?」
「受け止めて!」
そういうと彼女は“また”安藤の上に落ちた。
安藤は構えてもいなかったのもあるのか、結構腰を痛めた。
「痛っ!おまえなぁ、ふざけるなよ!」
「おまえじゃないもん。ハルカだもん。」
本当に会話がかみ合わなかった。
本当に変なやつだと思った。
でも不思議とこれ以上関わりたくはないとは思わなかった。
尻についた土を払ってると、ハルカはウサギ小屋を覗いていた。
「お前、飼育委員か?」
「ううん。っていうか、うちに飼育委員ないよ。」
「あれ、じゃぁ誰がここ管理してるの?」
「用務員さんだよ。でもおおかた私が管理してる。」
「餌は?」
「学食の残飯。」
「そうか。」
安藤はハルカと一緒にしばらく3匹のウサギがキャベツの芯やニンジンの皮を食べている姿を見ていた。
くしゃくしゃと餌を手にしているウサギをじっと見ていると、どことなく優しい気分になれる。
そんな気がした。
「なぁ。」
「―――。」
さすがにずっと黙っているのは気分が悪い。
数分して声をかけたときだった。
「無視しないでくれよ、えっと。久保田。」
「そこでなんで苗字で呼ぶの?私、自分の苗字嫌いなの。だから名前で呼んで。そういった。」
「聞いてないし、そんなこと。」
「じゃぁ、今言った。だから名前で呼んで。私のこと。」
ハルカはそういっている間も、ずっとウサギの口元を見て、3匹のウサギの誰かが食べ終わると同時に、袋から餌を出しては口元に持っていってやってる。
「あのさ。」
強い風が吹いた。
目が開けれないくらい、冷たいものが眼を劈く。
十月も下旬だ。北国の長い冬がやってくる。
「なに?」
一瞬彼女に何を聴くか忘れそうになった。
何か消し飛ばされてしまうような気がした。
目を開けると、ハルカはいつの間にか立ち上がって安藤を見ている。
「あぁ、ごめん。あのさ、お前なんで変なの?聞いた感じあんまりいい噂、聞かないんだけどさ。」
「お前じゃない。何度言わせるの?」
ハルカは真剣だ。
名前にそんなにコンプレックスがあるのか。
これじゃぁまるで―――。
あれ?なんだっけ。
安藤の頭の中に何か気持ち悪い感触が残った。
そうだ。聞きたいことがあるんだ。
「あのさぁ、その、ハルカ。なんでさ、その、なんつーの?変なのさ?なんかうまくいえないけど、その、ごめん。」
「何謝ってるの?意味わかんない。」
「ごめん。」
「だーかーらー。」
俯いている安藤が、顔をハルカの方に向けたときには、ハルカは朗らかに微笑んでいた。
ハルカは軽く一つため息をつくと、安藤の近くに二、三歩よって、安藤の顔を凝視して言った。
「前も言ったよね。冬が来る前に、あなたに会いたかった。」
また。
そうだ、それなんだけど納得が出来ないんだ。
会いに来たからって、自分の立場を虐げる意味も解からないし、何せ会いに来た相手が自分だ。
もしかしてバンドの熱狂的なファンなのか?
といってもそんな事を平気で言えるような自尊心はない。
「だからさ、あんまり理解できないんだ。なんで俺なのか。」
「単純に言ってあげようか?あなたはね、私たちと同じなの。同類のものなの。」
「俺も変だってこと?」
「端的に言えばそうだけど、そうじゃない。人と異っしている事が美点でもあるし、それは美徳だよ。」
意味不明。
俺ってそんなに変なのか?
安藤は想う節はない。自分が今まで人と違うところがあると思ったことなんかない。典型的な日本人みたいに、他人と同じように。そんな感じで生きてた。
「あんま、意味がわからないんだ。どこか、俺に特別なことがあるのかって?」
特別なんかない。
「そうね、人としては最低の部類かも。まぁ最低とまでは私は決め付けることなんて出来ないけどね。」
けれど特別が存在する場合、なんと答えればいい?
「あなたは、イデアだよ。人としての美徳。エイドスとして、不純とでこぼこで形成されてる円の中で、一部でも完全な円として生きている美徳なの。イデアなの。超能力者なの!」
はぁ?
安藤は今ハルカが言ったことが、完全に頭の逝っちゃった電波ちゃんの発言にしか思えなかった。
「お前って、変だな?」
「変じゃないわ。私は正直なことを行っているの。」
「やっぱお前変だよ。だから友達も出来ないんだよ。」
安藤はこの場を引き上げようとした。やっぱり久保田ハルカに関わることが間違っていたんだ。
そう思って、ギターを背負いなおして去ろうとしたとき、
「待って。」
袖を引っ張られた。
「私は『お前』じゃない。ハルカなの。それ以外、私にはないの。私は、何も間違ったことなんていってないの。本当なの。」
泣いてる?
え、待って。何で?
何で泣く必要があるんだ。
泣く必要性がどこにあるというんだ。
安藤は戸惑った。
女の子が泣くところなんて、普段観ることがないからだ。
女の子が泣くところなんて、彼女以外には―――。
「待ってくれ。そうじゃない。」
裾を引っ張っている手のひらを掴んで。
ハルカの目を見つめて。
「そうじゃない。変とか、そういうんじゃない。ただ、なんていうのか分からない。何で泣くのかも解からないし、だって。変。つってもそうじゃないんだ。そうじゃないんだけど、何でか分かんない。」
俯く少女が一人。
俯く少女は独り。
でも今はヒトリじゃなくて。
そうだ。私は会いに来た。
「涙ってね。ううん。私はもう、泣けないはずなんだ。今こぼれたのは孤独なの。私はもう独りじゃないのに。寂しい。」
よく分からない。
だから、
「よく分からない。」
ハルカは涙を拭う。
「分かれないんだけど。」
「私はね。脆いから。私は、この世界だととても脆くて。泣かないとだめなの。でももう泣けないし、二度と心から泣かないと誓った。だから今の涙は私じゃないの。私のじゃなくて。あれはただの水なの。心から泣いた涙じゃないの。本当の涙は空に飛んでいくの。」
「だから、さっきからお前は何を言ってるんだか。そこがわからないんだ。」
分からないのは彼女じゃない。
久保田ハルカじゃない。
久保田ハルカが何をしたいのかじゃなくて。
行っていることが分からなくもない。
でも、なにかが分からない。
「お願い。本当にお願い。ハルカって呼んで。お願い。そうじゃないとダメ。」
彼女がそういう。
久保田ハルカは、今何を求めているかなんて事は分からない。
でも何かを望んでいる。
「ハルカ。俺に何か用があるのか?」
寒い。
ものすごい強風がまた吹いた。
目が開けられない。
目を開けたときには、一人の少女と、もう一人。
もう一人、身長のやけに高い、目の下に切り傷の後があって、異常に目付きの悪い男がそこに立っていた。
「あ。」
気づかなかった。
突然現れたそいつは、ハルカの後ろに立っている。
そして安藤のほうをじっと見つめる。
「私はね、リ・フレクトから来たんだよ。あなたを呼びに来た。」
まただ。
意味不明の電波発言だ。
「ハルカ、グラスホッパーだ。」
突如、その男がとんでもなく低い声でハルカに呼びかけた。
そいつはハルカを知っている。
「うん。すぐに行く。」
ハルカは安藤のほうを見つめる。
安藤のほうに近寄り、潤んだ目で見つめた。
「ごめんなさい。安藤君―――。あなたを呪わなきゃならないの。じゃなきゃ、あなたも、私も、何もかも、失くなってしまうから。私の言うことは、本当だから―――。頭、飛んでないから!」
もう一度。
強い風が吹いた。
長い間吹いていた。
5秒くらい吹いていたかもしれない。
目が開けられない。
強い風だ。
そんな中、目をほんの少し開けた世界。
そこに水色の光を見た気がした。
*
目を開けたとき、久保田ハルカとその男はいなかった。
後に残ったのは、まだウサギたちが食べ切れていない残飯のえさと、安藤と、相棒のギターだけ。
「久保田ハルカに、呪われ、た。」
安藤がその事を後悔するのにそう時間は掛からない。
*
「よう、安藤。今日、風ヤバイな。」
「あぁ。他のみんなは?」
「金村と渡辺はまだ。まぁ、この様子じゃ米坂線は没かな。」
ハルカが消えてからから十五分。
市内のライブハウスに着いた。
「よしょと。」
「寒いか?」
「まぁね。つーか、もうそろそろストーブ出そうぜ。」
「石油高いんだぞ。少しガマン。」
ライブハウスには、既にバンド仲間の岸本がいた。ポジションはドラム。
ギターを置くと、岸本は気を利かせてあったかいコーヒーを出してくれた。
「あ、さんきゅー。」
このライブハウスは、岸本の実家だ。店の名前は『ラ・クリマ』。ネーミングセンスはともかく、安藤たちのバンドを快く受け入れてくれている店だ。
父親が店を持っているのだが、父親は東京に仕事に出ているらしく、基本的に店番は岸本本人と、岸本の母親だ。
毎晩、何組かのバンドが、ここで演奏をしていく。この店では、安藤たちのバンドが一番の実力を誇るレベルまで、バンドのレベルは高い。
だからこそ、オーディションの結果もある程度の自信があった。
「苦っ!」
「無料(ただ)なんだから文句言わない。」
オープンまで、まだ1時間半はある。この間に練習できるのは、安藤たちのバンド『Schmetterlin’』だけの、特典だ。
そろそろ新曲を書いてもいいかもしれない。以前に今まで作った曲を、CDに焼いて販売したところ、親戚と学校と店の常連客だけだとはいえ、100枚売れた。
それだけでも、曲を作れる。
その原動力になる。
ギターケースから、相棒の『YAMAHA RGX A2 WAG』を取り出し、スピーカーに繋いで軽くコードを統一して、曲らしいものを作って行く。
「おっ、新しいフレーズ。なにさ。新曲でも出来た?」
岸本が、安藤の奏でる音色に気づいたのか、コーヒーを飲みながら、よってくる。
「あぁ。いや、まだ。全然。適当に弾いてただけ。」
「そっか。まぁ出来たら渡せ。作詞はしてやっから。」
「おお。」
作詞は苦手だ。だから基本作詞は岸本に任せる。
でも一つだけお気に入りの曲がある。
名づけて『とっておきのラブソング』。
もうこの時点で、題名はぐだぐだ感がある。が、安藤の中で一番のお気に入りの曲だ。ライブの時にはいつも演奏するし、オーディションのときもこの曲を占めに持ってきた。
この曲は確か。
一人の少女の顔が浮かんだ。
瑛―――。
そうだ。
瑛は今何をしているんだ。
アイツとずっと一緒に居たはずだったのにな。
時が経つと、分からないもんだ。
いい。またいつか、話すときが来るだろう。
今度作詞をまたしてみようか。
そんな気分になるのはいつもで、結局最後にはあきらめるのだが。
「おっす〜。」
そんな事を考えながら、ギターを奏でていると、残り二人のメンバーの金村と渡辺が来た。
「遅ぇよ。」
「風、強すぎ。」
「一緒?」
「あぁ。そこで会った。夏奈、今日も来るよ。」
「そっか。」
今夜もライブだ。
自分たちの音楽を、唄を唄える。
それが幸せだった。
こんな日常が続けばいい。
本当にそう思う。
安藤は非現実を追いかけて、それでも、日常を知る人間として、こんな日が続けばいい。そう思っている。
そして、バンド活動は、立派な日常だ。
「さて、奏きますか。」
と来た早々、金村がいいだす。
「そだね。」
「何から?」
「適当に。」
「ギターでショパンとか。」
「はい、無理ゲー。やってみろ!カス!」
「俺ベースだし。」
笑いがこぼれる。
親友だ。
学校も年も違うけど、音楽を通した親友だ。
親友だ―――。
と、もう一人のギター担当の渡辺が、それなりに巧く、ノクターンを奏でている。ノクターンは鍵盤でも比較的楽な曲だが、ギターとなると違ってくる。が、エレキでも悪くない演奏をしてる。
「さすがだな。渡辺は。」
「あぁ。まぁ。ども。」
渡辺は中三。安藤たちより一つ年下になる。でも、ギターの腕は相当だ。
仲間はすごい。
自分にないものを持っているもんだ。
みんな、そうだ。
金村 優太郎
岸本 比呂
渡辺 健太
安藤 司
言ってなかったが、これがSchmetterlin’のメンバーだ。
リーダーは金村。
ボーカルは安藤だ。
安藤は、軽くうすわら笑いをすると、無理だとわかりつつ、英雄ポロネーズを奏でてみたが、早々出来るもんじゃない。
実際ギターだと不可能なのだが。
さぁ。
今日も開演だ。
他愛もない会話の内に、店のオープン時間となり、もう一人見慣れた顔が一人来る。
「おっすー。」
一番客。
藤川だった。
安藤たちのバンドのファン一号だ。
「おっす〜。ちょっと早いぞ。」
「まぁいいじゃん。」
「なぁ藤川君。コーヒーでも飲むかい?」
「あっ、お願いしまーす。」
店に入るなり、バンドステージが一番見えるカウンターのいわゆる特等席に座った。
「暇だな。お前も。」
「まぁいいじゃないのさ。せっかくのファンだし。」
「金村さんは甘いんですよ。だってこいつ今までどんだけただ飲みしていると思ってんですか。演奏聴いたって結局一銭も払いませんし、前に出したCDだって全部俺が焼いてやってんですよ。」
「そういうもんさ。ファンは。」
思い当たる節がある。
金村には彼女がいる。金村は安藤より一つ年上。高校二年。学校は私立。こっちの方じゃ、県立に行くのが普通だから、この人も少し変な人だ。
ポジションはベース。憧れのベーシストはフリー。
と会話をしていたら、藤川がきたすぐ後に、
「こんにちわぁーーー」
と、柔らかい声と、店の金を鳴らす音がする。
「おお、夏奈。」
上園夏奈
。
そう。金村の彼女で、安藤の従姉妹。安藤自身、自分の従姉妹がバンド仲間と付き合っていることに、抵抗はない。
むしろ知り合いとしては嬉しいことだ。
「よっ。」
「ゆーたろー。今日寒くない?ねぇ。ツカサもさぁ。」
「まぁね。夏奈。」
と店に入ってとことこと、仮名称、『夏奈指定席(実際のところ、カウンターと離れた端の席だが、ライブ演奏は見やすい。特にステージ右側に立つベース担当こと金村を見るのはうってつけの席)』に着くと、岸本に対して逆注文する。
「岸本くーん。お茶ぁ。」
まぁこれが本当の注文形式なんだが。
この店に来るほとんどの人の最初の注文は決まっているせいか、少し不自然に感じる。
これも立派な日常なのだろうか。
「ほいほい。」
といいながら、ドラムの設置で齷齪してたはずの岸本が、いつの間にかお茶を入れて用意しているところを見ると、商売人の血が流れているとつくづく想う。
「ねぇ。ツカサ。オーディションの結果って出たぁ?」
お茶を飲みながら夏奈が聞いてきた。
「まだ。明日あたりに届いているかな。」
「受かってるといいね。」
微笑み。
「あぁ。そうだな。」
「メジャーデビューしたらファン一号になるよ!」
「残念だけど、藤川が先臭いけどなぁ。」
「ぬなっ!あたしにそんな伏兵が!!!うぐぐ―――。」
夏奈はいつも明るい。
金村に対しても安藤に対しても。もちろん藤川にも渡辺にも岸本にも。
ただ。
ただ、ひとり夏奈にも話しづらいヤツがいる。
瑛。
ふと安藤にその名前が浮かんだ。
夏奈も藤川も、実際のところは最初のファンじゃない。
そうだ。
もう一度聞いて欲しい。
一番最初のファンに。
時が流れる。
雑談のうちに、見慣れた常連さんも入ってくる。
みんな安藤たちのライブを楽しみにしている人たちだ。
「渡辺。」
「なんすか?安藤さん。」
「今日、お前のピック貸してくんない?」
「あぁ。いいっすよ。自分基本指なんで。」
「そだな。じゃぁ借りる。」
もうすぐライブだ。
そしてもうすぐ冬が来る。
北国は秋から寒い。
指先が凍える。
安藤は、渡辺からピックを借りると、今夜のライブに向けて軽く演奏する。
常連の野次馬から軽い歓声が飛ぶ。
全力で答える。
さぁ。ライブ開幕。
これでいいんだ。これが日常なんだ。
安藤は、このとき呪いの意味も、ハルカも何も知らない。
*
呪われたことに気づいたのは次の日になってからだった。
「おはよう。」
「あぁ、司くん。おはよ。」
居間には、いつもの朝通り、弁当を詰め込んでる智子がいた。智子は、安藤の母親だ。だけど安藤の本当の母親じゃない。
十年以上前、安藤の母親は心臓の病気で亡くなった。
その2年くらい後、安藤の父親の正弘は今の母親の智子と結婚した。
智子はまだ29歳だ。今年で48歳になるはずの父親との都市を比べると、智子の年は、若干安藤の年に近い。簡単に言えば、父親よりも、安藤自身との年の差の方が近い。
だから智子自信も安藤に対して過保護になってしまい、今でもあまり馴染むことが出来ていない。
父親は今は行方が知れない。安藤と智子を残して、三年前どこかへ行ってしまった。
理由も何もかも不明。
それから帰ってきてない。
生計は、安藤のライブで客がくれるチップと、智子さんの事務所の給料、そして父親の残して行った多額の貯金で賄っている。
そんな生活にも、安藤は慣れかけていた。日常となりかけていた。
いつも通り、机の脇にあるご飯をよそい、朝飯を食べてるときだった。
「ねぇ、司くん。」
「なに、智子さん。」
今の畳の上に座ると、智子が話しかけてきた。
「これ、何?」
智子が持っていたのは、青い封筒だった。
「勝手に見た?」
「見てないわよ。ねぇ、司くん。音楽もいいけど、勉強はしてるの?毎日毎日ライブだの何だので夜も帰ってくるの遅いし。」
あて先の下のほうに、「×××ミュージック」と会社名が打ってある。
封は開けてなかったが、何をしたのかはわかる。オーディションを受けた会社は、何かとヒットバンドを生み出す有名な会社だ。知らない方がおかしい。
「ねぇ。私司くんのこと心配してるのよ。」
「関係ないだろ。行ってきます。」
安藤は、飯を半分くらい残して、用意されていた弁当を取ると、鞄を持って家を出た。
庭には、ありえないくらいの落ち葉が落っこちていた。
門を出たときだ。
「あ。」
「あっ。」
瑛とばったり会った。
神酒q高校に入ってから、瑛と登校したことは一度もない。小学生のときまでは、一緒に登校していたのに、今は何か気まずい。
「おはよう。」
「―――。」
瑛は少し俯くと、駆け足で学校へ行ってしまった。
落ち葉が、風に舞って、瑛がそこから消えてしまったような気がした。
「俺、何か悪いこと、したかな。」
瑛と話さなくなってから、知らないうちに三年以上も経っていることに気づいた。話す機会はたくさんあるのに。
話しても応えてくれないなら、話したって意味がないじゃないか。
登校しながら青い封筒を開けた。
通知が届く日まで絶対的な自信があったのに、開封ける寸前になってはその自信がどこかに行ってしまった。
―――あなたを呪わなきゃならないの―――。
呪われた。
その言葉通り、一枚の薄い白い紙には、不採用といういらぬ一文字が追加された単語が書かれていた。
「みんなに、なんて言おうか。」
見上げた空は、曇りだった。
もうすぐ寒い冬が来る。
何か嫌な予感がした。
*
「呪い。撤回してくれないか。頼む。」
「―――。」
黙りこくった少女が、今日も一人、桜の木の上にいた。
「ハルカ!」
「なぁに。」
「昨日の呪い、撤回してくれ!頼むよ!」
安藤は大きな声でハルカに叫んだ。
ハルカは安藤を見て、にっこりと笑うと、いつかと同じように小さな声で口を動かした。
もう三度目だ。
解かってる。
「よし、来い!」
「えいっ!」
結局構えても、3メートルから降りてくる少女の位置エネルギーは、1000Jを超える。体感的に重さは3倍くらいにはなるのか。
そして何より錘とかじゃなくて人だ。
「うぐぁ。」
結局今日も下敷きになった。
いつもは誰におろしてもらっているのだろうか。
そんな事を思ったりした。
「なぁ。ハルカ。頼むよ。呪い。撤回してくれないか。」
「呪い。何それ?」
「お前が呪ったせいで、ちょっとな、なんていうか、その、受かりたかった試験に落ちたんだ。頼む。もう呪わないでくれないか。お前の言うこと、もう無視しないから。」
ハルカは、安藤の額あたりを見上げてぽかーんとしている。
「ねぇ。呪いとかともかく、私と友達になって。私とずっと一緒にいて。それが、私のおねがい。」
それくらいのことならなんのそのだった。
変なヤツだとは思っていたが、そこまで安藤もハルカ自体は嫌いじゃない。
「いい。じゃぁ、呪い解除してくれないか。」
「あ、それから私の言うこと、全部信じて。言うこと聞いて。」
「分かったからさ、頼むよ。あの呪い、撤回してくれ!」
「だからさ。呪いって何さ?」
覚えてないのか?
昨日の経緯、その他諸々をハルカに説明した。
「ぷっ、ははははははっ。」
ハルカは爆笑してる。
「なんだよ!俺は真剣だぞ。」
「だって、呪い、呪いって。ツカサ、あなたって本当に面白い人ね。」
ハルカはまだ腹を抱えて笑っている。
憎らしいほどに。
「そんな、呪いだなんて、くっ、くくは。」
「いや、だってハルカならやりかねないし。」
「いくら私でも呪いは無理よ。」
ハルカはまだ笑っている。
笑いを堪えようとしても、笑いがこぼれてしまう。
こんな笑いを安藤は始めてみた。
いや、久々なのだろうか。人がこんなに笑っている姿。
昔はよく笑っていたのに。
安藤はそんなハルカを見て、なぜか安心した。
「だよな。つーかじゃぁ何でさぁ、お前の呪ったやつがバタバタひどい目に遭わされているんだよ!」
「そんなの知らないわ。偶然じゃないかしら。それからお前禁止。」
「あれ、今、俺、そんなこと言ったっけ?」
「言ったわ。お前って。それ嫌いなの。確か、言うことなんでも聞くんだっけ?訂正して謝りなさい。」
なんてやつだ。
だが男に二言はない。
これは父親がよく言ってたことだ。
男なら、二言は禁止。
自分の言葉と行き方に責任を持て、と。
「わかった。悪いな。ハルカ。」
「うん。それでよし。」
ハルカのくずれた笑顔が、微笑みに変わった。
「うっ。」
(あ、こうしてみると、ハルカってかわいいかも。
って待て。
俺はこいつに腹が立ってきたはずだ。何を馬鹿なことを。
これこれ。)
「なに?ツカサ。どうしたの?」
「い、いや。なんでもないさ。」
少女の笑顔は反則だった。
安藤とて男さ。彼女いない歴=年齢のツカサにとって、夏奈以外の女子との会話自体が貴重品目だ。
しかもハルカのルックスはかなりレベルが高い。
まぁ、あくまでルックスだけだが。
「そう。変なツカサ。」
「変なのはお前だろ。」
「お前禁止!」
「あ、わりぃ。つーか、これ、むずいな。結構。」
「でも、約束。っていってもやっぱりいいわ。そこまで強要しない。でも極力ハルカって呼んで。私はハルカだから。」
「あぁ。ハルカ。」
「うん。」
それから安藤はいろんなことを話した。
あまり触れたくもないが、家の事情も話した。
もちろんバンドのことについてもたくさん話した。バンド仲間や、東京の光景や、ハルカの呪いで落とされたと思ったことも。
ハルカは何も言わず、ずっと安藤の話を聞いた。
安藤の一言一言を噛み締めるように聞いた。
安藤も、ハルカに自分を知ってもらおうと頑張った。
ただ、瑛のことについてだけは話さなかった。
なんとなく、話せなかった。
「でも、やっぱりハルカって、普通の女の子なのかな。」
「そう!私って普通!」
「今になっての話だよ。ちょっと前までは、あまり関わりたくもないと思ったし。でも今は違う。」
ハルカのいいところにたくさん気づきだした。
ハルカのことをこの学校で知ってるのは安藤司だけだ。
そんな気がしたからだ。
でもそんなこともなかった。
「異世界人と交友があるとか、最終兵器だとか、世界を守る使命とか、誰がそんな噂、流したんだろうな。」
「えっ。」
まだ安藤は、久保田ハルカの『く』の字も知っていなかった。
「えっ、って、だから、そういう噂―――。」
「噂じゃない。」
ハルカの目が変わった。
太陽に満ちていた少女が、闇へといってしまったような気がした。
「噂じゃない。それ、私が言ったこと。誰も信じてくれなかった。大変なことなのに。誰も信じてくれなかった。」
まただ。
また、これだ。
「はぁ?何言ってるんだよ。」
「ツカサも信じてくれないの?私はこのリ・アルの人間じゃなくて、リ・フレクトの世界からきたの。能力者なの。それをイデアって言って、その、えっと、その。イデアだと、メルキルフレームを、じゃなくて。その、ロボットっていうか、なんていうか、その、ええっと、そうじゃないんだけど、なんていうか最終兵器を操縦できて、Σの連中から、この世界と向こうの世界を守らなきゃいけなくて。」
またこれだ。
ハルカはいつも、これなんだ。
だから変なんだ。
変?何で?ちょっと前に普通って言ったばかりじゃないか。
そんな理不尽で不条理なことあってたまるか。
それなのに。
俺は何で。
「待って。信じるって言われてもさ、何を信じればいいんだよ。」
安藤は少し脳内の整理に戸惑った。
「言うことなんでも聞くって言った。だから信じて。」
「そうじゃないんだ。それとこれとは別だろ!」
ハルカは目を大きくして、歯を食いしばって。
疑われるのに。
疑われるけど。
信じてほしくて。
「本当のことだって。当たり前のそこにある現実を、何で疑う必要があるの?私にはツカサが分からないよ。」
でもうまく伝えられなくて。
「だから。そうじゃないんだ。俺だってお前が分からない。」
「お前禁止!何度言わせるの。」
またこれか。
どうして名前にそうも拘る?
「今はそれ所じゃないだろ。俺は本気で―――。」
また泣きそうな顔をした。
でも、ハルカは泣きそうで泣かなかった。
「本気なら、信じてよ。私は。ハルカなの。」
ぼろぼろ涙がこぼれるような顔をしてるのに。
寒くなってきて、鼻の上が赤く熱っているのに、ハルカは泣いてない。
泣いてもいいのに。
逆に泣いてくれた方がありがたいのに。
「ハルカなの。私なの。本当なの。信じてほしいの。ツカサには、私を知ってほしいの。だから私は私を信じてほしくて、ツカサに本当のことを言っているのに。どうして信じてくれないの。」
不安定だから、釣り合いを欲する。
傾きが変わったら、ハルカはすぐにはついていけないのに。
でも泣けない。泣いたら楽になるはずなのに。
「そんなに、私って変?」
今にも泣き崩れそうなハルカ。
何で泣いてくれない。
安藤は戸惑った。
どうしようもなくなった。
慰めようが、ない。
「ハルカ―――。」
二人、立ち尽くすだけとなった。
目の前で俯く少女を眺めながら、ただ立ち尽くすだけとなってしまった。
空気が重い。
押しつぶされそうなくらい、小さな自分を感じる。
その空気を蹴散らしたのは、あの強風だった。
「うっ。」
あの目が開けれなくなるような強風がまた吹いた。
季節代わりの冷たい風だ。
安藤が目を開けた光景には、ハルカの後ろに立つ一人の男がいた。
改めてみると、そいつはとんでもなく悪い目つきをしていて、目の上に傷があって、黒いコートを着た若い男で、身長は190はあるだろうか。
脅威を感じる。
「ハルカ、もういい。俺が話す。」
ハルカに向けて発せられた言葉は、ものすごく低く、安藤に余計な脅威を与える。
そいつは安藤を睨みつける。
「ツバメ。」
ハルカがそいつに向けていったのは鳥の名前だった。
「ハルカ。こいつが?」
「う、うん。ツカ、じゃなくて。安藤君。」
「へぇ。こいつが―――。ねぇ。」
何か話している。
何のことだ?
お前、一体誰だ?
いつからそこにいた?
安藤の中では、ありえない現実が目の前にあるようで、パニック寸前だ。
何もいえない。
そんな状況が。
「安藤。」
突然、その黒いコートの男が、安藤を呼んだ。
「な、なんだよ。」
二、三秒間があったか。
話す言葉をいちいち考えてるような口調だ。
「ハルカの話は。聞いたか?」
「ごめん、ツバメ。ツカサにはまだ何も言ってない。」
間。
「そうか。」
いちいち返答も何もかもが遅い。
こいつも変な奴だ。
「ハルカ。そいつは誰なんだよ。ツバメって何だよ。」
「えっと。その。」
ツバメがハルカを止めた。
安藤のほうに近づくと、その図体のデカさは急に大きくなったような気がする。
「ツバメは俺の名前だ。話はさっきからだいたい聞いてた。ハルカの言ってることは間違いじゃないぞ。」
「間違いじゃないっつっても、どう考えても非現実だろ。信じてくれって言っても。そんな。無茶な―――。」
ツバメは安藤に語った。
安藤には、まだその男が理解できなかった。ハルカという、近くにある存在がとても遠くに感じる脅威だ。
「俺たちは、お前を呼びに来た。」
俺“たち”?『たち』ってなんだよ。
それじゃぁ、まるでこの変なヤツが、ずっとハルカの近くにいるみたいじゃないか。
「お前はハルカの何なんだよ?」
「俺は、お前だ。向こうの世界の。」
今度の返答は、早かった。
安藤の頭の中は完全にパニック状態だった。
変すぎるからだ。
でも、真剣すぎて。どうしても変だって受け止められないからだ。
「意味分かんネーって言ってんだろ!いい加減にしろよ。何が言いたいんだよ!この野郎!」
完全にワケがわからなくなった。
沈黙が続いた。
風が止む。
静か過ぎる。
苦しい。
なんとかしたい。
逃げたい。
そう思ったときだった。
「ついてこい。」
といった。
どこへ?
見ず知らずの、いかにも怪しい男の後をついていけと?
怖い。
安藤はその背中に脅威を感じる。
足が。動かない。
「ツバメ。でも、まだ。」
ハルカは、その男を止めようとしている。
「ハルカ。大丈夫だ。」
よく聞こえない。
その後に、なんていったかは知らない。
ツバメは、安藤を残してゆっくりと歩いていく。
「お願い。ツカサ。ついてきて。あなたにだけは、どうしても伝えなきゃならないことがあるから。」
足が、動いた。
ハルカに話しかけられたときは、足が自然に動いた。
ハルカについていこうとしている。
「ツカサ。」
ハルカから手が差し伸べられる。
その手の方へ。
安藤はついていった。
*
駅に行き、電車で30分。さらに歩いて30分。
連れて行かれた先は、一軒の家だった。
だいぶ市街地からは離れている。人気もほとんどない。
車が20分に一回くらいしか通っていかないような、県道沿いに立つ平屋だった。
「ハルカ、ここって―――。」
安藤がハルカに小さな声で聞いた。
ハルカは小さくうなずいた。
「そう。私の家。」
結構大きな家だ。
この地域だとこれくらいが普通なのか。とにかくでかい。
確か渡辺の家もこれくらいでかかったなぁ。
田んぼの真ん中にあるその家は、どこか普通の家と違う空気を放っていた。
「でかいな。」
「そうね。私一人じゃちょっと大きいかも。」
「ひとり?」
「そう。私、ここで一人で暮らしてるわ。」
独り暮らしか。
あれ。じゃぁあいつは一体何なんだ。
「じゃぁ、あいつは?」
安藤は、未だに男の存在に疑問を感じている。
違う。ハルカの存在に疑問を感じている。
「ツバメはリ・フレクトの人間よ。超都市ウヨキウトからラクリマを通してきた人よ。ここには住んでいないわ。」
やっぱり。よくわからない。
でもなぜだろう。よく分からない答えを期待してしまう。
安藤は、自分さえもよく分からなくなる。
「やっぱり。お前、分からないや。」
「お前禁止。」
「そうだったな。ハルカ。ごめん。」
「いいわ。」
ツバメは、家のドアを開けると、すぐさま消えていった。鍵をかけてる。この地域じゃ珍しい。
泥棒なんてそうそういないのだから、この田舎地域じゃ鍵なんて面倒くさくてかけないはずなのに。
安藤は、そんな事を思いながらもついていく。
ハルカがいるから。ついていく。
ツバメが中に入って何秒かたった後、ハルカにドアを開けられ、安藤は家の中に入った。
「おじゃまします。」
家の中は、平屋で木造だから、古いような佇まいかと思ったら、中は意外と洋風だった。家具やテーブルがある。あまりにも外の印象と違いすぎる。ここは外とは違う空気を放っている気がした。
玄関を入ってすぐの広いリビングダイニング。
部屋はそこからいくつかに分かれている。
右にドアが一つ。
左にドアが一つ。
建物の構造からすると、左のドアは、たくさんある部屋への通路だと思える。
右側のドアは、そこに一つ部屋がある。
“HARKA’S ROOM”
ハルカの部屋らしい。ドアに看板が掛かっている。
ダイニングの横のドアには、トイレと風呂があるみたいだ。
「こっち。」
ハルカが指したのは、謎の左のドアだった。
外から見たら、そこからは窓しか見えない。
脅威を感じた。
「ツカサ。来て。あぁ、荷物はこの部屋に置いておいて。」
「あ、ああ。」
そういわれて、安藤は床にカバンと、ギターバックを置くと、足をトビラの方へ向かわせた安藤が入った部屋には、さっきの部屋と似たような部屋があった。
本棚とテーブル。このうちは静かだ。
あまりにも電気機器がない。
コタツも、テレビも、電話も、エアコンも見当たらない。
そして部屋があまりにも殺風景だ。
これで独り暮らしだったら、あまりにも寂しすぎる。
さっきの部屋も、床には何一つ落ちてないし、テーブルの上には塵一つない。
ここもそうだ。
何もなぃ―――うん?
安藤の目に、一人の女性の写真が映った。
「これ、ハルカの母さんか?外国人みたいだけど。」
黒髪で、笑顔の似合う美人の人だった。なんとなくだけど、ハルカに似ているような気がした。
ハルカは安藤のほうを見ると、少し憂いの顔を浮かべた。そして、安藤から少し目をそらすと、呟くように。
「そう。ずいぶん前に死んだわ。」
囁くように。
「あ、何か悪いこと聞いちゃったかな。」
「いいわ。別に。もう一人もなれちゃったし。」
まだ俺は、久保田ハルカを何も知っちゃいない。
安藤はなんとなく、そんな自分を分かった気がした。
分かりたくもないのに。
そう思ったとき、すごく虚しい気分になった。
母さん。か。
そういえば、俺も。
「ハルカ。実はな、うちも母さんがいないんだ。」
「知っているわ―――。あ、ごめんなさい。私はね、あなたのことを私は十分に知ってきたつもりよ。だから私だってあなたに分かってもらいたい。」
なんだろう。
心に穴が開いてしまったような。なんでかそんな気がした。
俺は同情を求めたのか?だったら何で?
安藤はその焦りをごまかそうとした。何故、焦る必要があるのかもよくわからないけど。
「そうか。」
「奈々枝さんっていうんでしょ。そしてツカサは今、智子っていう新しいお母さんと暮らしてる。智子さんはとってもいい人よ。あまりギクシャクしない方がいいよ。」
「わかってる―――。わかってるんだけどな―――。」
そうだ。その通りなのに。
ハルカは俺より俺のことを知っている。
そんな風に思った。
安藤司として。人として、向こうは必死で認めようとしているのだから、自分も早く認めてやりたい。
そう思っているのに、そうできない自分の本音を言われたようで。怖かった。
ハルカの存在も、簡単に認めればいいのに、なんで出来ないんだろう。悔しくなった。
ハルカを知らなきゃ。
「ハルカの母さんの名前は?なんて言うの?」
「プファウ・イーリス・久保田」
とりあえずその場の空気で質問した。
何かの偶然か、その名前はどこかで聞いたような。いや、いつかの自分が追いかけていたような名詞が浮かんだ。
「あれ?ドイツ語?孔雀だよな。」
ハルカは振り返り、安藤のほうを見た。
ハルカがうすらうすらに笑った気がした。
「よく知ってるのね。そうよ。私のお母さんはリ・フレクトのシャングリラ出身。向こうでは言語だとドイツ語と似てるわ。どうしてあなたが?」
ハルカは、何かに気づいたそぶりを見せた。
「まぁ俺たちのバンド名もドイツ語でさ、結構迷って調べてたから。いろいろと名詞は知ってるよ。」
「そう―――。ね。やっぱりあなたは美しいわ。本当に。」
「だから。そうじゃないんだけどな。」
安藤は知らないうちに疑うのをやめていた。
いや、疑えなかった。
ハルカのあまりにも真剣すぎる空気に、安藤自身がハルカをいつの間にか「正」と信じざろうえなかったのかもしれない。
ハルカ―――。
「ハルカ。」
「なぁに?ツカサ?」
「あのさ、知らなかったら別にいいんだけど、お前の名前の由来って何なんだ。お前の名前って漢字か?」
どうでもいい話題だったが、一応聞いてみた。
何となくこの場を繋ぎたかったのかもしれない。
「違うわ。私の名前もドイツ語よ。非正規武装集団のこと。“Harka”って言うの。だから私の名前をローマ字で書くと、Iが抜けてるわ。」
なんつー由来だ?てっきり春に歌とか書くものかと思っていた。ハルカの向こうの世界ではこんなことが普通なのだろうか。
って俺は何を考えているんだ?
「そうか。」
変な名前だな。といえなかった。
なぜだ?
安藤はかすかだが気づきだしてる。自分は久保田ハルカと関わってしまったことに。呪われたのかもしれない。
「こっちよ。来て。」
「あ。ああ。」
だから躊躇はもうなかった。
ハルカは、二つ目の部屋の、さらに奥にあるトビラを開ける。
そこにも同じような部屋が広がっていた。
だが、その部屋には家具も何もない。
床と壁だけだった。
「ここ。ここが、私を証明する全てよ。」
正面に進んだとこにある、トビラ。
今まで開けてきたのとは、また一段と違う異彩の空気を放っている。
安藤はつばを飲んだ。
満ち足りた日常が、刺激に変わる。
「開けるね。」
トビラは開けられた。そこには違う世界があって。
あれ?
開けられた部屋は、一畳もないような真っ暗な部屋だった。
「入って。」
「ここに、か?」
「うん。ちょっと狭いけど、我慢して。」
まさかこの狭い空間が違う世界なんだよーなんてオチじゃないよな。
安藤は少しそういう類の疑いを持ったが、すぐに疑いは晴れた。さっきの男は、どこに行った?考えたところ、もう安藤には違う世界に行っちまったとしか思えなかった。
普通はどこかに隠れたんじゃないかとか、そう思ってもおかしくないのに。
どうしてか、もうハルカを信じる他なくなっている。
「ハルカ。」
「何?」
「俺は、どうすればいい。」
ハルカは、安藤の目を見つめなおすと、笑顔でいう。
まるで怖がっている子供を慰めるような優しい目をしている。
不安や心配をかき消してくれるような声。
「とりあえずここに入って。入ったら、ずっと私の手を握ってて。いや、私に触れているだけでいい。」
今度は本当に心臓がどきどき言っている。
ここに着てから、情緒不安定だ。足が震えるし、冷や汗もこぼれる。だけど。だけど、なぜだろうか。
ハルカがいるから、前へ進める気がする。
安藤は前へ進む。
その部屋に二人で入る。
ハルカがドアを閉める。すると窓の無いせいもあるのか、昼間にもかかわらずそこは漆黒の闇だった。
「ハルカ。」
怖くなった。
ハルカを呼んだ。
なぜだろう。暗いだけなのに、今までの何よりも怖い。
「大丈夫。私はここにいるわ。」
目を開けているのに、自分の手も、ハルカの輪郭も体も確認することが出来ない。
暗いとこが苦手なわけじゃない。夜のトイレだって、この地域じゃ夜になったら街の明かりなんて無いんだから、なんども目を開けていても、他のものが見えない感覚は味わっているはずだ。
それなのに、この感覚は何だ?暗いのが怖い。何でだ?
違う。
これは今までの感覚じゃない。
影に自分が融けて行ってしまうようだ。
何かに包まれていく。
孤独でも、脅威でもない。何も無い恐怖だ。
独りにしないでくれ。一人にしないでくれ。待ってくれ。触ってくれ。俺は影じゃない。暗いかもしれないけど、俺はここにいるんだ。
だれか。
安藤は叫んだ。叫んでも声にならない。
叫んでも、叫んでも、声にならない。
不思議な感覚だった。どこかに漂流したような。漂流したことも無いのに、どこかで独りぼっちになってしまったような。
あぁ―――。
闇に吸収される。
―――夕焼け空。
「まだかなぁ。」
かくれんぼをしていた少年は、鬼が探しに着てくれるのをずっと待っていた。
「もーいいよー!」
と、大きな声で叫んでみても。誰も見つけにきてくれなかった。
夕焼けが闇に変わろうとしていた。
みんな帰ってしまったのかもしれない。
あぁ。もう帰ってもいいか。
そう思って立ち上がった。が、少年は、あたりが暗くなって自分がもと来た出口が分からなくなってしまった。
一人だ。
寂しい。
「おーい!ねぇ!誰かぁ。」
鳥の羽ばたく音も、木がざわめく音も何も聞こえない。
待ってくれよ。勘弁してくれよ。一人なんてヤダよ。
少年はうずくまって泣いていた。
誰かが手を差し伸べてくれるのをずっと待っていた。
「ツカサ。」
どれくらい泣いていただろう。寂しくて、淋しくて。そんな中、一人でどれくらいの間泣いていたのだろう。
「ツカサ。」
聞いたことのある、響きのいい声だった。
顔を上げると、そこには見慣れた顔があった。
「ツカサ。みっけた。ごめんね。遅くなっちゃって。みんなはもう帰ったよ。私たちも早く帰ろっ。」
そういって手を差し伸べてくれる少女がいた。
少年は泣きじゃくった顔を必死に隠した。
ずっと泣いていたいけど、我慢した。
安心して、堪え切れなかったけど、泣かないように頑張った。
「ありがとう。」
「うん。でもさ、さすがにここは見つけづらかったよ〜。」
「ごめん。」
「いいんだよ、ツカサ。かくれんぼなんだしさ。見つけられなかった私も悪いわけだし。」
そうして手を繋いで歩く影二つ。
少女の笑顔は、とても明るくて、すごく安心した。
「ねぇ。」
「なぁに?ツカサ。」
「僕さ、瑛のこと、好きだ。」
「私も好きよ。ツカサのこと。」
そう言ってくれた時、少年は疑問と喜びが一緒に出て、固まってしまう。
嬉しくて。哀しくて。
でも、どうしようもなく嬉しくて。
「ほんと?」
「うん。本当よ。」
洋服をドロだらけにして夕方遅くまで遊んだ二人は、少年の家に着くと、いつものように、さよならをする。
いつもと同じで。でも違うさよなら。
「それじゃぁね。」
少女は、少年の家の隣の家にかけていった。
「バイバイ。」
少年は、手を振っている。
帰ろう。
そう思って家のほうを向いたとき、目の前が真っ暗になって。
待って―――。
待って―――。
嫌だ―――。
ねぇ。
あれ?真っ暗だ。
嫌だよ―――。
待って―――。
「瑛ぁ!」
「ツカサ。」
瑛―――。
そうだ。僕は瑛が好きなんだ―――。
呼んでくれたその声が、とても尊くて、愛しくて、欲しくて。
ずっと待っていた。
「ツカサ。大丈夫?」
目の前が真っ暗なところから、急に明るいところに入った。
眩しくて目が開けられない。
うっ―――。
頭が痛い。
声が遠くなって、やがてまた近くに戻ってきた。
「ツカサ!ツカサってば!」
そこには、さっきまで一緒に居たはずの少女とは違う存在が居た。
「ハルカ?」
「ツカサ。大丈夫?すごく
魘
されてたけど。」
あぁ。そうだった。
安藤は我に帰る。
今まで透き通るような夢を見ていて―――。その夢から覚めてしまったような。そんな感じがした。
「ハルカ。」
安藤の視界には空があった。
そして、久保田ハルカが、その空と重なるように、顔を下に向けて安藤ツカサと見つめ合っている。
空を手で押し上げるように。そしてハルカの首もとに触れる。
「ハルカ―――。」
「ツカサ―――。そんなに見つめられると、ちょっと恥ずかしいかも。」
はっと。ここで本当に我に返ったのかもしれない。
何で気づかなかった?この体勢はなんだ?
膝枕じゃないですか。
ひ・ざ・ま・く・ら ですよ!
なんていうイベントですか?これ。
安藤は動揺して。というよりも、単純にこの状況が無性に恥ずかしくなって、慌てて起きた。
「ぅぁぁああぅっ―――。わ、悪ぃ。」
「なんで謝るの?別に私はいいわよ。」
ハルカは、おどけた表情を見せる。
「お、俺が気にするんだ。とにかく。一応謝ったから。」
「くすっ。変なツカサ。」
安藤は、夏奈以外のほとんど女子と接する機会がない。
だからこんなことも無い。
緊張する。正直違う意味で、さっきより心臓がバクバクしてる。
ただ、昔もこんなことをアイツとしていたっけ。
安藤は、トビラの中で見た夢を振り返りつつ、そんな事を思ったりした。
視界に映っていた景色が、いつの間にか空と、草花と、すごく未来観溢れた都市に、変わっていたことについて気づいた時に、自分の置かれた状況に疑問を持った。
「ハルカ。俺たち、いつ、あの暗い場所から出てきたんだ?」
安藤は、立ち上がり、その景色を見ながらハルカに聞いた。
「後ろ。」
ハルカは、顔を後ろ側に振った。
「ドア。見える?」
そこには、今まで見ていた都市とは違って、どこまでも草原が広がっていた。そしてそこの真ん中に。なぜか、安藤の視界の中央に、その草原をバックにして、一つの灰色のトビラが立っていた。
立っていたというよりは、土が盛られていて、その正面にトビラがあるような感じだ。防空壕にも見える。
「あぁ。見えるよ。」
「あそこから出てきたんだよ。そしたらツカサが眠っちゃってて。しばらく起きるまで待っていたんだ。」
あのトビラとハルカの家が繋がっているのか?でもここはどう見たってハルカの家の裏もないし、壮大なセットなわけでもなさそうだ。
ますますここがよく分からない。
まだ夢でも見ているようだ。
「そうか―――。ハルカ。俺、どれくらい寝てた?」
「そんなに寝てないよ。二、三十分くらい。魘されてたけど、悪い夢でも見たの?」
「違うんだ。別に。大丈夫だよ。俺は。」
「そう。ならいいけど・・・。」
安藤は空を見上げた。
ツバメが飛んでいる。
もう十月だというのに、なんでここはこんなに暖かいんだ。薄い上着がものすごく分厚く感じた。
暖かい―――。
とても、暖かい―――。
安藤は、上着を脱いで、手に持つと、振り返ってハルカを見つめる。
「なぁ、ハルカ。俺は夢を見ているのか?」
風が吹いた。
ハルカは、短い髪をなびかせながら、憂いのような笑顔で言う。
「違うよ。」
そうか。やっぱりな。
当たり前のことだ。この状況を見れば、夢じゃないことくらい分かる。ただ信じられないだけだった。
安藤は分かっていながらも、わざとらしく。でも、思いっきり自分の頬を抓った。
「じゃぁ。やっぱり夢じゃないんだな。」
ハルカにそういいかけると、ハルカは真面目な顔になる。
「うん。ここが、ツカサの世界『リ・アル』と攪止空間になる世界。ずっと私がツカサに伝えたかった、私たちの世界『リ・フレクト』よ。」
リ・フレクト―――。
響きのいい名前だ。
自分たちの世界に、名前があるなんて知らなかった。
もう一つの世界。
安藤は、その異世界にどうしても気をとられずに入られなかった。なんというか、むず痒いのだ。
何か、嫌な予感がしたり。希望を感じたり。
ゾクゾクしてるのに、すごくわくわくもしてる。
「ちくしょう―――。俺―――、もうお前のこと信じなきゃならないじゃないか。どうしてくれるんだよ。ますますよく分からなくなっちまった。」
「お前、禁止。」
夢を見ていたせいか。
それとも、またハルカを認めなおしたせいか。
直っていたはずの約束を、また破ってしまった。
「悪い。ごめんな。ハルカ―――。」
ハルカは決していい名前じゃない。
だけど、なんとなくだけど、安藤はハルカが、『ハルカ』じゃなきゃいけない理由がわかった気がした。
自分の場所は、どこでもない。
突然ハルカが、自分の腕を振り上げ、未来の都市に指を差した。
「見える?正面にある白い巨塔。あれが超要塞都市『シャングリラ』。そして、リ・フレクトの日本の首都都市『ウヨキウト』。都市と都市外で違いがありすぎるのは、Σの攻撃の被害を極力最小限に食い止めるため。この都市は、絶対に落ちない。いや、落とされない。ううん。絶対に落とさせない。」
ハルカの目に、何か強いものを感じた。
「ああ。見えるさ―――。見えるよ。ハルカ―――。」
それは、この丘陵の草原から見たら小さく見えたものの、大きさは旧東京都の半分の大きさを占める超巨大要塞都市。
安藤は、風のせいか、霞んで見えるその白い巨塔が、何かしら自分を呼んでいるような気がしてならなかった。
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