五章 Du



 ハルカの家に行ってすることは決まっていた。
 今までの経験上、当然二回目になれば、誰しもがそれに対してなんらかの学習する。ハルカの家には制服なんかじゃなくて、簡単な格好で来たし、毛布は無理なものの、温かいだけの上着もたくさん持ってきた。
 準備も万端。
 よし、来い!
 というわけで、またあの長い道のりを辿り、久保田ハルカの家に到着した。
ハルカの家に行ってすることは当然の如く、決まっていた。
「いこっか。」
「あぁ。」
 重ったい荷物を放り出し、向かう先にあるのはトビラ。
 そのトビラの向こうの、トビラの向こう。
 暗い部屋。
 二回目とはいえ、この空間は慣れない。足が進むことを無意識の内に躊躇ってしまう。
 目を閉じて、ハルカが手を握ってくれる。ゆっくりと前に進んでいく。足が地面についているのかも分からない。
 空間をまたぐ間隔なんてない。突っ切るような感覚も、触れるような感覚も、なにも存在しない。
 世界を渡るのは、安藤たちだけの力。
 でも、そうは思えない。ただ、この暗い中にいることだけが、渡れない人だと、体とかそういうものを崩壊させてしまうものだなんて到底思えない。
「ハルカ。」
「大丈夫。もうすぐ。」
 暗い中、またあの夢を見そうになった。
 目を開けた中で見る夢。だから今回は目を瞑ってこの部屋に入った。だけど、怖い。目を瞑ってるって分かっているのに、何も見ることができなくなる気がして。感覚を奪われていくような気がして。
 これに耐えれる力が俺にあるのか、と安藤は思った。
 ただ、それと同時に、やっぱり俺に何故こんな力があるのかということも思う。
「俺は、一体、何?」
 世界が歪む。
 視界が消える。
 待って。
 手を離さないで。
「自分を見失わないで、ツカサ。」
 はっ―――!
 目を開けたときは、例の防空壕からとっくに外に出て、白い巨塔を遠くに臨み、立ち尽くしていた。
 嫌な夢を見た気分だった。
 頭の中はまだぐるぐるしている。頭痛で立ちくらみが来た感じの、グワングワン加減、といった感じか。
 しばらくはそこに突っ立ってボーっとしていた。
 前みたいに夢は見なかった。そういえば前はここに来るまでに瑛の夢を見た記憶がある。それが遠い記憶になって。
 あれ?
 俺は、確か?
「ツカサ!」
「あっ。」
 ―――はっ。
 っと時間が止まった気がした。
「ツカサ、大丈夫?」
「ハル、カ・・・。はぁ。」
 不意に膝の力が抜け落ちた。
 何を考えていた?
 安藤はようやく自分に還った。やはりこの空間を渡るときは自分がわからなくなる。怖くなって、違うことを考えてると、周りが見えなくなる。
 遠くにある景色をようやく飲み込めた。
 そうだ。世界を渡ってここに来たんだ。と。
 この草原の丘は気持ちがいい。遠く、ウヨキウトの街を一望できる。そよぐ風が、また清々しかった。
「ハルカ。」
「なぁに?」
「綺麗だな。何度見ても。」
「綺麗でしょ?何度見ても。」
 くっきりと円形にかたどられた街。その中央に聳え立つ塔。低い雲は、それにひれ伏すように巻いている。
 美しい世界がそこにある。
 形だけなのか、それともこれ自体が平和そのものなのかは、分からない。
「行こう。迎えが待ってる。シャングリラへ、早く行こう。時間はたくさん有るけど、でも、もう全然残されてないから。」
 ただ、今はこの世界にそよぐ風がとても気持ちよくて。
 横でシャングリラを遠くに見るハルカさえも、今は平和に感じられた。もちろんそれが造られている平和であることなど、安藤は知らない。
「行こう!ツカサ。」
 安藤はハルカに手を取られ、丘の下のほうへ歩いてゆく。
「今日は、あれじゃないのか?」
 安藤は、とある移動手段を思い出す。
「あれって?」
「いやさぁ、その。」
「あぁ。ゼロは今メンテナンス中なんだ。それにもともと一人乗りの彼に、二人乗ったらファウラーに怒られちゃう。」
 安藤はあのロボットたちに興味があった。もともとロボットは嫌いじゃない。でも、聞きたいのはそれだけじゃない。もう一度乗って仕組みとかも見てみたいし、ハルカが何故アレに乗ってるということも知りたい。
 でも残念なことにそれは無理なようだ。
 ただ、なぜか安藤は、この時あのロボットが自分やハルカになにか近いものを持っている気がした。
 ただ今は、漠然とする感覚のなか、ただ手を引っ張ってゆく一人の少女に身を任すことにした。
 草原の防空壕群を進んでゆくと、20分くらいして、ようやく道が現れた。道はさっき遠くに臨んだシャングリラへ続く唯一の道。確か初めてこの世界に来て、家に帰るときもこの道を通ってここまで来た。のか。
 記憶ははっきりとしないが、曖昧に馴染んだ記憶のある道。
 そういえばさっきの丘も、通ったのか。と、ボーっとしていた記憶を辿る。やはり夜に通る道と、昼に通る道とじゃ感覚が違う。
 道の端では一人の男が、一つの車とともに、待っていた。
「あ―――。」
「やっほぉ。ツバメ。」
 長身 & 黒尽くめ & 目に傷野郎。
 いつもと変わらない格好で、ツバメが車によっかかる様な形で、待っていた。
 ツバメは軽く手を上げ、ハルカと安藤に会釈する。
「ツバメ。待った?」
「少しなぁ。まぁいい。時間が勿体ない。行くぞ。乗れ。」
 相変わらずの低い声。
 安藤の世界に異常を感じる最大の最初の要因となった人、ツバメ。
 その存在は、とても大きくて。とても脅威で。
 そのはずだった存在は、いつしか安藤の知る一人の人間になっていた。ハルカと同じ、話していても違和感の無い存在になる。
 日常は安藤の知らないうちに、刻々と変わっていた。
 車に乗り込むなり、ツバメはエンジンを入れるとハンドルを握る。安藤とハルカは一緒に後部座席に乗った。
「飛ばすぞ。シートベルト、つけて置け。」
「え、でも。後ろだよ?」
 ツバメは、安藤たちが乗り込むと同時に、シートベルトの着用を命じた。
「関係ない。ただ頭を打たれでもして死なれたら困るんでな。時間も無い。だから急ぐ。それだけだ。」
「ごめん、ツカサ。聞いて。いずれ慣れるわ。」
 と、あっという間にハルカはシートベルトを着用して、着席していた。
 車の運転ごときで、頭打って死ぬとか、どんだけだし・・・。
 とバカバカしく、思っていたのもつかの間。
「じゃぁ、いくぞ。」
 と言うとともに、ものすごい速度を出した。
 加速ってのは徐々にしていくものだ。故に速度というのは時間とともに増えていくものというのを知っているか?
 が、この車体はどうだろう。
 秒速1秒で、時速80kmを超えていた。
(どんだけ〜)
 飛ばしすぎ。
 忘れていた。ここは現実であるが、現実とは違う世界だ。
「うぐぅ。」
 あの時みたいに、安藤は後部座席の後ろに頭をぶつけた。幸いシートの上だったので痛くは無かったが、体が前に行くのではなく後ろに仰け反った分、相当な重力がかかったのは確かである。
「ははは・・・。」
 苦笑いをした。ハルカに笑われてはいないだろうかと、ハルカの方を見たが、ハルカはひとり外を向いたまま。
 何かを考えるような目をしてずっと窓から外を見ていた。
 車はどんどんとシャングリラの方へ向かう。
 外の景色が、面白いほど忙しく流れていく。
 家々などは、ポツリポツリとしかない。広がるのは、ひたすらに草原、丘、空、雲。それだけだった。
 それなのに、遠くに臨む景色さえ面白いように通り過ぎていく。
 隣には変わらない景色が―――、ハルカの窓の外を見上げる後姿だけが、流れず安藤の視界に映り続けていた。
 さりげなくシートベルトを着用し、そっと前を見つめる。
 速度はどんどん上がっていた。安藤の住む世界でやったら一発で捕まる程度にまで速度は上がる。
 シャングリラは瞬く間に近づいてゆく。
 シャングリラまで道という直線は一本に延びている。そこを安藤たちを乗せた車は、なぞるように進んでゆく。
 この前着たとき、さっきの丘まで帰って来るのに2時間はかかったのに、30分でウヨキウトの街についてしまった。
 ゲートをくぐると、そこからはゆっくりと進んでゆく。
 さっきとは違う、ビルや家などが立ち並んだ街並みだ。しばらく進んでゆくと、シャングリラのふもとに着いた。もう頂上はとても見ることが出来ない。こうして近くに来ると、この白い巨塔の大きさを知る。
 下から見たシャングリラ。それはこの前上から臨んだシャングリラとは違った。太陽の影になっているせいか、その下はものすごく暗かった。
 まるで全てを知っているかの如く、その塔は聳え立っている。
 その姿に見とれていると、車はシャングリラを目の前にして、地下のトンネルへ入っていった。
「シャングリラはまだ先だけど、地下から行けるのか?」
「ここから地下駐車場にもいけるが、俺たちは“上の人間”だ。ここから先に行くと、さっきみたいに検問のゲートがあってな。そこからシャングリラの地下の方にいける。三つ四つ門があってな、警備の方はすごい。特にお前だ。あまり外をうろつくのは良くないしな。ここからシャングリラ地下21階の軍事施設まで進む。そこから上に上がる。地下鉄が真上を通ってる環境だ。多少うるさいかもしれないが、我慢してくれ。」
 安藤は自分が未だにどういう待遇にあるのか理解してなかった。ただ、元帥と会えたりこういう環境の中、シャングリラに行かなければならないという点から、やはり自分がこの世界では一般の人でないことは察した。
 ハルカと最初に来たときも、たくさんの普通の人がいる環境に入ることは無かった。遥か上から下の世界を見る形となった。
 今度は誰も入ることが出来ない下の世界から、か。
「ハルカ。」
 いろいろ聞きたいことがあったが、ハルカはそのまま眠っていた。車の微妙な揺れに耐えられなかったのか、疲れていたのかは知らない。ただ、眠るハルカの顔が、どこか重いものを背負ってるのか、ものすごく静かに眠っていた。車の音のせいもあるかもしれないが、鼻息一つハルカからは聞こえなった。
 車はやがて一般道から外れたところに入っていった。立ち入り禁止という看板も見えた。そこから進んでゆくと検問所があって、そこをツバメはカードなのか、そのようなものを検問所の人に見せた。
 すると、検問所の人はボタンを入力するしぐさを見せると、目の前のトビラがゆっくりと開きだす。
 そこを車で通ってゆく。
 検問所の人は、仮面を被っていて、笑顔も何も無く、表情何一つ変えずに、安藤たちを見送った。
「ツバメ、あの人は?」
「シャングリラガードナーの一人だ。それ以外にもそこらぢゅうに他人の侵入を妨害するシステムがあってな、あんなのは気休めの一つだ。ここから先、三つくらいゲートがあって、そこから先に軍関係の連中が使う駐車場がある。お前もこの前、ここから帰って行ったんじゃないのか?」
「この前は、シャングリラの一階の裏から帰ったよ。」
「ハルカが一般の連中に目付けられなかったか?」
「そりゃ使用人みたいな人に付かれて送られたし・・・。」
 そういえばハルカが帰って行く時、確かに一般の人に見つかるのを嫌がるようなしぐさをしていた記憶がある。車に乗る直前まで下を向いて歩いていたような気がする。
「そうか。なら、いい―――。」
 ツバメは運転を続けた。その目は、ハルカに対する『なにか』を示しているようだった。でも安藤にはそれがよく分からなかった。今は、他人のことに気をまわせなかったのかもしれない。
 安藤自身の現実を受け入れるために、必死で受け入れて、受け入れたフリをして、無理やり自分の周りに壁を作って・・・。
 代わりの自分の仮面が、現実を受け入れて、まるで自分が異世界という現実を簡単に受け入れられる強い人間を自称していたのかもしれない。
 安藤には、さっきの検問所の人の仮面が、今になって異常に気持ち悪く感じてきた。
 そう考えていると、またトビラが出現して、仮面の人間がまたそこに立っている。
 さっきと同じ行動を起こして、さっきと同じ行動を起こして、そして、さっきと同じ行動を起こす。
 それを幾度と繰り返して、最後にツバメが車を降り、一番最後のトビラの前で、いろいろと操作をする。
 トビラが開くと、車は少し広いところに出た。
 どうやら駐車場らしい。ツバメは適当に車を止める。
「降りろ、着いたぞ。ハルカ!起きろ!」
 すやすやとハルカは眠り続けていた。
 ツバメは先に下りると、少し安藤と場を置いて、タバコを噴かしながら、奥のほうへ歩いていく。
「ハルカ、起きて。着いたみたいだよ。」
 安藤は少し躊躇したが、そっとハルカに触れて揺すってハルカを起こした。
「ツカサ。あ、もう着いたんだ。ごめん。今起きるよ。」
 どうやら寝ぼけてはいないようだ。
 ハルカはシートベルトを取ると、軽く伸びをして、反対側のドアから降りた。安藤も自分側のドアから降り、車の扉を閉める。
 オートキーなのか、ツバメは安藤たちが降りたことを確認すると、鍵を閉めた。
 ガチャッと鍵の閉まる音がすると、静かな空気がそこに流れた。
「ツカサ。行くよ。」
 駐車場にはハルカの声が大きく響いた。
 奥にはまたトビラがあって。
 トビラ―――。
 いくつトビラをくぐればいい。あまりにもこの世界には開くトビラが多すぎる。
「ツカサ?」
「あぁ。今行く。」
 ツバメとハルカが安藤を待っている。
 ゆっくりと、でも急いで向こう側へ歩いてゆく。
 トビラの向こうは、また、トビラがあった。
「厳重だな。」
「だから理想の要塞・・・なのだよ、ツカサ。」
 ツバメは、トビラに向かって、パスワードやカード、手を置いたり、片方の目で、画面を睨みつけるなどのチェックをする。
 映画で見るような厳戒態勢が敷かれていた。ここがショッピングモールやレストランなどで人が楽しんでゆく施設とは思えなかった。上から見たあの景色が、すごくうそのように思えてならなかった。
 そのトビラの向こうは、平和な場所とは全く違う世界だった。
 この前、シャングリラのてっぺんに登ったときと同じ。あのR58階と似たような空気が流れている場所だった。
 上から何千人とも言う人々が、せっせと働いているのを見る。忙しそうに、働いている。見る光景はとてもシビアだ。何千もの人が、大画面に映るいろいろなものに急かされ、状況を急いで判断し、声を掛け合っている。
 それに応じて、罵倒や歓喜、叱咤や悔念の声も飛び交う。上の世界とは、似てるけど少し違う。
「シャングリラ地下21階。ここは上とは違う軍事施設だ。やっていることは同じだが、世界情勢やテロの情報とかNASAと組んで仕事してるとこだ。見ての通り、とても忙しいところだ。」
 ツバメは安藤に向かって話し始めた。下の人の声のせいで少し聞き取りづらかったが、安藤も耳を傾けた。
「上の世界とは違う。地下鉄の通るさらに下。そこで、この造られている平和を目の当たりにするよ。シャングリラは理想の世界だ。こんな街、この世界には他にどこを探しても、存在しない。」
「シャングリラは一体何なんだ?ツバメ。」
「まぁ、詳しい話はアイーシャから聞いてくれ。俺は少し用事がある。ハルカ、こいつをまたアイーシャのところへ。」
 安藤の疑問は解決することなく、ツバメはハルカにそういうと、てくてくと奥のほうへ歩いていってしまった。
「ツカサ、行こっ。」
「でも―――。」
「ごめん、ツバメにもいろいろあるんだ。ツカサに話したいこともたくさんあるんだ。今は、来てほしい。傲慢なのは分かってるけど・・・。今は、ツカサが必要―――。」
 腑に落ちなかったが、ハルカに謝らせてしまった、ということが今の安藤に大きく引っかかってしまう。
 ものすごく悪いことをしたような。
 でも、安藤の身体は何かをこの場で察していたのか。そんなことは分からない。
 ただ着いていこうとしたハルカの背中が、何か痛々しくも大きなものを抱えている気がしてならなかった。
 振り返り、そこにまた小さなトビラがある。そこを開けると小さな部屋があり、いくつかのエレベーターがある。
 エレベーターに乗ると、そこにはボタンが限られたほどしかない。といってもエレベーターに存在したボタンは地下21階から43階。
 上に上るボタンなど、何一つ無かった。
「ハルカ、どうやって上に?」
 てっきりまた高速エレベーターの類で、今度は地下のだいぶ深いところから、あの上の階までいけるかと思ったが。
「ちょっと待ってて、ツカサ。いろいろとこれには仕掛けがあってね。」
 と、ハルカはいうと、ツバメと同じくあのカードを取り出して、エレベーターのパネルらしきところに軽く触れた。
 するとパネルが開いて、58個のボタンが出現した。
「ほらね。すごいでしょ。」
 R58階を押すと、エレベーターはものすごい勢いで上に上がっていった。
「うわっ・・・。」
 体に思いがけない重力がかかって安藤はびっくりした。思わず体の支えが耐え切れなくなって倒れこんでしまった。
「大丈夫?ツカサ。」
「あぁ、別に。大丈夫だよ。ハルカ・・・。」
「よかった。」
 ハルカは安藤に向かって微笑むと、ハルカもしゃがんだ。
 同じ目線にハルカがいる。
「にはは」とハルカは笑っている。
 以前とは違って、窓の無いエレベーターだった。残念ながら雲の上の景色を見ることは出来ないようだ。
 エレベーターのパネルは、エレベーターが動くと同時に閉まってゆく。やはりそこに、普通の階に出るボタンは存在しなかった。あったのは地下に進むのと、後は一般の人が立ち入れない、遥か上に行くボタンだけ。
 シャングリラの上層部最上階であるR58階は地上約1070mだ。一番上にたどり着くには高速エレベーターでも6分半かかる。
 狭い空間。前のように外を見ることも出来ない分、その時間が妙に長く感じる。
 やがてエレベーターが上に行くに連れて、耳が痛くなってくる。
 今、何階くらいにいるのか。エレベーターに現在の階を知らせるような電光はなく、ひたすら上につくのを待つばかりとなった。
 座った体勢から立ち上がることも出来ず、ただハルカと二人、何も喋らずに、ただ座っている。
 その時間が、どうにも重くて。長くて。
「ハルカ、なにか理由があるのか?このシャングリラで一般の人が、上にも下にも来れない大きな理由ってのが。それと、なんでハルカがシャングリラの地下じゃない下の世界にいけないのか。外を歩くとき、なんであんなに下を向いて歩かなきゃならないのか・・・。教えてくれないか、ハルカ。」
 安藤は目の前でしゃがむハルカに聞いた。
 下を向いて、上を向いて。そして安藤を見つめた。どこか空ろな視線。でもまっすぐに安藤を見つめる。
「下にはいけるよ。だって人だもん。シャングリラは平和の象徴なんだから―――。でも理由なんて無いわ。行かないって決めたから、私は行かないだけ。隠れようとするのは、ちょっぴりこの世界で私たちが有名だからなの。一般の人が寄ってこないようにするためだよ。そういう決まりなの。」
 そっと微笑んで、憂いの表情を僅かに浮かべそうになって、急いでそれを修正するように顔の形をムリヤリ元に戻そうとして。
 安藤にそれを悟られないように、ハルカはそっと安藤の目線から逸らして、後ろを向いて話を続けた。
「決まり?」
「うん。決まり―――。私だけの―――、決まり・・・。」
 ハルカは立ち上がると、そっと壁に腰を掛け、一つため息をついた。
 安藤は、ハルカが何かを考えているような。そして何か大きな不安を抱えているような気がした。
「じゃぁ、なんで俺はここに呼ばれたんだ?」
「待って。それは昨日、アイーシャが話したでしょ。私たちにはツカサが必要。」
「クレアオンってなんなんだ?」
 ハルカが止まった。
 後ろを向いたまま俯いて、そのまま固まった。
 しばらくの間、ハルカは悩んでいた。伝えたいことが、うまく言葉になっていかなかったからではない。
 言葉にならなかったんじゃなくて、感覚が言葉にすら出来ない。感覚が感覚にすらならなくて。
 分からない―――。
「―――クレアオンってなんなんだよ、ハルカ―――。」
 それでも安藤はハルカに聞いた。
 ハルカも必死で答えようとした。
 伝えたいことがうまく言葉にならなくて。今は僅かでも言葉になった感覚を、ハルカは安藤に伝えた。
「あなたのMKF、見失わないで―――。覚えていて、その名前を。」
 何をだ?
 何が言いたい?
 安藤はハルカの言動がよく分からなかった。違う、全然分からなかった。とも違う感覚だった。
 気持ち悪い、自分を表現できない感覚が、どこまでも濁っていて、そんな気がしてとっても気持ちが悪い。
 理解できないに近い感覚。もしかしたら自分の無意識が理解しようとしていない。理解を避けてる。
 わからない。
 安藤には、どれともハルカの言葉が取れず、ただその場に座り込むだけだった。
 階が最上階に近づいてきたので、安藤はそっと立ち上がった。
 そして、前と同じように、たくさんの人が働くR58階のギャラリーをぐるっと回って、あの古風なエレベーターに乗り、本当の最上階へ行く。
 ついた後、また大きなトビラがある。
 また、来てしまった。
「アイーシャ、入ります。」
 ハルカはそういうと、大きなトビラをぐっと押して、一番上の元帥アイーシャのいる部屋に入ってゆく。
 安藤もハルカの後について、部屋に入った。
「待っていたよ!安藤司君。」
 待ってましたといわんばかりに、アイーシャはハルカと安藤の登場に歓喜する。思わず立ち上がってしまっている。
「あれぇ?ぅんっと、どうしたハルカ君。いつもと違って、今日は元気が無いようだねぇ。彼とケンカでもしたかい?まぁいいや。今日はゆっくりと話がしたい。そこのソファーに腰掛けていてくれたまえ。エルシィ、彼らにもお茶を出してやってくれ。安藤君ね、あのねぇ、今日はものすんご〜くおいしいアッサムティーがねぇ、どこだったっけなぁ。忘れちゃったよ、あはは。まぁ届いたんだよねぇ〜。それでさぁ―――。」
「アイーシャさん。聞きたいことがあります。」
 安藤は、浮かれるアイーシャの話を真剣な質問で止める。その目は、キリッとアイーシャの目を見つめ、アイーシャもそれを確認すると同時に、おちゃらけた雰囲気を一瞬で消し去り、
 真剣な目で見つめ返した。
「紅茶を淹れて参ります。」
 使用人のエルシィは空気を読むように、この場から立ち去った。
 エルシィが隣の部屋に移り、少し扉の閉まる軋んだ音が響き渡ると同時に、静かな空気が安藤たちの周囲に漂った。
 アイーシャが、自分の椅子に深く腰掛ける。
「聞きたいことがあります。アイーシャさん。」
 アイーシャは紅茶を一杯すする。
 腕を組んで顎置きにした後、安藤を真剣な目で見つめる。少しばかり笑いを浮かべたような気もした。
「それじゃぁ、まず、そのアイーシャさんの『さん』ってのをやめてくれ。嫌なら今ここで嫌といい、絶対にそれ以外の呼び方をやめてくれ。」
 名前?
 名前の呼び方にこだわる。なんだろう、誰かに似ている―――。
「わかった。アイーシャ。」
「うん、よろしい。」
 話を速いうちに進めるのは、従うことが一番手っ取り早いと安藤は察し、深くつっ込むことはしなかった。
「君の聞きたいこと、ねぇ。私が察するに、たくさんある。私が答えられなさそうな質問もたくさんある。だろ?」
 その通り。
 その通りだった。
「はい。」
 聞きたいことは山ほどある。それでも聞き足りないことも山ほどあるだろう。でも聞かなきゃならないことがある。知らなきゃならないことがある。
「いいでしょう。時間はあります。質問に答えましょう。ハルカ、席をはずしなさい。」
「―――はい。」
 ハルカは言われたとおり、ゆっくりと回れ右をして、大きなトビラの方へ戻っていく。
 安藤は、この場からハルカが消えることに納得が出来なかった。内心不安だったのかもしれない。
「なんでハルカを?」
「これは君と私の会話だ。第三者が口を挟むこともないと思ってね。しばらくハルカには外に出てもらっておく。ハルカ、ファウラーと一緒に零の調子を確かめてきなさい。しばらくしたら内線で連絡しますから。」
「はい、アイーシャ。」
「で、でも。」
「大丈夫だよ、安藤君。別に私と話すだけだ。特別なことなど何も無い。そんなにハルカ君がいないと不安かい?安藤君?」
 ハルカはそっとこの場を去ってゆく。
 ハルカがいないと不安、そんなんじゃない。そうじゃないことは安藤自身が一番分かっている。
 だが、なんとなく不安とは違う何かが安藤にあった。
「いいえ、違います。」
 何かがある。
 安藤はそれがまた分からなくて、また気持ち悪くなる。体のそこから何かがウズウズいっている。
「そうか、ならいい。大丈夫だからさ、リラックスしてよ。そんなに硬くなられてもこちらが困る。そこのソファーに座って。ゆっくりと座って話そうではないか。」
 しばらく固まっていた。
 ハルカが部屋を出て行くのをずっと見送っていた。
「ほら、ゆっくり座って話そう。そうでないと、君の質問にもゆっくりと答えられないじゃないか。」
 肩をそっと叩かれた。
「あっ・・・。はい―――。」
 アイーシャが椅子から立ち上がって、安藤の肩を叩きに来るまで全然気づかなかった。ハルカを見送るのに神経が全部取られていた。
 安藤はそっと元帥の部屋の横にある、会談をするようなソファーに座った。ぐっと椅子の後ろに体重をかけて、自分にリラックスするように言い聞かせた。
「それで、君の質問は何かね?」
 アイーシャもソファーに座ると、机に呑み途中の紅茶を置き、口元に手を当てて、安藤に聞いてきた。
「質問はたくさんあります。でも聞きたいことはそこまでたくさん無い。だからできるだけ真剣に答えて欲しい。」
「そんなこと、分かっているよ。こちらもこの世界のことを、全力で君に理解してもらいたいからねぇ。」
 アイーシャはそういうと、腕を組みなおし、安藤を上目遣いで睨んだ、というのか、薄気味悪く笑ったというのか。そんなしぐさを見せた。
 安藤は語彙を選び出した。
 簡潔に、自分の一番聞きたいことを、自分の頭の中に問うた。結果、当たり前のような疑問が一つ出た。
「まず一つ。この世界は何だ?あんたなら知ってるだろう。」
「世界を理解してもらいたいこちら側にとって、一番聞かれたくない質問だねぇ。世界を教えたい身分のこちらに、その世界は何、と聞かれて答えるのは難しいだろう。だけど知っている限り教えよう。約束であるし、何よりこちらも君に知ってもらいたい。」
 アイーシャは困ったような表情を浮かべたが、すぐに顔を真剣な表情に戻し、俯きながら考え出した。アイーシャ自身が、自分の中に無限とある語彙の中から、分かりやすく安藤に伝えるために必死になる。
「瑛と、どんな関係がある?」
 一つ付け加えて、安藤は聞いた。
 ツバメやハルカを見ている限り、この世界には少なくとも能見瑛と関係がある。ようだ。まだ分からないことだらけだし、信じたくも無い。異世界と瑛がリンクしていることが、妙な脅威として安藤の中に住み着きつつあった。
 安藤自身の希望も分からなかった。解決させたいという疑問の中、解決されたらどうしてしまおうかという絶望。そして希望。分からないまま、曖昧でいて欲しいという、希望。そして絶望。
 濁った感覚が渦巻いて、安藤を支配する。
 アイーシャの言葉がまとまったようだ。
 一つ深呼吸を置いた。
「安藤君、この質問の答えはいささか長くなる。反論はしないで欲しい。私が言うことはすべてここにある現実だ。それを知って欲しい。もちろん私にも分からないところには、私がちゃんと忠告を入れる。真剣に聞いて欲しい。もう一度言う。話は長くなるけど、真剣に。受け入れて欲しい。」
 安藤も一つ深呼吸をする。
「はい。」
 知りたい。
 知る。
 そう決めて、この世界と向き合うことを決めた。現実と向き合うことを決めた。ありえない現実と向き合い、戦う。
「わかった。それでは、話します。」
 アイーシャも重い口を開き始めた。
 無知なのか全てを知っているのか。理解しがたい雰囲気を、その場に醸し出している。安藤の中では、やはりありえない現実と戦うことも、向き合うことも未だに怖いことで、本当なら話など聞きたくない。
 でも決めた。
 決めたことがある。
「単純に言えば、この世界は能見瑛の理想です。」
 ありえない現実と戦う。
「彼女が何らかの原因でここに世界を作ってしまった。彼女の願望が、彼女の無意識の内に新しい世界を作ってしまった。ここは彼女がすがりつける世界で、彼女の希望だ。理想だ。彼女には望んだ世界を実際に空間上に一つの集合として宇宙を作ることができる。ユークリッド空間の中に宇宙はどれだけあるかは、未だに謎だが、この空間の象限の歪んだ対称にある場所に、たまたま世界が出来た。それが能見瑛の望みによって出来た世界だ。ただ、理論上通り、宇宙が存在すると、必然的にその場所には生物が住み着くことになる。それが私たち人間や、自然環境化に住む動物や植物といったものだ。君らの宇宙でも君らが住み着くように、私たちも同じように一つの生物として、この世界に居座った。能見瑛の視点からみれば、自分が作った世界に勝手に違う生物が住み着いてしまったとも言ったところか。ただ、彼女はこの世界があることも、自分がその世界の中心にいることも知らない。ただ彼女の望みは間違っていない。彼女が望むことは―――、恐らく―――。」
 すらすらと言葉が出ていたアイーシャの口調が突然止まった。
 何かを考えているようだった。
 安藤は、なんとなくだが、これは語彙を選ぶのとは、また違うことを考えているような気がした。
 心の奥で、自分でも理解しないうちに。無意識のように。
 だから深くは考えなかった。
「すまない、語彙を選んでいた。」
 案の定、アイーシャが口を濁らせたのは、語彙に迷ったせいだった―――。のかどうかはわからないが。
「話に戻ろう。彼女が望むことは、恐らく。君だ。彼女は君を求めている、安藤司君。ここは能見瑛と安藤ツカサが二人だけで存在するための世界だったんだよ。恐らく彼女は君を望んでいる。君との世界を望んでいる。でも、残念なことに私たち生物がこの世界に住み着いてしまった。でもそれは避けられなかったんだ。宇宙がある限り、そこに生物は生まれてしまうんだ。それは逃れられないことだったんだ。ただ、そうしたために、能見瑛の無意識は危機を感じたのだろう。私たちを全て滅ぼそうとしている。それが私たちが今戦っている存在『Σ』だ。彼の存在はイデアそのものだ。そして能見瑛の夢だ。理想そのものを叶える者だ。Σはこの世界の大いなる敵だ。なんていったって世界を潰そうとしているのだから。そしてこのままだと、能見瑛の無意識は、君たちの世界すらも滅ぼそうとしているに違いない。断言しよう。このままだと君たちの世界も私たちの世界も滅ぶ。君と能見瑛を残してね。」
 アイーシャはどこまでも真剣だった。
 ありえない話だ。それなのに、ハルカと同じだ。ありえないことが、どうしてかありえるように感じてしまう。
 自分が拒む感覚に自分が飲み込まれてしまうように安藤は感じた。
 ありえない現実が、どうしてかここにある現実に感じられてくる。真実すぎて疑うってことがあるけど、今は逆だ。疑いが多すぎて、真実にしか聞こえない。
 安藤の目の前にあるのは間違いの無い真実だ。存在する安藤の現実だ。
「じゃぁΣはなんなんですか?瑛のために動くのなら、Σ自身は一体どうなんですか?Σってなんなんですか?」
 どこまでも、どこまでも真剣に疑問をぶつけた。
 疑わしい中に、どうしても真実が欲しかった。真実の中の、偽が欲しくて。それでも全てが通る真実が欲しくて。
「先ほども言ったとおり、Σは能見瑛の理想だ。無意識の能見瑛が無意識に望んだことだ。これは推測だが、Σは二つの世界の殲滅をした後、自分諸共消失するはずだ。なぜならΣは無意識の能見瑛だからだ。世界が君と能見瑛だけになったら、瑛の無意識が勝手にΣを消すだろうな。」
 世界は能見瑛を中心に動いている。
 幼馴染だ。
 そんな身近な存在が、どうして一つの世界の中心にいるということを信じることが出来るだろう?
「理由は?」
「理由など無い。すべてある現実だ。」
 聞いても無駄だった。
 安藤自身、聞いても無駄なことくらい分かっていた。
 異世界、戦い、無意識、世界の中心、能見瑛。
 何を信じろと申す?
 それなのに、飲み込まれてしまう。ありもしないはずの現実に、自分が飲み込まれていってしまう。
 怖いのか。
 違う気がした。
 心当たりがある?
 瑛―――。
 安藤に浮かぶその一人の少女は、一人になっていった。
 追いかけても、追いかけても、彼女はどこまでも遠くへ行ってしまう。
 待って―――。
「じゃぁ、それは、俺はΣに殺されないってことなのか。」
 Σが求める世界が、安藤と瑛の世界なら、その二人が消されることは無い。
 つまり、瑛が安藤を求めなくなったら、“世界の終わり”は終焉する。つまり何も無かったように世界は平衡する。
 もし、この世界が本当なら、瑛を信じてみたい。
 ハルカと同じだった。目に映る光景が夢でない以上、信じるほかない。
 信じるんじゃない。
 認めるんじゃない。
 諦めるんじゃない。
「理解が早くて助かるよ、安藤君。君は優秀だねぇ。その通りだよ。君と能見瑛が絶望的関係になればいい。そしてこの世界を滅ぼさないためにも、Σの存在が消えてくれれば、この世界は一つの独立した世界として生き続けることが出来るんだ。私たちの存在が、能見瑛の独断によって消されてしまうなんて、そんなことは幾らなんでもひど過ぎないかい。私たちがこの宇宙に生まれることは、避けられなかったことなんだ。それなのに、無意識の理想のために世界を消されてしまうのは許せないだろ。私たちはイデアとして戦わなければならない。戦う最高の武器となるのがメルキルフレームだ。私たちが乗る機体は、私たちじゃないと乗れない。そういう特性があってね。メルキルフレーム自体が、イデアの中から搭乗者を選ぶんだ。意思があるみたいだろ。だからここの連中はみんなメルキルフレームを大切にしている。家族同然の存在だからな。私にも、愛すべきパートナーがいる。機体名はバルキリア・ギャラクシー。名前はシクザールだ。おっと、すまない。ちょっとテンションがあがってしまった。話を戻そうか。」
 安藤には一つ心に突き刺さることがあった。
 家族。
「名前ですか。家族―――かぁ。」
「おっと。少し口が過ぎたようだ。私が悪いことを言ったのなら謝る。君の家庭事情は知っていたのだが、すまない。」
 それは安藤にとって遠いものだった。
 もしそのメルキルフレームが、自分の家族レベルの存在となるものなのか。
「いいえ。いいです。別に。もう慣れましたから。」
 遠い存在が、どこまでも近く感じられて。怖くて。
 安藤は頭を掻いた。
 どこかに痛痒い感覚が走った。強がってもどこかに、まだ悲しみがあるのか、不安があるのか分からない。
 望むもの―――。
「悪かった。話を戻そう。最高の武器となるメルキルフレームは、最強の兵器だ。そしてΣはこの兵器を駆使して世界を潰そうとしている。私たちはイデアに生まれたものとして、全力で戦わなくちゃならない。それが私たちの正義だ。」
「それは元帥のあなたもですか?俺の中のイメージだと、指揮したりするのが元帥の役割なんじゃないかって思うんですよ。」
「違うよ、安藤司君。自ら戦わない奴に正義を語る資格なんてない。私は正義を貫く。だから戦う。覚悟はある。」
 アイーシャの目があまりにも真面だった。
 正義、覚悟。
 この人はこれでも元帥のポジションにいる人だ。そもそも安藤がなぜこんな偉い人と話しているのかを考えた。
 すると自分の位置が見えてきた。
 どうやらもう、信じる、信じない、の問題ではない。
 いくら頭が悪くても解かる。これは一大事だということ。理解した。これは現実だ。いくらありえなくても。
 ありえなくとも・・・。
「聞きたいことが先ほどの質問でもう一つ増えました。答えてください。この世界の情勢を教えてください。なぜその戦いの中心が日本なのかも。」
 能見瑛の世界。
 なら舞台は日本でもいいはず。
 だけど、異世界にそんな条理が通るとでもいうのか。それともここにいる人や物全てが瑛によって創られたものなのか。
 それともここの空気や話している今この全ての事象が、単なる偶然の積み重ねによって出来ているのか。
「この能見瑛の理想世界『リ・フレクト』は、なんらかの事象で君たちの世界『リ・アル』の攪止世界となってしまった。いろいろな事象が、鏡になったり、同じになったりする世界。この世界だと、この大日本帝國は、第二次世界大戦に勝利した国だ。合衆国の参戦が無かったために、対戦は日独伊三国の勝利となった。もちろんそうなるのに時間はかかったし、反逆もたくさんあった。日中の戦争の末、内戦のせいもあって中華民国は敗れ、そのほか、たくさんの土地が日本領となった。フランスもドイツに敗れた後、イギリスとの対戦に集中したドイツが、フランスの建て直しを挫き、フランスは占領。イギリスもその勢いで敗れ、ソ連がアメリカとの連合を嫌ったために、独ソは和平。スペインは独伊の同盟軍によってピレネー山脈を鉄壁にして対抗したけど、勢いは止められなかったわ。安藤君、君たちの世界とはいろいろ違う。この世界の中心はアメリカじゃない。ドイツと日本だ。今、日独伊ソ米の面積で世界の80%を占める。人口に関しては、占領土に住む人を入れると、全世界人口の90%も占める。だから私たちには大きな責任がある。勝ったものとして、勝った人間の理想と、平和を受け継ぐ義務がある。もちろん今世界は平和じゃない。現に日本領の中華民国やベトナムでは未だにテロが耐えない。ゲットーもいくつか存在するが、中国だと8億といるあれだけの人口を治めるのも一苦労だ。でも何としても平和を築いてみせる。そして今は、軍事政権が終息に向かい、世界平和が囁かれるようになった時代だ。そしてその平和の象徴がシャングリラだ。そして要塞城下町ウヨキウト。君はこんな要塞都市が、何故、今どき創られたか解かるかい?それは結束のためさ。この造られた平和の世界をまとめ上げるためには必要なものなのだよ。その代わり、この要塞は鉄壁だ。絶対に破れるもんじゃない。」
 話の要約は理解した。
 瑛の望んだ世界に歴史ができてしまった。瑛の無意識が望まないうちに、世界がどんどんと広がってしまって。
 安藤の頭の中は未だにごちゃごちゃだった。
 どうしようもない。
 相変わらず、このありえない現実にどこまでもひれ伏し飲み込まれてしまう。
「このシャングリラはどれくらい安全なんですか?」
 安藤は状況を立て直したかった。
 本当はこんなんじゃなかった。
「シャングリラを中心にして、高さ1111mからドーム状に半径20kmの範囲にシールドを張っている。登録のされていない機体や飛行機とかがシールドに触れると、電気信号を流して、機体をハッキングする。そして誘導班が操作を受け継ぐ仕組みになっている。もちろん人が通っても鳥が飛んでも異常はない。ただ、ウヨキウトの街の周りにも、高さ89m以下の高度に登録されていない機体や車がつっ込んできたときには、一瞬でその動きをシャットダウンする。ウヨキウトの周りには12本、そのシステムを起動できる塔が、地上、海上にある。それはここを守る鬼の番人だ。まぁ車をいちいち登録などしてはいないし、数少ない道の検問所で異常が無ければ通れるようにはしている。電車に関してはウヨキウトを出るまですべて地下鉄だ。地上に出るところに警備だって敷いている。船だって、このシールドが有効な地点に港は無い。だからこのシャングリラに戦闘機などが入り込むのは不可能なんだ。もちろん遠隔攻撃だって、すぐにシャットダウンする。それくらいシャングリラのシールドは強烈だ。たとえミサイルを至近距離から狙われても、ミサイルのシーカーを制御して安全なところに落とすようプログラムを組んでいる。既存のミサイルなら全てテストした。もちろん全て大丈夫だったし、新しいものが出たところで、新しく対策プログラムを作ればいいだけだ。問題ない。だからこの要塞は絶対だ。」
 聞きたいのはこんなことじゃない。
 そんな仕組みとかは後でいくらでも聞ける。
「それに、不振な奴らがいたらすぐに駆けつけられるよう、軍事防衛省を除くシャングリラの戦闘員は全てここシャングリラにいる。日本の周囲には数々の偵察塔があって、ええっと、場所的にはサハリンとか台湾とかにあるのだが、確認の取れない侵入者がいたら、すぐに駆けつけて抹殺する。」
 アイーシャは安藤のイライラに既に気づいていた。
 情緒不安定。
 安藤自身、自分の心がよく解からないことは自覚していた。求めていることはこんなことじゃない。
「それが平和の象徴だといえるんですか。俺にはこの塔が、あんたの言うとおり造られた平和の象徴にしか思えない。でもそれ以前に、平和さえもこの世の中は造られているのか?それならなぜ戦う必要がある?テロが出る?Σとだって和解することができないのか?仕方の無いことなんだろ。」
「できるのならとっくにしている。私たちだって戦いたいなんて思わない。でも戦わなきゃならない。」
 会話は知らないうちに長くなっていた。
 アイーシャもつくづく思うことがある。難しいのはお互い様だ。ただ感心する。
 安藤の存在は、予想以上に大きかった。想像より何倍も賢い。
「守るべきものが多すぎるんだ。―――ふぅ。」
 アイーシャが珍しくため息をついた。
「戦う必要があるんだ。君はまだ分かっていない。世界が一人の少女の無意識の想像の上に存在する危機が。もし能見瑛が世界を必要としなくなったら、世界は瞬く間に崩壊を始める。私たちは君たちと同じ人間だ。たった一人の異世界の少女のために、何十億人といるこのリ・フレクト上の地球の人間を殺すことなど、私が認めない。」
 アイーシャの目線はじっと安藤を見つめる。
 安藤は、アイーシャのその眼差しの奥に、アイーシャが背負うとても大きい何かがあることを察した。
 ただどうしても引っかかることがあった。
 それは根本の理由だ。
「だからって瑛とは関係ないでしょう。同様に俺もこれとは関係ないんじゃないですか。第一なんで俺なんですか。」
「何度も言おう。君は少なからず能見瑛の近くに居る。そして君が能見瑛の希望、そしてこの世界の絶望なんだよ。今ここで君を殺せば・・・、どうなるだろう?」
 空気は、自分でもびっくりするほどピリピリとしている。
 普段は絶対に出てこないような言葉も、すらすらと喉から湧いてくる。
 安藤は焦っていた。理由なんて無い。理由がうまく見つからない。言うならば、能見瑛が絡んでいるからなのか。
「あんたは俺に何を望んでいる?」
 能見瑛の存在が、安藤の中で知らず知らずに大きくなっていた。ずっと気にしていなかった幼馴染を、いつしか気にかけるようになっていた。
 でも、それと今の環境・状況は関係のないことだ。それなのに、安藤の頭の中には、能見瑛の映像が妙に流れ込んでくる。
 アイーシャは、一度紅茶をすすり、カップを乱雑に置いた後、腕を組みなおして安藤に回答した。
「皮肉なことだが、この世界を生かすも殺すも君次第だ。それがCLEARONだ。これは君にしか乗れないMKFだ。それは君の攪止にある存在が身をもって証明してくれたよ。そして私は君の大切な人から約束を預かっていてね。君には正義の味方になってもらいたいのだよ。どうしても守らなければならない約束なのでね。」
「約束?」
 この場の空気的に、アイーシャの『約束』は、安藤にはどこか『誓い』に似たようなものに感じた。
 アイーシャの顔がいったん緩いで、そしてまた強張る。
「そう、約束だ。CLEARONは、この世界と君たちの世界、リ・フレクトとリ・アル、二つの世界を救う最強の戦闘兵器だ。全てを終わらせることが出来るかもしれない。私たちが恐れているのは、能見瑛本人が、この世界を潰そうとすることだ。Σは少なくとも能見瑛とすぐにでも会いたいと思っているだろう。Σは能見瑛とは違っても、意思は能見瑛そのものだ。二人が出会ったら世界は最期だ。」
 世界は終わる。
 そんな事を軽々しく口にする。普通は誰がどう考えてもただの嘘っぱちにしか思えないだろう。
 ただ、それを今まじまじと真剣すぎる表情で言われた安藤は、脳内の整理が追いついていかなかった。
 整理しようと思っても、自覚してるのに整理できない。
 この場の空気にうまく乗ることも出来ない。ただ立ち止まってしまったような気がして、押しつぶされそうにもなる。
「だからって俺に何が出来る。」
 安藤自身、自分でも何が言いたいかもうよく解からなくなっていた。
 それでもアイーシャは、安藤の言った、一言、一言に、忠実に言葉を返してゆく。
 どこまでも真剣に。
「簡単なことだ。君には世界を救う正義の味方になってもらう。CLEARONの操縦者『シンパサイザー』になってもらいたい。恐らく彼をまともに操縦できるのは君だけだ。君は紛れも無いイデアだ。そして向こうの世界から来た人だ。そしてCLEARONを創った人間も君のよく知る君の世界の人間だ。」
 CLEARON―――。
 いい響きじゃない。呪いの呪文にも聞こえてくる。
 戦うなんてできない。安藤の心は、端から戦う気なんて無かった。
 理由をこじつけて、戦うことから逃げるんだ、と心の中に誓っていた。でも何かが引っかかっていた。
 それはこの場の安藤にも自覚があった。
「俺に戦える力があるっていうのか?だとしたら俺は戦わない。瑛のためにならないのなら、戦うことも無い。もちろんあなたたちの望みどおり、瑛には近づかないと約束する。アンタが約束した奴がいるなら、俺とも約束して欲しい。それじゃぁダメなのか。」
 安藤は心のどこかで逃げたいと思っていた。
 今もずっと思っている。
 今すぐこの場から立ち去って、大好きなギターを弾いたりしたい。こんなところで、なんで世界を救うどうこうの話になっているのか、安藤は今更になって、自分の不幸さを嘆きたくもなった。
「それはだめなんだよ、安藤君。君を信用してないわけじゃない。ただ、もしものことを考えると、私はとても不安なのだよ。それに、ね・・・。それに―――私事ですまないが、とても大切な約束があるんだよ。」
 それでもアイーシャは止めなかった。
「約束、ですか。」
「あぁ、そうさ。とても大切な人からの、ね。」
 大切な人。
 アイーシャはあくまで元帥だ。恐らくこの鉄壁の要塞の中で一番偉いことは間違いのないことだろう。
 そういう状況に置かれた人にとっての大切な人。
「誰なんですか?その約束をした人は。何も無しに、俺に戦いを押し付けるのか。たまたま操縦できるのが俺だったからって、それはないんじゃないのか?俺にだって知る権利はあるだろう。その約束した人が、こっちの世界の人間なら、俺も同じ待遇のはずだ。俺の約束よりも大切なのか?」
「大切な約束だ。わかった、言おう。君も結構、頑固だね。美しいよ。君は強い信念を持っている。」
 大切な約束―――。
 アイーシャにとってそれは途轍もなく大切な約束だった。
「だからこそ、私たちと戦って欲しい。君はΣには殺されない、ある意味不滅の僕らの切り札だ。そしてこの世界を最初に知った、君たちの世界の人間が、君に幸せになって欲しいと最後の兵器を残して行った。」
 安藤の中では、リ・アルの国の連中のたまたまイデアだった、お偉いさんが来て、こっちの人と約束を付けたとか、そういう約束だと思っていた。
 兵器だって、そんなものは軍とかそういうところじゃないと作れるものではない。
 イデアならMKFに乗れるのなら、なぜ安藤に任せる必要があるのかと、その点でも安藤は苛立ちを覚えていた。
 安藤はてっきり、その人も戦いで死ぬのが怖いから、自分に任せたんじゃないかと思っていた。
 ところが、アイーシャから飛び出した名前は、恐ろしいほど想定外のものだった。
「安藤正弘だ。」
「―――!?」
 安藤は動揺のあまり言葉を失った。
 沈黙した。
 一気に沸騰しそうだった空気が、ぞっと冷めていく。
「知ってるね?知らないわけ無いだろう。」
 アイーシャの言うとおり知らないはずが無かった。
 懐かしい響きだった。
「よ、よく解からないんですけど。」
 安藤の頭がさらにパニック状態になってゆく。理性的にいきたいと考えていても、どうも調子がさっきからおかしい。
 それも当然だ。
 安藤正弘は、他でもない、安藤ツカサの父親だ。3年前に行方不明になって、消息を絶った父親の名前を言われたのだ。
 アイーシャは、パニック状態の安藤に対して話を続ける。
「君のお父さんもイデアだ。そしてずいぶん前から異変に気づいていたよ。この世界のこともなにもかもね。言い忘れていたが、シャングリラの地下70階には、君が通ってきた防空壕と同じ、ラクリマ世界への亀裂、っていうのかな。その、入り口見たいのがあってね。それも結構大きいものなんだけど、どうも科学的にもよく解からない空間で、そこに落ちた人がどうしても帰ってこれなくなってね。恐らく座標軸の曲線に耐えられなくなって空間を彷徨ってしまったと思われるんだが、そこに一般人が落ちないようにするために、埋めたんだ。といってもこのシャングリラを建設しなければ、それが見つかることもなかったんだけどね。ただ見つからなかったら今頃はΣに僕らの世界も君たちの世界も滅ぼされていただろうけどね。」
 安藤は言葉をもう一度整理した。絡まる文章、空気中に伝わるアイーシャの言葉の波長を整理しなおす。
 アイーシャもそんな安藤に気づいたのか、話口調が少しゆっくり目になった。
「ただ、私たちには戦争を生き抜いた歴史がある。他にも文学や芸術も含めて、この大日本帝國は美しい歴史のある素晴らしい国だと思っていた。それなのに、不思議なことに、40億年の歴史があるはずのこのリ・フレクトが、4年前に一人の少女の空想によって創られたと知ったときは私も驚いたよ。現実を疑ったね。私が生きてきた28年は一体なんだったのかと思ったよ。見るもの全てがバカバカしくなって、壊れてしまうのだと思ったね。ただ、現にそこには危機を知っている君のお父さんがいてね。」
 アイーシャの口が止まる。
 次に繋げる言葉を考えているのか、固まってしまっている安藤に対して少し間を置いたのかはわからない。
 ただ、アイーシャ自身もさきほどから情緒を乱していた。
「私には君の気持ちがよくわかるよ。信じられない異世界のもの。ただ、一ついえることがあるとするなら、私は異世界を信じれる人だ。ありえない現実を受け止められる人だ。それは私自身が自覚している。そしてここでたたかう全ての人間が、覚悟と正義を持っている。それは間違いのないことだ。」
 安藤ももう受け止めるしかなかった。
 ただ、どうしても疑うしかなかった。それは目の前の現実を受け入れたかったのかもしれない。
「証拠はあるんですか。」
「証拠、かぁ。君も疑い深いねぇ―――。」
 アイーシャも安藤に感心していた。
 押しつぶされそうな現実と非現実の境で、安藤が必死に戦っていたことくらい、アイーシャは既に悟っていた。
「でも、残念ながら証拠はある。といっても、あまり確信を得られるようなものではないが、君のお父さんと私の写真だ。1年前、彼が極秘にCLEARONを製作し、完成したと聞いて私が駆けつけたときのものだ。悪いが、これ以外に彼の存在を証明するものは無いんだ。悪いのだが・・・。」
 アイーシャはおもむろに胸ポケットから一枚の写真を取り出し、机の上に曝した。そこには間違いない、3年前に消えたあの時となんら変わらない安藤正弘の姿と、今より少し髪が短いアイーシャが映っていた。
「今、父さんはどこへ?」
「残念ながら消息は不明だ。CLEARONのテスト搭乗時、いろいろと事故があってね。それ以来音信不通だ。ただ、彼が最後私に置手紙をしていってね。そこに『ツカサを頼む』と書かれていた。それがこれだ。」
 最初からシナリオがまるで決まっているように、待っていましたといわんばかりにアイーシャはさっきと逆側の胸ポケットから一枚の封筒を取り出し、中の便箋を取り出して、机の上に放った。
「・・・。」
 そこには、安藤正弘の特徴的な字が書かれた紙があった。
 自分の父親の筆記など、よく覚えていなかったのに、見た瞬間に父親の字だとわかった。たった3年字を見ていなかっただけなのに、すごくそれが懐かしく感じられた。
 安藤はもう何もいえなかった。
 やはりここは紛れもない現実―――。
 受け入れるしかないのか・・・。安藤は葛藤していた。どうしても引っかかるところがあった。
 後もう少しで出てきそうな、その引っかかり、突っかかり。
「君は間違いなくCLEARONのシンパサイザーだ。それでもってこの世界に渡ってきた紛れも無いイデアだ。君の父さんも言ってた。リ・フレクトを、瑛の世界を救えるのは、君しかいないと。」
 安藤は考えた。
 悩んだ。
 頭の中で、何だか分からない「なにか」に叫んだ。叫びまくった。
 長い時間、静かな空気が流れていた。10分は何も話さず、無音、沈黙の時間が流れただろうか。
 アイーシャも、動かず答えを待ち続けた。
 考えていたときに、ボーっとしていたのか。安藤は妙な夢を見た。
 言葉じゃ説明できない。そんな夢。
 頭の奥で犇いていた濁り。蟠り。それが、ふと理由も分からずに、透き通っていく感覚を覚えた。
 安藤の中にあった引っ掛かりが解けた。
「CLEARONに会わせてもらえますか―――。」
 安藤は揺らいでいた。
 まだとても怖くて、戦うなんて自覚はとても無い。だいいち、MKFの操作なんて全然知らないし、不安な点が一杯あった。
 それでも突っかかっていたものが、ふと抜けていった。
 全くする気のなかった戦い。でも「やめる」と結局言えぬまま、安藤自身理由がわからないのに望んだCLEARONとの邂逅。
 一人の少女戦っている姿を想像した。
 他の誰でもない、ハルカの。
「待っていたよ、その言葉。安藤君、ありがとう。クレアもウズウズしているはずさ。動きたくてたまらないはずだ―――。ちょっと待っててくれ。」
 そういうとアイーシャはズバッと立ち上がると、自分の座席の電話を取り、早速どこかへ連絡しだした。
「失礼いたします。」
 話が終わってタイミング良く、横のトビラからノックをする音が聞こえた。この部屋の横にある小さなトビラをあけ、エルシィが丁寧にポットとカップを持って部屋に入ってきた。
「お疲れ様です。安藤様、淹れたてのお紅茶でございますわ。アッサム州カームループ原産です。直送だったのですが、香りを引き立たせるため一度火をお通ししました。」
 エルシィは、座っている安藤の前に、カップ、ポット、砂糖、受け皿を手早く丁寧に置いてゆく。
「お熱いうちにお飲みください。お砂糖はこちらです。ミルクやレモンではなく、ストレートがお薦めですわ。」
 あまりにもタイミングが良すぎて、安藤は茫然としていた。
 おっとりとしたエルシィの声と、アイーシャが電話に向かってざわざわはしゃぐ声が、部屋には谺していた。
「すみません、エルシィさん。なんていうんだろう、ははっ・・・。タイミングよすぎてびっくりしてて・・・。もしかして今までの話、聞こえてたりしましたか。」
 すると、エルシィはにこっと笑った。
「いいえ、安藤様。元帥秘書たるもの、お二方の会談の時間を流れから読み、その会談中に紅茶を汲み、終わり次第タイミングよく紅茶を差し出すことくらい朝飯前でございます。飲み終わったら、カップは机に置いておいてもらって構いません。それでは。」
 うっすらと会釈をすると、エルシィはまた隣の秘書室らしき部屋に戻っていった。
 すげぇ・・・。
 と安藤はまた一つ、違う世界を知った―――、ような気がした。
 電話が終わったらしく、エルシィが部屋に戻ると同時に、アイーシャが安藤の下へ駆け寄った。
「準備は出来てる。いつでも来ていいそうだ。安藤君!さっ、行こう!私が案内するよ。来てくれ。」
「は、はい!」
 安藤は、焦っていたのか、ついつい返答の声が大きくなってしまった。
「ふふっ、うん。いい返事だ。行こう。」
 安藤は、エルシィが淹れてくれた紅茶を味わわずに一気飲みしてアイーシャの後を突いていった。
 紅茶を一気飲みしたにもかかわらず、後味のすっきりさ等から、美味しい紅茶だとあまり紅茶に詳しくない安藤でもすぐに分かった。砂糖も入れてないのにほんのりと甘くて、とても美味しかった。
 そしてその後、元帥室入り口の大きなトビラを開け、エレベーターを降り、T6階からT1階へ。つまり、あのR58階に戻ってきた。
 アイーシャと安藤が、ギャラリーに降り立ったとき、下にいた人たちが一斉に安藤のほうを見た。
「お疲れ様です、元帥。」
「お出かけですか、アイーシャさん。」
 下のほうからは、アイーシャの方に、いろんな人が言葉をかけてきた。やはりこの人は本当に元帥という偉いポジションについている人だ。
 アイーシャは軽く下に向けて手を振った。
「それじゃぁ、行こうか。安藤君。」
 ポケットに手をつっ込みつつ、アイーシャはとことこと反対側のエレベーターの方へ歩いてゆく。
 その後姿が、どこかカッコよくて、どこかハルカに似ていた。
「君が今から行くところは、ここのすぐ下。R56階の出動用滑走ゲート8番だ。Gate008だ。ここがCLEARON専用の滑走ゲートだ。この門が開くことを、私はどれ程待ったことか。」
 エレベーターに乗り込み、2つ下の階に降りる。エレベーターを降りると、そこには円形に広がった部屋があり、前に4つ、後ろに4つ。合計8つのトビラが広がっていた。
 トビラにはGate001など、文字が振られていた。
「こっちだ。」
 アイーシャが向かった先は、エレベーター群の下りたところから後ろに歩いてすぐのところにあった。
 Gate008―――。
 トビラは完全には閉まりきってなかった。
 アイーシャはトビラを開ける。扉の向こうには、長い廊下が続いていた。
「この奥が、CLEARONの専用メンテナンスルーム兼滑走路だ。」
 廊下は長かった。そして短かった。
 複雑に入り組んでいた。まっすぐ行って曲がって。そしてまたまっすぐ行って。トータル的にはあまり動いてないのに、長く感じた。
 廊下の壁に、ドアや窓は無い。何も無い廊下の突き当りには、また一つの扉があった。
「ここだよ。安藤君。」
「―――。」
 ごくり・・・。
 安藤はつばを飲みこんだ。
 すごくドキドキした。こんなに緊張するのは駅前ライブ以来・・・。いや、ハルカの家に泊まった日以来だった。
 トビラが、開いた。
「ツカサ!」
 扉の向こうで、安藤の視界に最初に飛び込んだものは、ハルカだった。
「ハルカ。」
「待ってた。来てくれるって信じてた。」
 ハルカの今まで見た中で一番の笑顔だった。こんなにもありふれた日々視界に写る日常の笑顔の中で、一番の笑顔だったのかもしれない。
 ハルカは嬉しそうに安藤の手を引っ張ってゆく。
「ツカサ。やっぱりツカサってツカサだよね。嬉しいな。」
「ぅぁわ。」
 ぐいぐいと袖を引っ張られた安藤はこけそうになった。
「これこれ、ハルカ君。安藤君が困っているじゃないか。あまりはしゃぎすぎないの。まぁ、嬉しいのはわかるけどね。私も嬉しいから。」
 ハルカは少々申し訳なさそうに安藤の手を離すと、おちゃらけた笑顔を見せて安藤から少し距離を置く。
 アイーシャは安藤の3歩前に立ち、安藤を導く。
「安藤君、こちらだ。ハルカ君。君もついてきていい・・・。というより、ここには一体何人の人がいるというんだい?」
 安藤は、最初は気づかなかったが、この出動用滑走ゲート8番の中に、ハルカ以外にも多数の人間がいることに気づいた。
 まず一番最初に目に入ったのは、赤毛の入った身長のやけに高い男だった。ツバメくらい身長は高いかもしれない。
「やぁ、お前が安藤ツカサか。へぇ、こいつがCLEARONのシンパサイザー、か。おっと失敬、自己紹介が遅れた。 伊庭焔懺 いばえんざん だ。今年19になる。」
「は、はじめまして・・・。」
 見かけとは違って、意外と高い声だった。失礼な人なのか丁寧な人なのか微妙なラインのような人だと安藤は感じた。
「俺はヴィル、じゃなくて、MKF『ヴェナヘイム』のシンパサイザーなんだ。よろしく頼むよ。」
 その名詞をいわれて、安藤は全然ピンと来なかったが、少し考えるだけでその名前がどのようなものか分かった。
 CLEARONと同じ。焔懺も言った通り、ヴェナヘイムはメルキルフレームのとある名前のようなものだ。最初に詰まったあのヴィルというのは、ハルカがラウム零を『ゼロ』と呼ぶように、機体のあだ名なのだろうか。
 そう思うと、安藤はこのシャングリラの上層部にいる人たちが、いかに自分の機体を愛してるのかと感心する。
 ハルカもアイーシャも。他にも多数の人たちが、自分のメルキルフレームをありえないくらい親交してる。
 安藤もCLEARONというものとどれだけ親しくなれるのか。高ぶる緊張と不安で押しつぶされそうになる。
 覚悟するという感覚が、とても今になって怖く感じてくる。
「伊庭君は優秀だよ。といっても、ここにいるMKF操縦者の中で優秀じゃない人なんていないんだけどね。」
 優秀。
 アイーシャがいうその優秀というのは、戦う覚悟が。それ以前にこのメルキルフレームに乗る覚悟が出来てる人なのか。
 安藤はちらっとハルカの方を見る。
 安藤の視線に気づいていないハルカ。どこかを見るその目に、固まった覚悟があると思うとこの場が安藤にとって少し重くなる。
 それを察したのかそうでないのか知らないが、先ほど見た、1つ知っている顔が安藤の前に現れた。
「何が優秀や?アイーシャさん、こんなアホ褒めなくてもええやん。BWFZOの中じゃ最高のアホやさかい。よぉ、安藤はん。また会うたな。改めてよろしゅう。ファウラー=アントラハイト=笹倉や。握手!」
「あ、うん。」
 関西弁の女の子。
 そしてハルカの仲のよさそうな友達。
「クレアもファウラーが見てくれるんだよ。ファウラーは天才だよ!ツカサもほらっ!握手握手っ!」
 ハルカがムリヤリ手を持って、女子と握手することに慣れてなく(女子に触れることに慣れてないともいうのか)、握手を少々拒んでいた安藤とファウラーの手を持って、ぐいぐいと握手をした。
 ハルカがファウラーを褒めると、ファウラーはあの厳つい関西弁からは考えられないような反応を見せた。
「あほっ、そんな、天才なんて、滅相もないわ。」
 デレデレと照れている。
 ファウラーはアイーシャと同じくらい背が高いが、なぜか安藤には見かけ的にずっと小さく感じた。
 みんな若い。
 そんな人々が世界を守ってると思うと、また妙な不安が押し寄せてくる。
 ただここにいるアイーシャ、焔懺、ファウラー、そしてハルカとともに話していると、どうしてかその不安が洗われる気がした。
 わいわいと輪っかになって話していると、アイーシャが一人の人間が端で見てることに気づいた。
「顔を出しなよ、白鳥君。君も気になるのだろう?」
 いびつな形の柱の後ろ。
 影の中から。
「あ、は、はい・・・。」
 小さくて高い声。そして透き通った声が響いた。
 一人の可愛らしい少女がひょっこりと顔を出した。
「あれっ?いつ入ってきたんだよ。白鳥ぃー。」
 焔懺はののに気づいてなかったのか、腕組で考えるようなそぶりを見せた。
 安藤の目に映った少女は、どこかハルカに似ているような気もした。肌が白くて小さくてとても可愛らしかった。
「さ、先ほどお邪魔いたしました。きにっ、気になったも、もので・・・。」
「こっちへ着なさい。白鳥君。」
「は、はい・・・。」
 ゆっくりと、ののは安藤のほうへ近づいていった。
 ゆっくりとゆっくりと。下を向きながら。黒髪のロングヘアーが顔を隠してしまう。
 安藤はまた不思議な感覚を味わった。ハルカと出会った時と同じような。そのずっと前にも味わった感覚。
 いつだったか味わった感覚に似ていた。
「し、白鳥、ののです。よ、よっ、よろしくお願いしますっ!」
 いつのまにか、ののは安藤の目の前にいた。
「あ、あぁ。よ、よろしく。」
 安藤は言葉に詰まったが、とりあえずその場にあわせるように挨拶を交わした。
 ののは顔を下に向けてまだうじうじとしている。
「全く。白鳥君。君は君の言動にもう少し自信を持ちなさい。君は戦闘のときはあんなにも強いのだから。」
 それをあきれて見たのか、アイーシャはののを叱る。いつも注意されているのかは分からない。
 だけど、安藤には、なんとなく、いつも同じようなことを言われているのではないかと思えた。
 何となくそんな気がした。
 それは白鳥ののがここにいる全員と同じように若かったせいなのかもしれない。
「そ、それは。アビスが私にいるから―――。ぅぅ・・・。」
「だから、そのアビスを操縦してるのは他でもない君なんだから、もっと自信を持ちなさい。それでもシンパサイザーかい?」
「す、すみません。」
 アイーシャは聊か苦笑いを浮かべる。
「全く・・・。あぁ、ごめんよ、安藤君。目的は挨拶会じゃなかったね。まぁBWFZOのメンバーとは後で嫌ってほど会うだろうから。その時々に適当に頼むよ。まぁそのうち君の歓迎会を開きたいと思ってるけどね。」
「いや、別に・・・。それは、まぁ・・・。」
 歓迎会・・・。ということを聞いた安藤は内心は嬉しかった。本当は恥ずかしいし、そんな子供じみたことなど、やらなくてもいいと思ったが、それが何となくであるが、この世界に入る儀式というのか。自分がこの世界に不必要なものでないということを改めて知ることが出来て嬉しかった気もした。
 ただ、今の安藤が待っているものは、そんな歓迎会や自己紹介のことではない。大事な目的がある。
「あの、それでCLEARONは?」
 自分がこの世界にいる最大の意義だ。
 ただ、この時安藤の中では、そのような使命感というよりは、何か違うものが安藤を押していた。
 なにか違うもの。
 何かもやもやとしたもの。
 でも何か大切なものが、安藤を押していた。
「あぁ、見えるかい?目の前にあるだろ。」
 安藤の視界には何も見えなかった。
 先にあったのは、ゲートのシャッターだけ。
「えっと・・・、どこですか?」
「上を見あげてごらん。安藤君。」
 アイーシャが天井を指差した。
 安藤が見上げると、そこには白銀色のロボットらしきものが、堂々とつっ立っている。安藤から見たその景色は、聳え立つ一つの塔だった。
 景色が変わった。
 安藤のいるこの空間が、どういう場所だったのかも天を見上げて理解することになった。
 さっきののが隠れていた場所はCLEARONの足だったようだ。
「あっ―――。」
 安藤は思わず感嘆の声を上げた。
 ロボットに驚愕したわでもないのに、無意識の内に、喉の奥のほうから自分でも吃驚するくらい大きな声が漏れた。
「美しいだろう?白銀の騎士さ。」
 アイーシャは腕を構えて安東と同じ視線を向ける。
「はい。とても・・・綺麗。」
 率直な感想だった。安藤はCLEARONに魅かれた。
 安藤には、CLEARONが何かを誘導せるように、安藤のほうをじっと見ているように思えた。
 安藤もその視線に捉われるような感じだった。美しいと、その時安藤は思った。
「―――乗ってみるかい?」
「えっ?」
 安藤は驚いた。
 そしてそれとともに不安が脳内に流れてきた。
「だから、クレアに乗ってみたいとは思わないかい?」
「え、でもまだ俺、操縦の方法とか分からないし。」
「大丈夫。そういうことじゃなくて。単純にクレアの中に入ってみないかい。私も見たいんだよ。誰をも拒み続けてきたCLEARONが、人を選ぶのを、ね。君がCLEARONのシンパサイザーであることは間違いのないことだ。」
 アイーシャは安藤をCLERAONに乗せるように誘導した。そして安藤には何となくその行動・言動が焦ってるようにも思えた。
 理由もない。
 ただ、少し安藤に疑念が走った。妙な感覚だった。このままCLEARONに魅かれてはならないような、そんな感じだった。
「そういえば、すみません。さっきからシンパサイザーって聞くんですけど、一体何なんですか、それ?」
 何度も同じだ。疑うところは疑え。知らないことは知ろうとする。
 そう思って聞いたはずなのに、今回に関しては何かから逃げるような。搭乗をギリギリまで遅らせてるような気がした。
 安藤自身それはよく分かっていた。
 ただ、自分でもよく分からないうちに逃げているような気がしている。
 話を聞いていれば、大体の意味だって分かってくる。英語の勉強と同じだ。シンパサイザーがメルキルフレームに選ばれた搭乗者であることくらい、先ほどから見ていたハルカや焔懺の言動から解からないほど安藤は頭は悪くない。
「あれっ?説明してなかったかなぁ。したと思った気がしたんだけど・・・。私の気のせいだったかな。まぁいいや。そんなに難しいことじゃない。ただ単純に、メルキルフレームの操縦者のことを、この世界では世間一般に『シンパサイザー』っていうんだよ。機体は操縦者を選ぶからね。このメルキルフレームは、限りなくイデアに近い私たちエイドスが、限りなく美徳に等しい形で同調したとき、機体は我々を選ぶのだよ。まぁ名前なんてどうだっていいのだけれど、何となくカッコいいじゃない?『シンパサイザー』って。なんかこう・・・、まぁカッコいいじゃない!とにかく、カッコいいんだよ!」
 先ほどと違ってアイーシャの言葉もだいぶアバウトになっている。
 やっぱり何か焦っているような気がする。
 安藤は少し固まってしまった。
「うん?どうしたんだい、安藤君?」
「あ、いいえ、なんでもありません。」
 アイーシャに声をかけられて我に返った。
 安藤は、我に返ると同時にその間を対応させようとするためにアイーシャに質問することにした。
「あの、また話を戻してしまって悪いんですけど、そもそもイデアとエイドスって何なんですか?」
 だけど安藤はまたよく分からなくなりそうになっていた。この世界に来るとこうなのか。
「君も難しい質問をするねぇ・・・。」
 ふとハルカを見た。理由はわからない。ハルカはののと話している。不意にこぼれる笑顔が映るたび、安藤の脳内はまたよく分からなくなりそうになる。
「あの、安藤君?どうしたかね?」
 アイーシャがボーっとする安藤に気づいたのか、声をかけた。
「あ、いいえ。すみません。ちょっとボーっとしてました。あの、ええっと、学校の倫理で習うんですけど・・・。あんまりよく分からないんですよね。イデアっていうのは、形なのか存在そのものなのか。よくわからないんです。」
「まぁ。後で話すさ・・・。」
 アイーシャは焦っていた。
 焦る理由があったからだ。安藤には話しづらい理由だった。だから自分でも情けないような対応を取ってしまったことを気づかれないように心の中で悔やんだ。
「とりあえず、どうだい安藤君!さっそくクレアに乗ってみたいとは思わないかい?」
「はい。乗りたいです。」
「じゃぁ、さっさと乗ってもらおうか。クレア!喜べっ!やっとこさお前のご主人様が着たぞ!」
 二、三歩まえに歩き出すと、上を見上げて高らかに叫んだ。
「彼を呼んであげてくれ。『クレア』だ。」
 アイーシャは指で上のほうを指し、安藤にCLEARONを愛称らしきもので呼ぶように仕向ける。
 白銀色の騎士は、孤高の鷲の如くつっ立っている。その姿がとても凛々しかったせいか、安藤は愛称という馴れ馴れしい呼び方で呼ぶことに気が引けた。
「クレア・・・。」
 自信が無かった。
「だめだめぇ。もっと大きな声で!」
 でもアイーシャはそんな呼び方を許さなかった。そこにいたみんなも、安藤を見ている。赤毛の少年も無口な少女も。
 そしてハルカも。
 安藤のほうをただただ見ていた。
 安藤は自身を勇気に変えた。変えることは容易じゃなかったし、その場の雰囲気だけでも出来るものじゃない。
 ただ、言えた。
「クレア―――!!!」
 言えた。
 なんとなく。なんとなくって事は安藤も解かっていた。だけど一つ確信して思ったことがある。
 こいつと戦いたい。
 こいつと一緒に空を飛んでみたい。
 好奇心と不安感が混じった安藤の声の波長は、空気中を一瞬にして伝わり白銀の孤高たる騎士を動かした。
「あっ―――。」
 目付きが変わった。
 ずっと高いところを見ていたCLEARONは、安東のほうに視線を変えた。安藤の目をじっと見つめる。
 そして優しく手を差し伸べてくる。
 あの時のハルカのように。ハルカがラウム零というメルキルフレームと触れ合うときのような感覚。
 初めて味わったロボットとの交信。
 それがすごく安藤は嬉しかった。
 嬉しかったのは安藤だけじゃない。後ろから歓声が聞こえる。焔懺もののもアイーシャもハルカも。
 この刻を待っていた。
「クレアも君を待っていたようだねぇ。乗ってあげな。」
「でも・・・。」
「大丈夫、大丈夫!落ちたりしなけりゃ大丈夫!ほら。」
 手を差し伸べる白銀の騎士。
 魅かれるようにその手の上に乗る。
 CLEARONは安藤をそっと自分の胸の付近に持っていく。入り口なのだろうか、搭乗席が高い手の上から臨める。
「高い。」
 CLEARONの全長は7メートルと77センチ。安藤の立つ高さは、目測でも5メートル半はある。
 景色が変わる。
 シャッターしか見えなかった先ほどの空間とは全く違う世界に思える。後ろを向いて、クビの角度を少し上げて、CLEARONの表情を覘く。
 燐とCLEARONは立ち、前を見続けている。でも、そこはかとなく安藤のほうを見つめているようにも見える。
「ツカサ!どう?」
 遠くハルカの声が聞こえる。
 下を見ると、手を振りながら安藤を見つめて叫んでいる。
「ハルカ!結構怖い、かも。」
 安藤もハルカに手を振った。ハルカの喜んでる姿が見える。ものすごく心を打たれた。昔安藤が自分の母さんに褒められたときの温もりと感覚が似ていた。
 距離は遠くでも、ハルカの温かみが伝わってくる。
「うわっと。」
 CLEARONが手のひらをくるっと返したせいか、安藤はバランスを崩しそうになった。体勢を立て直そうとしたが、体重の移動が間に合わずに、勢いのまま、安藤はCLEARONの中に飛びこんだ。
 機体のすわり心地は悪くなかった。
 それどころか、なぜが自分の座りなれた椅子みたいに、落ち着いた感覚さえ覚えるほどだった。
 機体の中に入ると、たくさんのモニターが出現した。外の光景が、とても高い位置から見えている。
「どうだい?安藤君。クレアの中の居心地は?」
 アイーシャの声がCLEARONの中に響き渡る。
「は、はい。ま、まぁ。その・・・。はは、なんていうんだろう。こういうの初めてだからよく分からなくて・・・。」
 間―――。
 静かな―――。無音―――。
 答えが返ってこない。Gate008が一瞬静まり返る。
 誰もが黙っている。安藤は自分が何か変な事を行ったのかと思ったが、別段そんなことはない。
 何かがある―――。
「安藤君。君にちょっと話があってね・・・。その、死んだり怪我したら本当にすまないと思う。先に謝っとく。ごめんね♪」
 何かがあった―――。
「えっ?」
 全てが動き出した。
 これが、始まり・・・。
 アイーシャが先ほどまでの声とは全く違う空気を放ちながら、ファウラーに命令する。いかにも元帥らしく、何かの覚悟を背負うように。
「ファウラー。ゲートオン!シュプラフヴァンター(機体安定装置)解除―――。安藤君。ごめんね。これも世界のためなんだ。―――やっちゃって。」
 シャッターが開き始める。
 後方からの光が眩しい。やがてCLEARONは空の方向へ、重い体の向きをゆっくりと変えてゆく。
 振り向きざまに、憂いたファウラーの顔が見えた。
「堪忍な、安藤はん。」
「えっ?」
 一つ謝って、一つ呼吸を置いて。
 ファウラーの目付きが変わる。
 本職に戻ったような真剣な表情。さっきの自己紹介のときとは全然違う表情で次々と言葉を連続的に吐いていく。
「ゲートオープン、CLEARON、出力71%、CORE01、正常、CORE02、正常。機体接続問題なし。レールON!エンジン出力制限解除、オートモード離陸。CLEARON、Gate008、機動準備完了。」
 早口言葉かとも思えるようだ。
 CLEARONのなかで響き渡ったファウラーの声。それがどういう意味かなど安藤にはわからないがそういう意味だということは解かった。
 これは大変なことに巻き込まれた、と。
「行くんだ―――。クレア―――。」
 アイーシャが一言そういうと、CLEARONが唸りだした。体中が小さく振動しだす。手先が震える。
 でもこれは振動によるものじゃない。
 安藤は怖かった。
 言ってる意味が解かってしまった。
「ちょっと待ってくれよ、そんなの聞いてない!」
 安藤は叫んだが誰からも返事が返ってくることはなかった。
 モニターから見える光景。中央にアイーシャ。その横に伊庭焔懺。端のPCモニターが立ち並ぶ席にファウラー=アントラハイト=笹倉の姿が見える。白鳥ののの姿はいつしか見えなくなっていた。
 そしてハルカ。
 見るもの全てがただの名のあるモノに思えた。
 嘘だ―――。
「CLEARON、通常発進。起動―――。離陸線準備完了。ロック解除、目的・・・、テスト飛行。CLEARON、発射します、3秒前。」
 ファウラーに躊躇いが見られた。理由は簡単だ。安藤自身も気づいていた。もしかしたら自分が死ぬかもしれない。
 ファウラーは人殺しになる最後のラインを開けたのだ。不安がないわけがない。
 だけども時間は待ってくれない。
「2」
 ファウラーは不安に押しつぶされそうになっていた。このまま安藤が死んでしまうのではないかという不安だ。
 それでもアイーシャは冷静にいた。
 冷静に。白銀の騎士が飛び立つ後姿を仁王立ちで見ていた。
「待ってくれ、よくわからない。操作の方法なんて、俺―――。」
「1」
 時間は待ってくれない。アイーシャの焦りだった。
 安藤は状況が全くつかめなかった。理解できない。理解しようとする方がおかしいのかもしれない。
 機体が徐々に動き出す。
 表情一つ変えずに、4人の人間が安藤を傍観している。
「ちょっと、えっ?え、あ、ええええええぇぇぇぇぇぇ――――――!!!」
 嘘だ―――。
「0―――」
 短すぎる刻が、満ちた。
 ものすごい速さで離陸線を駆け抜け空に飛び出した白銀の騎士。そして一人の少年、安藤ツカサ。
 安藤が覚えている最後の景色は、高くシャングリラGate008出口、地上約1050m付近からの雄大な景色だった。
 やがて機体は仰向けになり、天高く空を見上げた。
 視界に映るものがモノクローム化する。
 嘘だ―――。
 これは悪い夢だ―――。
 きっとそうだ。なにか夢を見てるんだ―――。ダカラコンナ非現実ナ事ガ起コッテイルニ違イナイ。
 でも安藤にあったのは現実だった。紛れもない視界に移る現実。
 CLEARON内部からの何も無い景色。
 勝手に起動したモニターから映る景色。
 決してそれは安藤の視界じゃない。
 落ちる。
 落ちていく―――。
 目の前に映る光景は、ただただ太陽に向かって限りなく続いていく銀色の道を示すように聳えたつシャングリラ。
 そしてその太陽を包み込むような、空。
 青空。
 今日は曇りない素晴らしき空だ。
 美しい空がだんだん遠くなっていく。
 落ちている。
 あと10秒もすれば、この機体は地面に叩きつけられて散るだろう。当然のことだが、安藤も共に散る。消えてなくなる。
 死ぬ。
 あっけなさ過ぎる終わりだ。これからありえない現実が始まる期待と不安は一体なんだったのかとがっかりする。
 安藤は途方にくれた。
 途方にくれる暇なんてなかった。死ぬのは、嫌だ。
 死ぬときは責めて―――。
 視界にあるものが映った。
 高い空から安藤を見下ろす。CLEARONを高い空から見下ろす一人の少女。実際は見えてなかった。
 でも安藤の視界には、それが見えた気がした。
 死なせない―――。
 死にたくない―――。
 何かが共鳴した気がした。
「死にたくない。」
 無意識に安藤はCLEARONのジョイスティックに手をかけた。かかっていたのは手だけじゃなかった。
 無意識だった。
 ペダルにもしっくりと足が填まり、CLEARONが安藤の体と同化しようとしている。
 飲み込まれる感覚にも思えた。そして安藤自身がCLEARONを手なずけるような。ただ、今は、落ちていくこの重い体を必死で起こそうと安藤もCLEARONももがこうとする。填まった手足は動かない。
 このままじゃ、死ぬ―――。
「いやだ!」
 叫んだ。
 誰に叫んだのかはわからなかった。ただ安藤の視界に広がる世界は決して夢や妄想で住むようなものではない。
 一つの世界がそこにあった。
 空は遠くなってゆく。
 聳え立つ塔の大きさを改めて知る。
 そこをゆっくりと。そして速く、安藤は加速度を増して落ちていく。
「俺は―――!」
 安藤自身なんていったのかは解からない。
 記憶なんてしてるほど暇じゃない。
「クレア!」
 気づけば安藤とCLEARONは空を優雅に飛んでいた。
 低空―――。下にいた人たちは、その美しく曲線を描いて飛ぶ白銀の騎士に見とれることになった。
 目をつぶっていた。
 何も見えない世界。心臓はまだ鼓動を止めなかった。
「あっ・・・。」
 意識が、理性が、自分が戻った。
 一筋の光が差す。それは青い空へと続く道だった。
 安藤はCLEARONとともに、空を飛んだ。
 アイーシャたちは歓喜の声を上げた。
 Gate008にいた人間だけではない。シャングリラにいたMKF関連の人、それだけでもなく、ウヨキウト全体が白銀の騎士の誕生の歓喜に沸いた。
 安藤にその声は、モニターや無線音声でしか伝わることがなかったが、ただ一人の少女の歓喜と悲哀の声が聞こえた気がした。
 一人じゃない?
 安藤の脳によぎった少女は一体誰だったのか、今の安藤には解からなかった。
 ただ今は、この騎士とともに空を舞う鳥のような気分を堪能してもいいのかと思った。いつまでもこうしていたいと思った。
 安藤自身、CLEARONに惚れたのかもしれない。それはよく解からない感情だったのに、死にそうになったことを恨むこともなく。共に生き残ったことを、共に喜ぶようなこともしなかった。
 ただ、いつまでもこうしていたいと思った。
「なぁ、お前は何なんだ?クレア―――。」
 美しい空に、一点の『白』。
 寡黙を貫く孤高の白銀の騎士。こんなにも当たり前のことなのに、答えてくれないことが不思議だった。
 生きている。安藤は心でそう思った。
 安藤が歓声に気づいたのは、空を十分に駆け巡った後だった。アイーシャの声も、焔懺の声もファウラーの声もののの声も。
「良かった!素晴らしいよ、安藤君!」「すげぇぞ、お前!やっぱりクレアのシンパは別格だなぁ!」「よぅやったわぁ、すごいでぇ安藤はん!」「す、す、すごいです。安藤さん。」
 そしてハルカの声も。
「――――――」
 このときは周りがうるさすぎてなんて言ったのか、安藤は覚えていない。ただ、なんとなくだけど、とても嬉しかった。
 気分は悪くなかった。むしろ全然いい。素直に、喜ばれることがとても嬉しかった。
「これはこれで、良かったのかな・・・。クレア―――」
 相変わらず孤高の騎士はどこまでも寡黙だった。
 操作方法もわからない。CLEARONのこともまだ全然知らない。この世界さえ、まだ本当なのか解からない。
 それでも、安藤はCLEARONを乗りこなして見せた。操作方法なんて知らないのに、手が勝手に動く。
 自分の手足に、とは行かないものの、騎士が傷つかないような術が全てわかる。
 無意識の感覚。でも感覚は意識している。それがとても不思議だった。まるで自分が自分じゃないような感覚。安藤はそれにどことなく恐怖を感じていたのかもしれない。
 もし、これが本当に瑛の世界だったら―――。
 時計の針は止まらない。
 針は止められても、時は止められない。
 もう、全て始まっていた。
 ただ、今はそんな重いことを深く考えず、味わったことのない鷲のような空を飛ぶ感覚を味わうことにした。
 ウヨキウトの町並みは綺麗だ。円形にきっちりと整備された街が永久に続いているような形をしている。
 でも、果てがあって。それでも水平線のように果てがない。
 妙な感覚だ。
 気持ち悪いはずだろう。
 だけどこの時はすごく気持ちが良かった。
「クレア。」
 一言安藤はCLEARONに声をかけて、慣れない操作、でも全てわかっているような、まるで自分のように孤高の騎士を扱い、空を飛ぶ。空を駆ける。
 今、風になる―――。
 ハルカと一緒にラウム零に乗ったときと同じ感覚だった。
 速くて、怖くて、不安で、わくわくして。溢れる好奇心をとめることができない。どこまでもこうしていたい。
 シャングリラの周囲では、ただただ一人の騎士と一人の少年が、無垢に楽しんでいる光景が映っていた。
 空を舞っていたときの事だ。安藤は一つさっき落ちていったその後のことを思い出した。変な夢の話だ。
 落ちていって、死の淵まで辿って、視界に映るすべての世界そのものが真っ暗になったときのことだ。
 この時だったのだろうか。走馬灯ではないが、ひとつこの短い間に、不思議な夢を安藤は見た。
 音楽を作っていたときの話だ。モノクロの色すら表現できない音たちに、美しい色彩を与えてくれた一人の少女の夢だ。

   *   

「やっぱりツカサは美しいわ。」
 遥か上空シャングリラGate008で、ハルカが感嘆の声を上げた。ハルカは白銀の騎士が優雅に舞う姿に見とれていた。子供らしいハルカが、さらに子供らしく。でも、どこにも無邪気さのない温かい目でも、安藤とCLEARONを見つめていた。
「これが彼なのかな。不思議なもんだねぇ。どんなに万全を期した状態でも、誰も乗ることの出来なかったクレアをこうも簡単に乗りこなされると少し製作した方としては悔しい面もあるんだけどね。」
「それじゃぁ意味ないじゃないですか。それに、クレアに乗れるのはツカサだけじゃないですよ、アイーシャさん。」
 アイーシャの率直な感想にハルカが反論した。
 アイーシャもそんなハルカの目線から何かを察した。ハルカの目に映っているのは、決して安藤と、CLEARONだけではないこと。
「そうだね。『彼』もそうだったね。でも、彼はそれで大きな傷を負った。そう考えるとあの子は素晴らしいね。美しいよ。」
「はい。とても・・・。ツカサは―――。」
 ハルカは世界を見ていた。
 飛び舞う白き騎士と、世界。その存在だけで目が霞んで潤って満たされて滲んでいくはずなのに。
 ハルカは高い空に立ち尽くした。
 上空1050m(標高的には1100mくらいにはなるのだろうか)に吹き付ける風は冷たい。
 またしても冷たい風がハルカを浚っていく。
「うん?どうしたんだい?ハルカ君。」
「いいえ、なんでも・・・。なんでもないです。」
 アイーシャの目には、遠くを憂いて見つめるハルカが映っていた。
 そのハルカの肩に焔懺が手を置く。
「たまげたもんだな。アレが安藤ツカサって奴かい?お前もよくあんなの連れてきたなぁ。これでなんとかなるのかぁ?世界は。」
「焔懺。私のことは名前で呼んで。何度もそう言ってる。それから世界はなんとかなるとかそう言うんじゃないんだよ。私たちが守るの。絶対に。でも、私たちが弱いから・・・。ツカサがいるんだよ。」
 感動を壊されて半分苛立ちを覚えるハルカを宥めるように、白鳥がそっと後ろから近づき、微笑みながら率直な感想を言う。
「で、でも・・・。た、確かにすごいです。CLEARONが、あ、ええっと、あんなにも楽しそう。ほっ、本当に鳥み、みたいで・・・す。空を、飛んでる―――。」
「それは、違うんじゃないかな。」
「えっ?」
 でもハルカは白鳥とは違う意見を返した。
「空を飛んでるんじゃないんだよ。風になってるんだ、ツカサは―――。」
 しばらく全員が黙った。楽しそうに空を飛んでいる安藤とCLEARONの姿を、高い空からじっと見つめていた。
「彼に似ている。いや、似ているに決まっている。」
 沈黙を破ったのはアイーシャだった。時間がないことを一番知っているからなのか。急かしたつもりはない。
 ただアイーシャは、このまま安藤の姿に見とれていると、そのままありえない時間が経ってしまうような気がしたからだ。何の根拠も無いし、いつかは飽きてそれぞれの場所に戻って戦うはずなのに。
 それほど見とれていたのか。
 アイーシャ自身、わからないことだらけだった。トップの地位にいる自分の無知さを知るのが、これほどまでにワケのわからないことだということから、安藤とCLEARONの力を知っていたせいかも知れない。
 でもそれは、その姿がとある一人の人物に似ていたからだ。
「ツバメ―――。」
 ハルカが名前を呟いた。あの時の黒き勇者にどこまでも似ていた。反転・反響・反駁する白と黒。Black & White. 白和K. Bianco e Nero. Weiß Schwarz.
 美しすぎてまた涙が出そうになる。
 すると、もう決まっているように、涙を吹き飛ばし、目を劈いていく風が吹きしめる。
 しばらくまた沈黙が流れる。誰も話さない。何も聞こえない。風の音と、どこから聞こえてくる機械の動く音。
 それだけ。日曜日の午後みたいな、そんな沈黙。でも、うるさくて、うるさくて、うるさくてしょうがない。心臓は高鳴り、ありとあらゆる興奮と好奇心が溢れそうで。止まらなくて、それがとてもわずらわしい。
 うるさいなぁ―――。
 それを終わらせるうるさい沈黙が来た。
 突如Gate008に緊急のサイレンが鳴り響いた。実際にはサイレンじゃなく、ただの内線だったが、その音がハルカとアイーシャには普段よりも音が大きく響き、どこか警告音のように聞こえた。
 Calling…
「元帥、佐藤管制航空指令指揮曹長より連絡です。」
 ファウラーがモニターの方から大きな声で叫んだ。
 アイーシャは、モニターの方に走って向かい、緊急の連絡を取った。
「アイーシャだ。」
「元帥。やはりそこにお出ででしたか。よかった、繋がりました。総長に引き継ぎます。失礼します。」
 電話の相手は焦っているようだった。必死に元帥の居場所を探している。どうやらアイーシャが自分の場を離れていたことは知られていなかったらしい。アイーシャは携帯電話を最上階の元帥室に置き忘れた自分が情けなく思えた。
 元帥として、不完全すぎる。自分がこの地位にあるのも、能見瑛のせいなのかと、悔やむほどだった。
「引き継ぎました。清原です。」
 連絡の元の相手は、シャングリラ航空管制室の清原管制指揮長だった。
「管制がどうかしたか?」
「1時間ほど前、日本領グアム島上空で未登録飛行機を確認。人工衛星『フォンクフルート綺羅星』の衛星写真から察するに、高速でこちらに向かっている模様。Σのものと思われます。メルキルフレームが一体も見当たらないことから遠隔操作でのテロ的攻撃かと。シャングリラ目的でない可能性もあります。仮にシャングリラへの攻撃だとしても、ラストシールドに担わせるのは―――。」
「そうだな・・・。敵の数は分かるか?」
 ハルカはやり取りを見ていた。
 話している二人は気にしていることがある。それはシャングリラだ。シャングリラという要塞だ。
 平和の象徴、白い巨塔、不壊の島、楽園。メディアや世間ではそういわれている創られた平和。
 正確に言うと創られている平和。
 誰も知らない。この世界の人は、自分が能見瑛という一人の少女の上で踊らされているということなど、これっぽっちも知らない。創られた平和に踊らされ、揶揄われ、弄ばれ、冷やかされ、嗤われ。そうして無知のまま散っていく。知っているのはこのシャングリラだけ。この巨塔はこの世界の人の命を吸い取って聳え立つ。
 でも、この世界の唯一の希望。そして絶対的な守護神。世界が終わらないために永久に立つはずの巨塔。
 それが、とある一人の人間リ・アルの中年の男性が、とある一人のリ・アルの若い少女の世界が存在し、それが自分たちの世界を壊しかねないと知ったために、聳え立つ塔。飲み込まれるようにその男はシャングリラに引き込まれ、絶対的な守護を約束された。
 それを知っているのは、シャングリラの“上の人” だけ。
 また、泣きそうになる。
 その中、アイーシャらは尚も会話を続ける。これは世界を守るため。覚悟を使命に結びつけるため。
「まだ確認の最中ですが、恐らく20機以下であると思われます。機体は攻撃機nEUROnである可能性が高いかと。」
「ニューロン?そいつはまた古い機体を。10年くらい前のものじゃないか。」
「旧式の中東紛争敗戦国の破棄戦闘機から盗まれたものであるかと。」
 少し悩んで、判断のミスがないように答えを出す。元帥になる前からも失敗しないように続けている指示。アイーシャは人に指図するたび、その判断が間違ったものじゃないか迷ってしまう。
 覚悟ゆえに。
 位置ゆえに。
 自分の背負うものが大きい。
「そうか、わかった。策は打つ。無人機対戦には慣れている。MKFの力を見せてやりましょう。それが我がBWFZOですからね。敵機の確認を急げ。」
「了解しました。」
 でも、この世界を守るのは、アイーシャ、そしてこのシャングリラにいる全員であることを知っている。アイーシャの目はいつもこの時は真剣になる。鋭い目。いつもの調子とは違うアイーシャ。
 そんなアイーシャを近くでずっと見てきたハルカ。でも今日はなにかに震えている。怖がっている。どうか分からないけど、ハルカはそんな気がした。
 清原とアイーシャの会話はそこで途切れた。
 Ring off…
「おいおい、そんなことってあるのかい?参ったなぁ。」
 アイーシャはいつも異常に緊張していた。そして指示し終えた後もその緊張はほどけなかった。
「アイーシャ?」
 ハルカがアイーシャの不安定な表情を覗き込む。
「敵、だってさ。よりによってこんなときに。でもグラスホッパーじゃないからね。Σも何を考えてるのか全然分からないや。」
 アイーシャも調子が狂った。いつもはこんなはずじゃないのに、どうしても今日は不安定でしょうがない。
 ハルカは全てを知っているのだろうか。終わりが見えているのだろうか。
 自分はここにいて、この世界を守っていて、この世界を創った人物に抗っていて。人が死ぬのもなにもかもを見てきた。さまざまな兵器、戦闘機、そしてメルキルフレーム。ここにあるものは幻想でもなんでもなく現実だ。
 分かっているのに、アイーシャは不安に押しつぶされそうになった。今日だけは。ただ、あの優雅に舞う白き騎士が。
「ハルカ、行ってやれ。大丈夫だ、今日は君のゼロの相手にしては弱すぎる敵だ。無人攻撃機らしいからそこまで背負うものも無い。君の戦いを、覚悟を、彼に見せてやってほしい。私たちはこんなもんじゃないんだと。」
 アイーシャにとって自分が出来ることはこれだけだと思った。後は遠くから指示を出し眺める。
 本当は違うことくらい分かっている。戦わない奴に正義を名乗る資格はないといったのは自分自身だ。
 何よりそれを座右の銘としている。
 でも、この白き騎士と黒き巨兵を見ているだけで、その思いがひれ伏しそうになる。終わってしまえと投げ出したくもなる。ただ、約束だけは―――。
 守らなきゃいけない約束がある。
 ハルカはアイーシャに向かって一敬礼する。
「わかりました。―――行きます。」
 そういうとハルカは、高い空に向かって走り出す。
 CLEARONの飛び立ったゲートから飛び出し、ハルカは一人空を舞う。
「それっ!」
 ここは上空1050m、この行動は非常に危ないことだ。
 端から見れば、可愛らしい自殺者だ。こんなひどいことはない。でも、ハルカは離陸線のあるGate103に行くことも無く、“ここ”から飛び出た。
 ハルカは落ちていく。
 空へ舞い上がると同時に、ものすごい重力加速度を受けて下っていく。
「ゼロ!Taken in you!!!」
 そして叫ぶ。
 大切なハルカの友達。
 黒き巨兵が青い空からハルカ目掛けて飛んでくる。黒き巨兵は、落ち行くハルカを手で救い上げると、胸の中の操縦席にハルカをいざなう。
「まったく、ハルカ君って子は・・・。危ないからやめろと、あれだけ私が言っているのに聞きやしない―――。本当にゼロが好きなんだねぇ。安藤君にも、早くそうなってもらいたいもんだ。」
 ハルカのこの行動は前にも良く見た。ゼロに近づくたび、また力を増すハルカ。ゼロもハルカが近づくたび、力を上げた。
 どんな抵抗があろうと関係のない天使のようなハルカにアイーシャも一人のシンパサイザーとして嫉妬していたのかもしれない。パイロットスーツも、滑走路も、恐怖も要らないハルカに、どこか―――。
「ははっ、勝てないなぁ・・・。何もかも。」
「ど、どうしたんですか?アイーシャさん。」
 妙な表情が気になったのか、ののがアイーシャに話しかけた。
「いいや、なんでもないよ。なんでもないんだ。それより制服のまま搭乗するのもどうかと思うんだがね。パイロットスーツに着替えたりしないのかねぇ、あの子は。第一ここからスカートで飛び降りたらパンツ丸見えじゃないか。そうだよね、白鳥くん。」
「あ、あ、あい、アイーシャさん、ふ、ふきんしっ、不謹慎です・・・。」
 突然のフリにののは動揺した。
 でもアイーシャは、冗談をかましてないと情緒が壊れてしまいそうで震えていた。冗談なんか言っている暇なんてないことくらい分かっているのに。
「で、でも、さっき、あ、安藤さんを私服のまま、下に、お、落としたのは、その、どこの誰ですか。も、もう。」
「ははっ、そういえばそうだね。白鳥君。そっか、ははっ。笑える。私も馬鹿みたいだね。何を考えてんだか。まぁ、笑っていられるのもここまでだね。伊庭。お前も後方援撃としてあいつらをささえてやれ。」
 理解した全てを、迅速に。アイーシャは心の底で“あの時”と同じように、自分の中で誓いなおした。
「はっ。わかりました。元帥!」
 伊庭もハルカ同様、アイーシャに向けて一礼をし、ダッシュ並みの駆け足で、CLEARONの出動用滑走ゲートを飛び出していく。
「さて、私が仕事をする番かな。まだ、私は前線には出れないようだ。主役はどうやら彼らのようだからね、ファウラー。」
「はい。」
 ファウラーは、なにかを察したように頷いた。ののも今アイーシャが置かれている『場所』は重々理解している。ここにいる人だけじゃない。ハルカも霧島もエルシィも焔懺も管制室の人もシャングリラも。そしてツバメも―――。
 ようやく、始まった。
「管制室へ、TV内線を繋げてくれ。清原のところで構わない。」
「了解です!」
 慣れた手つきで、電子キーボードに連絡のための暗証キー打ち込んでゆくファウラー。いつものように焦らず丁寧に仕事をこなす。
「こちらアイーシャ。このテレビ内線を軍区連絡線管制、それと直接ゲートのメインモニターにもすべて繋げてくれ。ここから指揮を取る。」
「わかりました。繋ぎます。」
 モニターの向こうでは、UCAV(無人航空戦闘機、Unmanned Combat Air Vehicle.の略。現在の場合ではΣの戦闘機体を表す)の衛星からの通信、抗戦に向けての対策でごったがえしている声が響いてくる。
 画面の向こうにいる清原は、落ち着き迅速に行動する。やがて、画面にShangri-laの文字が現れる。
 全通内線のしるしだ。
 その文字を確認すると同時に、アイーシャは通信マイクを片手に取り、メリハリの利いた声で叫ぶ。
「いまから私が指揮を取る。前線にはハルカを行かせた。後方援撃として伊庭に出撃してもらう。Gate020、ヴェナヘイムの準備を早急にしろ。そちらの情報で現在すぐにでも出撃可能なシンパサイザーを招集ください。今現在の状況から一般機の出撃はなしにします。軍防省にも連絡を。」
 全通内線。
 忙しい戦闘時の“上の人々”の戦い。
「こちらGate012、ルエリ一等整備です。アンルーフェ。出動可能です。ファルケの到着次第出撃可能ですがどういたしますか?」
「後方線での防衛としてすぐに発陸させろ。ラインは私が直接指示する。敵は一方向からのテロ的攻撃として抗戦、処理する。Gate003とGate099、応答願う、フリューゲルとエールデの調整も行っておいてくれ。」
「こちら横山管制航空指令指揮二等、敵機と思われるものは太平洋東南東よりイキョーエ、ウヨキウトに向けて接近。予測到着時間は25分以内であると思われます。」
「Gate003、准級整備の黒田です。フリューゲルですが、ウィング外縁部と右腕上部脇下部位との摩擦が見られ、現在調整中です。それから霧島大将は現在エルドラードの高等裁のほうにお出向きで・・・。」
 次々に入る連絡。モニターの画面は一気に集う覚悟の山で埋め尽くされる。ここにいる全ての人間が世界を守ろうとしている。
 当然、アイーシャもだ。
「―――わかった。仕方がない。Gate003からの出撃はなしだ。」
「准級整備スコットです。Gate099、エールデ出動可能。クレーエは恐らく宿舎階かと思われます。連絡をフォードに取ってもらってます。クレーエ到着次第出動します。」
「了解した。一度全ての回線を切る。」
「全通内線切ります。Ring off…」
 こなした。でも、アイーシャは最後まで納得できなかった。今まではこれでよかった。これが正解だった。
 ただ今日だけはどうしてもうまく出来ない。下との疎通も取れている。なんら問題ないはずなのに、どこか調子が狂う。ファウラーもののもアイーシャの様子を見るに、どうも妙な感覚がした。
 アイーシャは戦っていた。一番上の人間としてできること。普通なら切り込みとして前線で戦うのが格好はつくし、アイーシャもそれを望んでいる。ただ、それは“今”じゃないことをアイーシャは既に知っていた。
「ファウラー、もう一度清原に。連絡を。」
「はい。」
 Calling…
「清原管制指揮長。開閉中のゲートを全て閉めろ。R56、55階とR3からR1階のゲートは除く。エールデは整備官とクレーエの疎通が取れ次第、順次開閉、シャングリラおよびウヨキウトの最終線に向かうように仕向けろ。」
「御意―――。」
 Ring off…
 行動は迅速。
 それはBWFZOが決めた、全ての鉄則。そして約束した安藤の父親、正弘との大切な約束の一つでもあった。
 政府機関であり、非国家機関BWFZO、そしてシャングリラ。やがて下からゲートが閉まっていき、白い巨塔があちこちで揺れだす。もちろん揺れているわけじゃない。シャッターの閉まる音が響き渡っているだけ。それだけなのに、まるで一つの生き物のようにシャングリラが唸るようだ。
 平和。理想郷。それがシャングリラ。そうすることを、世界が出来てしまった当初から決められていた。
 世界の創世神に抗うための、地。そして二つの世界を守るための、砦。そして二つの世界を繋ぐ、橋。
 Die Welt ist Linie.
 傲慢な話だ。
 Die Welt ist Roman Du und ich.
 そんな世界に成り立つ平和、不完全すぎて今にも壊れてしまいそうな平和。まとまらない平和。
 そこにまたそれを崩そうとするものがいて、それでこの世界は幸せなのだろうか。
 後にはもう戻れない。
 解かっているからアイーシャは前に進む。迷わない。後は白銀の騎士の大いなる声援を待つのみだ。
「さぁ、見せてもらおうかな。安藤君。君とクレアの力を。どれだけ君が、壮大であるかを私に見せておくれ。」
「あ、あ、アイーシャさん・・・。」
 ののが不安そうにアイーシャを覗き込む。
 アイーシャは、いつの間にかモニターから離れ、高い空から舞う白銀の騎士と黒き巨兵を臨んでいた。
「あぁ。白鳥君。君は今日はいいよ。この前はベトナム反逆で大変な思いをしたばかりなんだから。アビスも休ませておやり。」
「あ、あの、そぅ、そうじゃな、なくて・・・。」
 もじもじと、恥ずかしそうにしながら、言いたい言葉をまとめようとするが、うまくまとまらない。
 ののは喋ることが苦手だ。
 シャングリラ。BWFZO特務シンパサイザー。“ここ”にいる人物は皆、闇を抱えている。
 白鳥ののにもとある事情があった。そして闇と共に生きるためには、同時に障害も出てきてしまう。
 それがたまたま、ののは、口下手になってしまうということだった。これでも昔よりは何倍もマシになった。それは白鳥ののにも白鳥ののの友達がいるからだ。やがて輪は広がり、ののは話せるようにはなった。
 ただまだ少し苦手。いつもは頑張れと待つアイーシャだったが、今回は別だった。緊急事態だった。
 アイーシャはののの言いたいことを察してやった。洞察する力。アイーシャの最も得意とする点だ。
 でも、今回については、アイーシャでなくてもわかっただろうとアイーシャ自身思った。
 簡単だからだ。
 CLEARON―――。
 一つアイーシャは、薄ら笑いを浮かべ、一つ咳をして、話し言葉をまとめて、迷っているののに返す。
「うん?あぁ。やっぱり君も彼らのことが気になるかい?そうだねぇ。今日はいつもと違って攻めて来る敵機も少ない。単純にΣの悪戯に過ぎないだろう。こんなことでアイツは貴重な機体たちの無駄遣いをしないだろうからねぇ。」
「それじゃぁ・・・。やっぱり・・・。」
「なぁ、白鳥君。分かっているならわざわざ杞憂することはない。見ようじゃないか。彼の存在がこの世界にとってどんなものであるか。」
 ののもアイーシャも。横で話を聞いていたファウラーでさえわかる話だ。
 Σも同じ。そしてΣもこの逸した空気を遠くから察したのかもしれない。もうずっと前から気づいていたのか。
「ねぇ、白鳥君。一つ賭けをしないかい?」
「はい?」
 突発的なアイーシャの発言に、またもののは驚いた。
「彼は・・・、安藤ツカサ君はハルカと能見瑛のどちらを選ぶと思う。私は思うんだよね、世界の生き死にを決めるのは、能見瑛じゃなくて、彼なんじゃないかって―――ね。どうかな?白鳥君♪」
 ののは悩んだ。これが一体どういう質問なのか、わかってしまったからだ。悔やみたくなるくらい悔しい質問だ。苛立ちを覚えるほど。でもそれを言葉に出来なくてもどかしい。そうすることに誘導しているのかもわからない。
 ただ、白鳥ののは思ったことを率直に伝える人だ。
「い、いゃ、嫌な、か、賭けですね。―――おります。」
 でもののはハッキリとした答えを出さなかった。
「つまらないじゃないか。まぁ、これも私の憶測に過ぎないが、この賭けが成立することは恐らくないと思うんだけどね。まぁ未来なんてわからないけど、さ。ははっ。」
 笑えてくる。こんなにも自分らが弱いことを、自分の鼻で笑えてしまう。降りられたら確信だって持てない。ただ、アイーシャはののがこの賭けに答えないことくらい、最初から解かっていた。
 賭けを振った自分だってわからない。そんな感じ。
 アイーシャは気分を入れ替えようと、高い空から、見える、もっと高い空を仰いだ。
 やがて最上部に当たるGate008のシャッターも閉まり始める。
 高い空は、灰色の鉄の扉によって、視界から消え行く。
「さて、私たちは私たちの出来ることをしよう。ファウラー。ウヨキウトに警戒放送を。TV配信に警報字幕を流してくれ。それが終わり次第、CLEARONとの通信を行ってくれ。」
「了解です。」
「あう、ずいぶんと、のんびりです、ね。アイーシャ元帥。」
「ふふっ、いいんだよ、これで―――。いいんだよ・・・、これで―――。」
 やはり様子がいつもと違うアイーシャをののは指摘した。
 アイーシャも憂いていた。やはり妙な賭けを振ったせいなのか、ただ不安でしょうがないのか。
 解からないまま、解かったフリをして、不安になりながらも答えを見つけなきゃならないこの居場所にイライラしていたのかもしれない。
 迷ってでも、遅くても、解からなくても。でも、守るものがある。
 アイーシャは一つため息をついた。
 その時ファウラーは、一人モニターに向かって、仕事をこなしていた。
「一斉放送局ですか?シャングリラより警報通告です。ウヨキウト放送線全てに10分以内に広い敷地のあるところ、または倒壊が不安にならない建造物、シャングリラへの避難を促してください。」
 ウヨキウトの町内放送や、TV局への字幕放映指示など、状況に応じた対応を順々にこなしてゆく。
 やがて、画面には、たくさんの単語が羅列されだす。
「TV局字幕緊急事態避難勧告。確認済み、帝國放送、さくら野テレビ、Vjokeft Station、テレビ夕焼け、毎朝テレビ、アライヴ放送、JAPAN MIX TV、AAA放送、帝國放送衛星、世界通信社、WORLD LIVE RePORT、Erde on JPN、帝國放送地方局関東東海常磐太平洋北陸地域、での配信を確認しました。それから管制室より情報です。機体はやはりnEUROn、機体数はまだ不特定ですが16機である可能性が高いです。予定到着時刻は、10分から12分程度という数値が出ております。」
「ご苦労、ファウラー。」
 時間にしてわずか40秒。
 アイーシャは嬉しかった。そして哀しくなる。自分の下で働く人間は、こんなにも自分の指示に迅速かつ的確に対応をしてくれている。一人ひとり、覚悟を抱えている。ただアイーシャはその中で、ただ一人の騎士を見ただけで。厳密に言うと、強い覚悟をもった、強い闇をもった人たちを見て、一人不安になっている自分が情けなくなった。
「これじゃぁ、元帥として失格だな。」
 嘲笑って、無力さを知って。
 それでもやらなきゃいけないことがある。
「約束を守るよ。―――正弘。」
 迷いは、捨てた。
 透き通る感覚に、アイーシャの脳は満たされていく。先の見えない混濁の水面を、純潔の足が踏みしめていく。
 美しくて醜い自分を浮かせて、沈めて。アイーシャは歩く。
「ファウラー、通信切り替えだ。音声通信をCLEARONに直接繋げてくれ。」
「了解です。」
 ファウラーは、そんなアイーシャを見て、なぜが涙腺の奥から涙が出そうになった。理由はわからない。
 ただ、今は涙を流している場合じゃない。
 そう思いながら、ファウラーはCLEARONとの通信を取る。
 Calling…
 連絡するときの電子音が響き渡っていく。そういえば安藤はモニター通信の取り方など知っているのだろうか。
 いや、大丈夫だろう。彼なら。
 大丈夫に違いない。
「聞こえる?安藤君。」
 Calling…

   *

 街が騒がしくなる。
 安藤は上空からの街の変化を察していた。なにかが聞こえる。街の人はその放送を聞くや否や、建物の中に入っていき、安藤の視界に入る人々の姿は疎らになってゆく。先ほどまでは、蟻の大群の如く溢れていた人が、やがて識別できる程度に減っていき、ついには人は地面にほとんどいなくなった。
 シャングリラには直接モノレールが建物内に喰い込んでいる(正確には限りなく近いところに隣接しているというのが正しいのだろうか)。わずかなガラス天井の隙間から、たくさんの人が空を見上げているのが見えた。
 安藤はCLEARONと共に空を見上げた。
 高い空からは、漆黒を帯びた大きな兵が降りてくる。
 Calling…
 CLEARONのモニターがチカチカと光りだす。連絡どうとればいいかとか、そういうことがどうすればできるかなんて解からない。
 安藤は何も知らなかった。それなのに自分はCLEARONという何も知らないものに乗っている。
 こいつは一体何なんだ?
 世界を救う。そんなアバウトすぎて何も見えない大それたことを言われても、納得がいくわけがない。
 Calling…
 それでも連絡を迫ってくるピピッという音は鳴り止まない。
 うるさいと思って、モニターに手を触れた瞬間、連絡が取れた。目の前にハルカの顔が現れた。
「よかった、繋がった!」
 これは偶然の産物だ。どうしようもなくて、たまたました行動であったにもかかわらず、安藤は心の中で興奮していた。嬉しくてしようがなかった。
「ツカサ、大変なの。」
 安藤の喜びとは裏腹に、ハルカの声は焦りの色だった。
「どうしたの、ハルカ?」
「あのね、ええっとね・・・。」
 その時、画面の端にまたもやCallingの文字が出現した。
「聞こえる?安藤君。」
「はい。聞こえます。アイーシャ。」
 知らないうちに安藤はアイーシャのことをアイーシャの望む形で呼んでいた。まだあってそう時間も経っていない。それにアイーシャは安藤を危うく死に導こうとした張本人だ。それなのに安藤は何の障害もなく、この状況で親しさを感じさせる呼びかたをアイーシャにした。恨みも憎しみもまだまだあるはずなのに、そんなことを思い出すこともなく、普通に話せてしまっていた。
 すべてCLEARONが忘れさせてしまったということなのかは安藤にはよく解からなかったが。
「ツカサ、敵がね、Σがね、攻めてきたんだよ。」
「えっ?」
 ハルカの言い方が大雑把過ぎて理解するのに戸惑った。わかったことは敵がここに近づいているってことだけ。
「全くハルカ君は、それじゃぁ安藤君が理解できないだろう。」
 あきれたのか単純にハルカのあたふたさが可愛かったのかわからないが、アイーシャは間髪いれずにハルカを注意する。
 そして画面に映るアイーシャの視線が言い終わると同時に鋭くなる。
 簡潔に、簡潔に。安藤に説明をしていく。
「初陣だ。先ほどは本当にすまない。見とれてしまったよ、君に。本当にありがとう。美しいよ、本当に。ただまた君に謝ることがあるんだ。ただ、聞いて欲しい。Σの連中が攻めてきたんだ。といってもそこまで大きな敵じゃないんだけどね。ただ敵は敵だ。私はシャングリラとウヨキウトを守る身として絶対にこれを防がなきゃいけない。ただ、今シャングリラ内のシンパサイザーたちにもいろいろ事情があってね、すぐには出れない。だから君に戦って欲しいんだ。」
「ちょ、ちょっと待ってください。そんな。俺・・・、俺、操作は出来たけど、これもどうして出来たのかわからないし、ましてや戦い方なんて分からないです。」
「敵の数はまだ分からないけど16だという報告が出ている。メルキルフレームではなくて、無人の戦闘機だ。命不知につっこんでくる。前線に出て戦闘するのは、ラウム零だけだ。もちろん後方で援戦・抗戦はするが、極力敵をシャングリラ遠い位置で墜としたい。市民に不安はかけたくないからな。でもハルカ一人じゃそれに対応するのは難しいし、ハルカにも大きな負担がかかる。君の力が必要だ。」
「で、でも・・・。」
「お願い、ツカサ!」
 結局、最後を押した一言は、ハルカの一言だった。
 ハルカに出会ったあのときに、もう全て決まっていた。ここにだって戦う覚悟をしてきたと、安藤は思い出した。
「う、うん。戦う。戦います。わからないけど、戦える気がする。こいつとなら、クレアとなら、戦える気がする。」
「感謝する。本当に感謝する。ありがとう。」
 アイーシャは安堵した。そしてありえないくらいの好奇心に満ち溢れた。
 ようやくCLEARONの戦う姿が見れる。CLEARONの本当の姿を見ることが出来る。それが嬉しくて嬉しくてしょうがない。
 それとは反対に、安藤は不安に満ちていた。
 でも不安だけじゃなかった。正義感も興味もあった。そしてハルカと一緒に戦える。そんな感覚が安藤の脳内を駆け巡っていく。
 混濁にまぐあいあう感情。ねじれて乱れて複雑に均等に交わってゆく不思議な感覚。
 それを別々に分けようと。不安を消そうと―――。
「でも、操作方法なんて、俺、分からないです。」
「でも、君は現にあの状況で飛んだ。意識するんだ。想像するんだ。君になら出来るよ。どうせ説明をしたところで、君には意味のないことだろうから。」
 アイーシャの言うとおりだった。
 聞かなくても、何となく出来てしまう気がした。あまりにも傲慢で 愚昧。かつ酷すぎる感情だっていうこともわかっている。それをハルカや他のみんなが認めてくれるなんて思っていないし思って欲しいとも思わない。
 安藤は、ただ自分の位置がそうなることを避けているだけのために、そんな理由をつけて聞いていることに気づく。
 でも、不安は不安だった。
 もし、CLEARONのどこかに機体がぶつかるようならどうなってしまうのだろうとか、機体に何か物体が当たったときの損傷はどんなものかとか、あまりにも分からないことが多すぎて困る。
 不安に満たされてしまいそうになった。
「不安なんて君には似合わないし、君なら大丈夫だよ。操作方法は、ハルカに教えてもらってくれ。君の機体は―――、クレアは私のシクザールよりもゼロの方に似ているからね。大丈夫だよ。君なら。」
 アイーシャが、前のセリフに付け加えるように。でもなにか違う。ものすごい応援のエールのようだ。どこかで味わったことがあるようなそんな声援。
 安藤の分からないことを、必死で分かろうとしてくれたようなそんな感じにも思えた。
 アイーシャの掛けた言葉に安藤は救われた。
「―――はい。」
 そんな終戦前の日本兵が言うような返事が、迷いもなく喉の奥を通り過ぎていた。
 アイーシャも一つ呼吸を置く。改めて安藤のすごさに気づく。未来がこのときは見えかかった。
「いい返事だ。やっぱり君は―――。いや、なんでもない。ハルカ、安藤君を頼むよ。安藤君もハルカをできるかぎり守ってやってくれ。これは元帥としてじゃなくて、男ならやれるだろう?君ならなおさらそうだ。」
 戦わない奴に正義を語る資格はない。ただ正義以前に、守るものが無い奴に、戦う資格なんてない。
 安藤には、守るものがあるのだろうか。アイーシャが気になったのは、安藤に於ける覚悟の存在そのものだった。不安な点。守るもの。どうかそれが、この世界であったほしい。そう思ったのはアイーシャ自身だった。でも不思議なことに、自分でも無意識の内に出た言葉は、一人の少女を守ってやってほしいということだった。ハルカにとって、そんなものはいらないことなど知っている。
 だが、アイーシャは・・・。
「はい。」
「わかったわ、アイーシャ。」
 アイーシャは率直な二人の返事に、頭で考えることがだんだん馬鹿みたいに思えてきた。ありもしない不安に踊らされていては、元帥として、シャングリラを守る身としてあってはいけないことだと思ったからだ。
「近況はまた報告する。いつでも連絡を取れるようにしておいてくれ。」
「はい、アイーシャ。」
 Ring off…
 プツッっと、端の画面が消え、安藤の視界に映るのがハルカだけになった。アイーシャとの通信は切れ、ハルカとの一対一の会話になる。
 最初言葉に詰まった。
 安藤は、ありえない現実を信じたくなかった。信じることを覚悟したけど、それはハルカのためだと思いたかった。
 出逢ったときに決めた。それでよかったはずなのに、いざ戦いの前になってハルカと向き合うと、思いたくもない躊躇いが溢れ出てくる。
「ツカサ?」
 機体の中で俯いている安藤を、ハルカが気にかけて呼んだ。
「あっ、ああ。どうした、ハルカ?」
「いやっ、さぁ。ツカサがちょっと元気じゃなさそうだったから。やっぱりクレアの中だと気分悪いかな?酔ったりした。無理しないで。クレアは・・・。と、とにかく無茶な戦いはだめだよ。気分が悪くなったらいつでもシャングリラに戻っていいんだから。クレアと疎通を取りながら操作すれば、ツカサならきっとクレアも言うことを聞いてくれると思うし―――。」
 安藤は嬉しかった。なぜだろう、不安がハルカと話すだけで不思議と抜けていく。心臓の高鳴りが落ち着いて、ガタガタと武者震いをしている感じだったCLEARONさえ、落ち着きを取り戻すように静かになる。
 ハルカの心配していることがあった。それは紛れもなくCLEARONのことだ。まだハルカやアイーシャが安藤に伝えていないことがある。それはCLEARON自体がイデアであり、シンパサイザーを選ぶ。そして少しでも抵抗があると、CLEARONは暴走する。それが不安でしょうがなかった。
 そのハルカの心配とは反対に、安藤の心は異常なまでのやる気に満たされた。まだ気づかない自分の中での感情を摩り替えて高ぶらせた。もちろん自覚はない。今は瑛の世界もΣも戦争も関係なく、ただCLEARONと共に戦うことを知らないうちに望んでいた。
「で、ハルカ。どうやって、武器とか出すの?飛び方とかは、さっきので何となく分かるようになったけど・・・。」
 安藤はハルカに戦闘時の操作方法を聞いてくる。
 ハルカは複雑な気持ちだったが、答えることにした。もし安藤がCLEARONを止められなくなったり、安藤自身がCLEARONを飲み込んでしまったら、取り返しの着かないことになってしまう気がしたからだ。
 でも、ハルカは安藤を信じた。安藤がハルカを信じて戦ってくれることを誓ってくれたように。
「CLEARONの最大の武器は、素粒子と電気で構成されるライトブリンガー。簡単に言えばソード、剣のことよ。近距離線のときは本当に重要になるけど、今回は遠方の期待を狙い撃ちするライトニングギガブリザード。これもうちの科学班がCLEARONを自慢するときに、一番押していた点だよ。」
「らいとにんぐ、なに?」
 一度聞いただけでは聞き取れない。そんなことくらいハルカもわかっていた。説明には、当然ながら専門用語が食い込んでくる。まだ安藤が良く理解していないだけましだ。CLEARONと安藤には、今は感覚で戦って欲しいと思ったからだ。もし安藤が自分の意思で瑛の見方になってしまったら。
 それが一番ハルカやリ・フレクトの人たちが恐れていることだった。
 でも、今はまだ、安藤はハルカの見方でいてくれる。安藤がCLEARONの友達でいられるなら、この世界は守られる。ただどちらかに強弱が生じてはいけない。安藤が勝ってしまったら世界が崩壊する。CLEARONが勝ってしまったら、安藤が死ぬ。
 二つとも、ハルカには見たくない結末だ。
 それを、絶対的に避けたい。そう願って説明は簡単に。でも、安藤が死なないようにわかりやすく。
「ライトニングギガブリザード、だよ、ツカサ。簡単に言えば超電磁砲。両肩部位より発射できるわ。CLEARON最大の特徴が、大型武器使用時に自分が受ける抵抗、ダメージが少ないことなの。もちろん操作には、結構技術もいるけど、ツカサなら大丈夫。そんな事を心配しなくても、CLEARONはツカサを望んでいるわ。」
 今はまだ、大丈夫。ただ、CLEARONが戦闘に加わることは、この世界が出来て初の事。不安なのはリ・フレクトに棲む全ての人々全員だ。
「どういうことだ?ハルカ。」
「CLEARONは私たちの味方で、最後の希望で切り札だけど、そのCLEARONを創ったのはあなたのお父様よ。どうやって作られたかもわからない得体の知れないもの。だけどアイーシャも私もみんなあなたのお父様、正弘さんを信じているわ。そして確信しているの。世界はあなたを望んでいると。行こっ!ツカサ。クレア。あなたなら私の―――、私とゼロの速さについてこれるはず。」
 怖い。
 いつ安藤とCLEARONが叛旗を翻すか分からない。CLEARONに安藤が支配されてしまっては、最大の切り札を失うことになる。それは脅威だ。リ・フレクトを崩壊させないための絶対条件を失う。
 ハルカの手は震えていた。今は自分が安藤とCLEARONを先導するしかない。一番理想的な方角へ、世界と安藤を導かなければならない。
 そんな重々しい責任・重圧がハルカに迫っている。いつもとは違う。ハルカもそんな空気を感じていた。
「こいつってどれくらい速いんだ?だって、ハルカの・・・、ゼロだって相当早かった記憶があるぞ。」
「クレアのスピードはあなたの想像を遥かに凌駕するものだよ。もしかしたら、私もゼロも、歯が立たないかもしれない。それにツカサは後ちょっとで死ぬって時に、クレアを動かして飛んだ人よ。こんな人、ツカサが初めて。とても美しいわ。ツカサならきっと、戦闘のときも分かると思う。クレアがツカサを動かして、ツカサはそれに答える。望めばクレアはツカサの思い通りに動いてくれるわ。」
 初めて―――?CLEARONを操縦できるのは安藤だけだとアイーシャは言った。だが、今になってそれが何故だということに安藤は気づく。
 イデアは安藤以外にもたくさんいる。CLEARONのシンパサイザーがたとえ安藤しかいないとしても、そこまで完全な合致が必要なものなのか。
 一体CLEARONは何なんだ?
 安藤にまた脳内パニックの波が押し寄せた。もう少し頭のスペックが上がらないものなのかと考えてしまい、また頭の中がフリーズする。
 ため息一つ。
 洗い流せば同じこと。
 ただ、なぜだろうか。本当に分からないことがある。ハルカを見てると、そんな状況を救い出してくれるような気がする。ハルカがいったら、どんな矛盾も認めてしまう気がする。なぜだろう。
(笑える―――。)
 安藤は心の中でそっと呟いた。嘲笑してもいいのに、自分で心の底から変に笑える。全くどうしようもない。
(笑える―――。)
 そう自分を罵っていると、またモニター画面に連絡が入る。
 Gate008と画面には書かれている。おそらくアイーシャだろう。
 Calling…
「ハルカ、安藤君。聞こえるか?」
「はい、アイーシャ、聞こえます。」
「は、はい。だ、大丈夫です。」
「やはり未確認機体はΣのものに間違いない。すごい速さでこちらに向かっている。現在神集管制支塔から真東に250km/hでイキョーエ工業地帯およびシャングリラに接近。久保田ハルカおよび安藤司。ゼロおよびクレアオンに告ぐ。Bou-sou半島より20km円外の地点での全機撃墜を支持する。」
「了解しました。」
 ハルカは綺麗な返事をアイーシャに返す。
 安藤は、こんなことを自分が何も知らないうちにハルカがしていたと思うと、改めてハルカのすごさに声を奪われ、自分がまだハルカのことをまったく知らないことに失望する。こんな無知さをまた笑えてくる。
「頼むぞ、ハルカ君。ファウラー、連絡を伊庭に切り替えてくれ。」
 Ring off…
 アイーシャはハルカにそういい残すと、他の指示に移った。
「ツカサ、行こう。あ、シートベルトは忘れずにしてね。」
「あぁ。」
 二人は不安だらけだった。でも、二人とも今は何も迷うものはなかった。ハルカはツカサと世界のために、安藤もハルカのために、戦うことを胸に決めたから。このときは、戦うことに躊躇も何も無かった。
 不安はやがて自信をも奪い去ってしまう。それを知っていた二人が止まることなんて、今はありえない。
「ゼロ、行くよ!」
 ラウム零は、唸りを上げ、黒い胴体は風を切り裂いていく。
 安藤もハルカに言われたとおり、傍らにかかっていたシートベルトを手に取り装着し、そう循環に手を取る。
「クレア。お前、本当に俺でいいのか?―――まっ、言っても返ってこないことはわかってるけどさ。」
 白銀の騎士は寡黙を貫く。
 シャングリラの下層部のモノレール駅にて、とある一人の少女が、その黙ったまま空を踏みしめ、立ちつくしている姿が、雄大で美しいと心の中で思った。
 もちろん安藤は、自分が今そうなっていることなど分からない。
「行くぞ、クレア。」
 無意識に腕を振り上げ、足でサイドペダルを踏み込み、CLEARONは怒涛の速さで空中を乱舞する。
 孤高の鷲の如く、一直線に黒き巨兵目指して一直線に伸びていく。
 あっという間に400メートル以上前に行ってしまったラウム零目指して、CLEARONが描いた飛行機雲(この場合飛行機雲というのだろうか、そこのところは微妙なところだ。)が伸びていく。
 二つの平行線。空を切り裂く白き線。
 二人は敵が攻めてくるであろう、港に向かった。
「秒速150って所かな。さっそく私の想像を超えてくれたね。なぁ、ファウラー。」
「ええ、そうですね。」
 外を映し出しているカメラからの映像をGate008のモニターにて、アイーシャとファウラーは確認した。
「安藤はんのおっさんも、こないなこと想像してたやろか。」
「さぁ、どうだろうね。ふふっ。」
 あまりにも美しすぎる安藤に、言葉を奪われる。それは決してハルカだけではない。リ・フレクトが、もう安藤の存在を必要としていた。
 だが、あまりに上手く行き過ぎていることにアイーシャは気づく。これがまた全て能見瑛の想像で、全てが造られたストーリーなのではないかと改めて妙な疑念がわき上がる。
 虚しさが膨らむ。
 頭を抱えて、変に想像している自分を悔やみなおす。これがアイーシャなりの頭を冷やす方法なのだ。
 ふぅ、とひとつため息を置き、情緒を取り戻す。
 ただ世界は上手く行かない。世界は世界を守ろうとするものに牙を向く。
 Calling…
 アイーシャはその音を聞いたとき、ものすごく嫌な予感がした。妙な警告音に似ている。一つのサイレン、のよう―――。
「管制室からのようですね。なんやろ?」
 ファウラーはモニターに触れ、受話する。
「Gate008、ファウラー一等整備です。」
「元帥はいますか?すぐに報告することが。」
 管制室の横山の焦りを帯びた声が、ファウラーの耳に響く。
「変わります。アイーシャ、横山管制航空指令指揮二等からです。」
 嫌な予感がした。
 嫌な予感が的中した。
 アイーシャは、震える手でモニターの前に立ち、連絡を受け取る。
「アイーシャだ。どうかしたか?」
「大変です、元帥。敵機は16どころじゃありません。シャングリラ03番管制塔レーダーに映し出されている限り、数は50以上と想定。ステルス機のようです。フォンクフルート綺羅星からの衛星写真では確認できませんでした。全戦機未登録機種。領海到着までは後10分程度、シャングリラ内部でのハッキング行為は―――。」
「だ、だめだ!彼にこれ以上の負担は掛けれない。安藤君とハルカには私が指示を出す。伊庭君に前線に上がってもらうように再度連絡を。アンルーフェとエールデの出動も迅速にて行え!」
 異常事態だった。
(Σ、お前って奴は―――。そんなにCLEARONが気になるか。いくらなんでも安藤君にはまだ早すぎる。もし彼が死んだらどうする気だ?そこまでもお前はこいつを脅威と感じているのか?それとも、安藤君が死なないことくらい、もう分かっているのか。それとも、安藤君を一刻も早くCLEARONから降ろしたいのか。)
 いろんな妄想が駆け巡る。
 アイーシャは、今のΣの感情を察することが出来なかった。戦闘機が50機もつっ込んできたらそれは一大事だ。
 メルキルフレームの一機や二機でどうこう出来る問題じゃない。
 たとえシャングリラのシールドに突入されたとしても問題はない。シャングリラは鉄壁の要塞だ。
 決して崩壊することがないことくらいアイーシャも分かっていた。
 ただ、アイーシャにはどうしても心配することがあった。それは“シャングリラを守る『あの人』”に負担を掛けてしまうことだ。彼はもう限界が近い。それをアイーシャは知っていたから怖かった。
 不安だった。
「元帥、Gate012のルエリ整備です。アンルーフェの準備は完了しました。出動させます。」
「ああ、ご苦労だった。ファルケとの通信は君を通してくれ。管制塔の連絡を流してもらえるだけでも構わない。」
「了解です。」
 唯一の救いだったのは一人じゃなかったことだ。この状況下でも、アイーシャの見方はたくさんいた。
「ファウラー、ハルカに通信をもう一度頼む。」
「はい。」
 Calling…
 ハルカが通信に気づいたのは、既に予定された配置に着いたときだった。
「ツカサ、止まって、連絡が入ったの。」
「アイーシャからか?」
「うん。」
 ハルカと安藤は、それぞれが有する巨体を空中に静止させ、立ち尽くす。
 安藤は知らないうちに相当な技術力を有する空中静止を既にマスターしていた。全部ラウム零の、ハルカについてきただけだった。
 安藤はと全それを知らなかった。
 ハルカも最初の運転で止まれなくなってしまうのではないかと安藤のほうを見て様子を見たが、白銀の騎士は何も寄せ付けないような空気を放つように垂直に美しく佇んでいる。
 はっ、と連絡が来ていることに気づく。やはりCLEARONはなにかを魅せる。MKFを直に触れ、見慣れてきたシンパサイザーさえ硬直させてしまう。
「ラウム零、ハルカです。」
 連絡をくれたアイーシャの口調は焦っていた。息づかいが荒い。
「なにかあったの?アイーシャ。」
「大変なんだ。管制がこんなギリギリまで気づかなかった。私の失態でもある。本当にすまない。敵機の数は16なんかじゃない。まだ不特定だが50はあるとのことだ。衛星のレーダーには映らない戦闘機のようでね。本当にすまないと思う。伊庭を急いで向かわせたが、早くても敵の到着と同時に、そっちに着く形となりそうだ。君一人に責任は押し付けられない。くれぐれも気をつけて。」
「待って、アイーシャ。つまり、どういうこと?」
「敵機は予測の3倍の数だ。君たち二人じゃ抑えられないかもしれない。でも安心して。シャングリラまでは、ただの機体じゃ入ってこれやしない。」
「だ、だめよ!だって、シャングリラは・・・。」
 ハルカも知っている。心配することがあった。
 創られた平和の象徴、シャングリラの存在意義―――。
 ただ、今はそんな事を気にしている暇はなかった。ハルカは若いがこれでも何度も戦いを繰り返してきた人だ。
 戦況の理解は慣れている。ハルカ自身、その自覚を持ってBWFZOの一員として戦っている。
 ただ緊急事態だ。相手は格下の戦闘機だとしても、50機もの敵と向かうのは初めてのことだ。ハルカもそのことで手が震える。怖じ気づきそうになる。
 アイーシャはこの状況からに、今すぐにでもハルカや安藤のところに駆けつけるべきだと思った。
 覚悟の仕方はいろいろ。妙な感覚だった。自分の守りたいものは一体何なのかと、安藤と同じで、また分からなくなる。
 でも、今は間違っていない行動を起こすべきだ。
「私も出る準備をする。それまでは君たちに任せる。極力多数機の殲滅を命じる。」
 それまで、何とか持ちこたえて欲しい。
「それからもう一つ。」
 そんな願いをこめて―――。
「絶対に、死ぬなよ。それと、安藤君は絶対に守ってやれ。彼は、私たちの絶対的な希望だから。」
 アイーシャの最大の望み。それはありふれた楽しい平和が崩れないで欲しいこと。変わらないことが尊いと、戦うたびに思うことがある。
 CLEARONがいたならなお更だった。
「了解です。アイーシャ。」
 通信は既に切れていたが、ハルカはアイーシャに一敬礼し、戦いに臨む。
「ハルカ、なんて言ってたの?」
 白銀の騎士との連絡は絶えてなかったが、幸いなのか不幸なのか、彼には伝わってなかったようだ。
「緊急事態・・・なんだ。ごめんね、ツカサ―――。どうも敵の数が16じゃなかったみたいで、まだよく分からないんだけど50くらいいるみたいなの。衛星に移らない機体みたいで、近くに来るまで管制室の人も気づかなかったの。で、でも大丈夫。ツカサには傷一つ負わせないから。」
 ツカサは切り札。
 絶対的な勝利を手に入れられるスペードのA。
 失いたくないのは、ハルカも世界も同じ。でもハルカは自分の存在がスペードのAにもジョーカーにもなれないことを知っていた。
 そう安藤を落ち着かせようとして掛けた言葉だった。償いも安心もこめて掛けた言葉。
「なにもハルカが謝ることじゃないだろ?悪いのは管制の連中なんだからさ、ハルカが謝るなよ。」
 ただ、それは想定外な返されかたをした。
「それに大丈夫だよ、ハルカ。今の俺とクレアなら、本当に何となく何だけどさ、何も怖くないんだ。たとえどんなに敵が多くても、ハルカは俺が守る。」
 悔しかった。
 いつの間にか安藤はハルカの想像をずっと超えた存在となっていた。超常とでも言うのだろうか。
 世界に選ばれた存在。近くてとても遠い存在。
 ハルカも何も知らなかった。無知―――。安藤を知ろうとして、たくさんの安藤司の存在を知って、そして知ってもらうために自分も曝け出した。
 ただ、さっきの一言も、この白銀の騎士も、安藤はやはり違っていた。
 だが、安藤にもまだ自分の力量をする術がなかった。通常から見れば、ありえないくらいの
 存在にもかかわらず、まだ自分に気づいてすらいない。
 そんな不完全な二人でも、今は出来ることがある。望みは同じ。覚悟も境遇も、空の上では同じ。
 二人は迫り来る敵を待った。
 安藤のあの言葉以来、二人に会話はない。無音のなか、炉から動力の唸りを上げるメルキルフレームの音だけが聞こえる。
 やがて事態が騒がしくなる。
 Calling…
 連絡は二人に届いた。
 二人は同時にモニターをタッチし、連絡を取った。
「管制室です。敵戦闘機到着予想時刻まで1分となりました。お二方とも、決して無理をしないで下さい。私たちも人力を尽くします。10分程度で伊庭焔懺准将よりヴェナヘイムが到着されると思います。現在は移動中。後方でもアンルーフェが待ち構えております。元帥もシクザール、失礼、バルキリアにて出動準備を整えています。安心してください。とにかく、無理をしないでくれと、アイーシャ元帥からのいいつけです。それでは。」
 管制室の人は、安藤とハルカに向けて、大きく一つ敬礼をすると、消灯する画面に吸い込まれていく。
「ハルカ―――。」
 つい、何故だか分からないが、安藤はハルカの名前を呟いた。半分無意識だった。
「なに?」
「あ、ああ・・・。なんかさ、落ち着いていられないんだ。」
 一呼吸。
 ハルカは考える。安藤が今何を聞いて欲しいか。当たり障りなく返す方法。そうやって言葉を考えて安藤に返す。
「ドキドキしてる?」
「あぁ。さっきから滅茶苦茶心臓がバクバクいってる。怖いのかもしれない。さっきから手先が震えてしょうがないんだ。でもさ、なんかよく分からないんだけど、すっげぇわくわくする。ほんとにワケわかんねぇ。」
「わかるよ。」
「えっ?」
「私もゼロに出会ったときはそうだった。乗るのが楽しくて、楽しくて。もちろん戦うことも楽しかった。こんな事言っちゃダメなのかも知れないけど、ゼロとならいつまでも戦いたいと思うくらい。」
 少し突拍子もない返し方をするハルカに驚く安藤を、ハルカはにこりと笑い返す。優しい笑顔。
「やっぱり、そんなもんなのかな。」
「きっと―――、ね―――。」
 そんなハルカの笑顔を見ると、余計にテンションが上がる。
 不思議と怖さなど、もうとっくに吹っ飛んでいた。
 ―――敵が来る。
 + Sie fliegen. キミハトブ―――。 +
 眩しい青々とした空の先に、馴染まない黒き点々がぽつぽつと浮かび上がってくる。
 + Du sind schön, durchsichtig zu sein. スキトオルヨウニウツクシク―――。 +
 やがてその数は増え続け、黒い点は鴉の大群の如く一つの直線と化していく。脅威さえ覚えるその黒々とした空を切り裂くものが近づく。
 + Der wahre blaue Himmel ist XXX. ホントウノソラハ―――。 +
 だけど、今の安藤とハルカはその脅威を寄せ付けず、跳ね返してしまう力を持つ孤高の鷲のように、逞しく佇む。
 白銀の騎士。Weiß―――
 黒色の使途。Schwarz―――
 空を颯爽と翔けていく。無数といる暗色の敵に向かって一直線に―――。

   *

 安藤は動けなかった。
 近づいたはいいものの、あまりの敵の多さに対応が出来なかった。
 右の一つを蹴散らしにかかると、後ろから爆音が聞こえ、自分の機体に攻撃を受けていることに気づく。
「うぐぁっ!」
 安藤の背中に焼けるような痛みが走る。ただCLEARONは、そんな攻撃などなかったかのように、平然と立ち尽くす。
 傷一つ負わない。
 何発も銃弾を喰らって、穴が開いたり傷がついたりするはずなのに、それでも何事もなかったように聳え立つ。
 ただ、攻撃を受けた衝撃波は多く伝わる。一機の機体がCLEARON目掛けてつっ込んでくる。
「ツカサ、エネルギーシールド!」
「えっ?」
 モニターを通してただでさえ戦闘で忙しいはずのハルカが助言する。
 聴いたこともない言葉に困惑する安藤。
 それでも敵機は止まることなく攻撃を繰り返してくる。
 爆音―――。
 やられた―――?
 白き騎士の前には黒き使途が立っていた。
 かばった?安藤はこの状況ながら、自分がハルカという一人の女の子にかばわれたことに気づいた。
 情けなさ過ぎる―――。
「ツカサ、大丈夫?」
 その間にも、多々ある敵機体は、安藤とハルカを抜けてウヨキウト、シャングリラのある方向へ突き進んでいく。
 ラウム零の大きさは、CLEARONに比べるとやや小さい。0.9倍程度の大きさといったところか。
 それなのに、その黒き使途が、安藤にはありえないくらい大きな存在に思える。小さい存在の大きさ。
 気づきたくない―――。
 尚も敵の攻撃は続く。ハルカは敵の攻撃を止めようと、後方から次々と戦闘機を墜としていく。
 多彩かつ美しい。ラウム零から放たれる黒色の敵を黙らすカービン。線形加速粒子砲とレールガンを併せ持った、ラウム零最大の武器。
 小さな機体から放たれる威力は、ありえないくらい強く、さらにスピードもある。後方から敵を追いかけ、ライトブリンガーで切り裂く。
 爆音と共に散る敵。それでも数が多すぎる。
 撃墜できたのはせいぜい10強程度。
 このままじゃいけない―――。
「ハルカ、さがって。」
「えっ?」
「まだ、終わってない。まだウヨキウトへの侵入は許してない。俺たちの速さなら、まだ抗戦できる。だから、ハルカは下がっていて。」
「で、でも―――。」
 ハルカの声が聞こえない。
 安藤は無意識の内に後ろへと突っ走り、ラウム零、そして敵機体をすべて追い越し、先ほどと同じように抗戦する体制を作る。
 ただ、さっきと違うのは、横にラウム零がいないこと。ハルカが横にはいない。
 一人―――。ただ、独り―――。
 あの時敵機体の攻撃をかばってくれたハルカ。情けなさ過ぎる自分が嫌になった。でも安藤の心に抱いていたものは違う。
 悔しさよりも心の中で安藤を押していたのは、他でもない覚悟だった。
「ハルカ―――。」
 嫌だ。
 こんな弱い自分は、嫌だ―――。
 まだ40弱もの機体数がいる。そして迷いもなくつっ込んでくる。まともに攻撃を喰らって戦闘できなくなったら、ハルカを守るとかそれど頃の話じゃない。そうなったら何もかもが終わり。
 このまま敵戦闘機をスルーしても、後援の機体たちが何とかしてくれるだろうか。でも、それじゃいけない。
 安藤は心に誓う。
 守りたいものが―――、ある―――。
「うおあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ―――!!!」
 雄たけびと共に、CLEARONの両肩部から白金色の帯が二本飛び出す。CLEARONは自分の胴体を回転させながら、帯に模様を付けていく。扇状に、ライトニングギガブリザードが炸裂する。
 広がる―――。 Fächer―――
 空を切り裂く―――。 überschwengliche Zukunft―――。
「嘘っ!?」
 突如として無力だった白き騎士からのありえない攻撃。ハルカは空を線形に切り裂いていく光の帯を間一髪で交わした。
 敵機体は、避けることもなく光の帯を浴びた。
 次の瞬間、敵の戦闘機は炎を上げて爆発した。扇状に広がった白い光は、赤い炎と姿を変化させ、黒い煙を上げつつ散っていく。
 間一髪で上空に逃げだせたハルカが、CLEARONを見下ろすと、そこには白銀の騎士とはついになる赤い鬼の姿があった。
 つばを飲み込み、恐怖を実感した。そして恐怖と隣り合わせにありえないくらいの喜びが湧き出してくる。
 安藤も、ハルカも、CLEARONの秘めたる力に惚れこんだ。
「おい、マジかよ・・・。」
 焔懺が到着したときには、もう全てが終わっていた。50もいた筈の敵機は、炎を上げて燃え盛り、塵となり落ちていく。
「ツカサ、すごいわ!」
 安藤の耳に、モニター連絡を通してハルカの声が聞こえた。
「あ、ああ。」
 だが、浮かれてよかったのも今のうちだった。
 CLEARONが暴走した。海へ落ちていく機体さえも微塵になるまで光線で蹴散らし、粉々にしていく。
「ちょっと、ツカサ?もう戦いは終わったよ。どうしたの?」
「わからない。クレアが言うことを聞いてくれないんだ。」
 ついには見境なくライトニングギガブリザードを発砲してしまう。安藤も精一杯CLEARONを落ち着けようとしたが、操縦桿が重くて動かない。さっきまであんなにも軽かったものが全く微動だにしない。
「うわぁぁぁ。」
 360度空中回転し、殺戮の光の光線が飛び散る。微塵となった敵の戦闘機を鏖し、形さえとどめぬところまで焼き尽くしていく。
「ツカサぁぁぁ―――!うわっ、きゃっ!」
 超高速で飛び交う光線を間一髪で交わす。スピードがラウム零最大の武器だ。それを持ってしても暴走するCLEARONに怖気づいてしまう。
「なんとかせぇ、安藤!」
 焔懺からの声が機体の中を響いて安藤の耳に届く。
 映像が妙に歪んでいる。音も先ほどとは違い、ものすごく聞き取りづらい。
「わからないんだ。どうすればいいかわからないんだ。クレアが言うことを聞いてくれないんだ!」
「安藤!あっ、―――うあぁ!」
「伊庭さん?」
 CLEARONとヴェナヘイムの通信が切れる。
 焔懺は、飛び交う光線が向かってきたときに、ラウム零とは違い、間一髪にエネルギーシールドを張り、辛うじて攻撃を防いだ。
「嘘だろ、たった一発、攻撃くらっただけで、こいつのシールド丸焦げにしやがった。」
 ヴェナヘイムを取り巻くエネルギーシールドは、電磁波が目に見えて分かるほど飛び散り、ボロボロになってしまった。
 通信が切れたのはこのエネルギーシールドのためだ。ありとあらゆる全ての物理攻撃をシャットアウトする。銃弾も微弱電波も、過不足なくシャットアウトし、機体を守るスーパーシステム。特に遠距離からの飛び道具には相性がよく、一度や二度でやぶられるものではない。大型のライトブリンガーなどで切り裂かない限り、簡単に壊れるものではないはずなのだ。
 ただ、CLEARONはそれをたった一発のレールガンで壊した。破壊力がいかに半端ないものかが窺える。
 ただ、今はそれ所じゃない。
 要は暴走し、敵をこれでもかというくらい殲滅しにかかっているCLEARONをどうやって止めるかだ。
 Calling…
 アイーシャから通信が焔懺とハルカに入った。
「ハルカ君、伊庭君、私だ。一体どうしたんだい?さっきからレーダーに映る君たちの動きがどうも妙だと管制から連絡があったんだが。」
「大変なんです、アイーシャ!CLEARONが暴走してるんです。」
「暴走?」
「一気に40くらいいた敵機があいつ一人によって殲滅されました。でも、元帥。あいつを止めるのはちょっとヤバイです。さっき攻撃をエネルギーシールドに喰らいました。その時一発でシールドは半壊状態に。」
 ハルカも焔懺もパニックに陥りかけていた。今までの何よりも手ごわいパニックの渦に、二人は飲み込まれそうになっている。
 アイーシャは、この状況で自分が出来る術を考えた。今から自分のメルキルフレームであるバルキリアを率いて行ったところで、最悪の場合二人が生きているかも分からない。アイーシャは専用ゲート『Gate001』にて、指示を行うことを決めた。
「今の映像を送れるか?」
「やってみます、アイーシャ。」
「頼むぞ。ノイ、映像受信を。分析の方も頼む。シクザールは今日はお休みだ。」
 Gate001にいるのは、基本的にアイーシャと、絶対的な従者であり、最高のマッドサイエンティスト兼一級整備士のノイだけだ。
 ノイはいやいやながらもテキパキと手順をこなし、アイーシャの言うとおりラウム零と通信し、ハルカが映し出す映像を受け取れるよう作業する。
「がっかりですね、元帥。」
「ぐだぐだ言ってないでさっさと動け、一大事だ。」
「分かってますって。」
 ハルカの方も大変だった。
「焔懺。とりあえず私は上空から映像を取るから、変に攻撃に当たって怪我しないでね。絶対だよ!」
「ああ、お前の方も気をつけろよ。」
「お前は禁止って言ってるでしょ。あなた、ツカサと違って学習能力ないわね。もう・・・。」
「悪ぃな。まぁ、俺は大丈夫だから。」
 焔懺は攻撃があたらないよう、CLEARONが視界から外れない程度に距離を置く。
 ハルカは300メートル程度急上昇し、高い空から暴走するCLEARONを見下ろす形で映像をアイーシャに送る。
「映りましたか?」
「へぇ、これは・・・、すごいね。」
「感心している場合じゃねぇんだよ、元帥さんよ!もしこのままとまらなくなったらどうするんだよ!」
 焔懺が、この状況にただ口を開けるしかないアイーシャに向かって叱咤した。
 確かに今、CLEARONの力に見とれている場合でないことは、アイーシャだって解かっていた。
 しかし、やはり白銀の騎士のありえない強さに見とれてしまうのは仕方の無いことだと、焔懺自身も思った。
 焔懺も最初40近くいた敵をCLEARONが殲滅させたとき、その最強の姿に見とれてしまったからだ。
 自体が硬直しかけた。
 そのときだった。
「私が行きます。」
 ハルカが口を開いた。
「私がツカサを止めます。」
 アイーシャが焦ってハルカを止めようとする。
「まっ、待て、ハルカ君。落ち着け。よすんだ。よく考えろ。今この状況で君一人で戦うのはいくらなんでも無理だ。今回は今までとは違うんだよ。力を発揮できずに暴走したクレアを抑えるのとはワケが違うんだ。力を知ってしまって、暴走した意思持つ巨大な騎士だぞ!いくらゼロのスピードが速くとも、もしかしたら勝てないかもしれないんだぞ。いくらなんでも危険すぎる。」
「ツカサを守るって言ったのは私です。約束は守らなきゃ―――。」
 ただ、ハルカの覚悟も硬かった。
 アイーシャが何も言い返せずに固まってしまいそうになったとき、後ろからノイが口を挟んだ。
「やめたほうがいいよ、ハルカ准将。今安藤君はどうやらイデア同調がなってなくて、クレアに自分自身が侵食されつつある。クレアは彼を壊したいとは思っていないよ。なんせ自分に一番合うシンパサイザーなのだからねぇ。ただクレアもこの世界の中で、自分が望まれない存在だということを知っているのかねぇ。」
「ノイ、つまり、どういうことだ?」
「クレアを止めるのは、ハルカ准将には・・・、ラウム零にはちょっと無理なんじゃないかなって言ってるんだよ。世界に望まれて戦うラウム零が、孤独を貫いてきた者に勝てるとは思えないんだよね。でも、止めなきゃいけないってのは、この状況から見るに迅速にしなければいけないことだ。ただ君ら二人だけじゃクレアは止められないよ。もう少し待ってみてはどうかね?」
 ノイの提案にハルカは賛同しなかった。
 ノイの言うことは間違いではない。この状況に置けばかぎりなく正論だ。もしかしたらこのままCLEARONが落ち着いてくれる可能性もある。
 ただ、ハルカはそれを解かっていながらも、抗った。
「嫌です。」
 ハルカの背中を押していたのは、紛れもない安藤との約束。安藤は約束したとおり、ちょっと乱雑で荒っぽかったけど、敵を全滅させ、ハルカを守った。
 だから今度は自分が安藤を守る番だと、ハルカは心に決める。
「一番怖いのは、ツカサのはずです。孤独に取り込まれてしまうなんて、そんなの私だって嫌だから。」
 怖い。
 今まで味わったことのない恐怖よりも怖い。なんていったらいいのか分からない気持ちに支配されるハルカ。
 でも、それを打ち砕いてでも守らなきゃいけないもの。
「それに、私とゼロに勝てる相手なんていません。」
 世界とか、世界を守る絶対的な切り札とか、この世を破壊させないための鍵とかそういうことじゃなく、一人の人として。
 ハルカはゼロと戦うことを誓ったのだ。
「行って来い。ただし命令は守れ!死ぬなよ―――。」
「はい。」
 Ring off…
 ハルカはアイーシャの許可が出ると同時に、繋いでてもエネルギーシールド以外には、全く戦闘に干渉しないはずのモニター連絡線を切った。
 なにかの覚悟を背負って。
「伊庭、映像はお前が送れ。頼むぞ。」
「わかりました。」
「ノイ、管制室に連絡しろ。なんとかして他の管制支塔からでも映像を送れないか交渉してくれ。」
「はーい。」
 テキパキと作業するノイを横目に、アイーシャは彼らが戦っているであろう、遠く青い空を見た。
 CLEARONが戦闘機を撃墜させた炎の煙が、遠くに見える。
 100km先の景色とは思えないほど、鮮明に黒々とした煙が湧いている。あの中にハルカや焔懺。そして安藤がいると思うと、このシャングリラの創られた平和を改めて実感することになり、そのたびに鬱になる。
 そこで何が起こっているのか、アイーシャには焔懺が送ってくれるであろう映像でしか確かめる術がない。
 ただ、さっきハルカのラウム零によって捉えられた映像を見る限り、CLEARONの暴走を若い二人によって制圧できるかというのは不安な点だった。
 指示を出す者は悔やむことが多い。
 それが間違った選択だったときに、途轍もなく大きな責任という錘を背負うことになるからだ。
「元帥、軍事防衛省の方から連絡が―――。管制から直接ここに繋ぎました。」
 ノイがシャングリラ外に本拠地を置く政府機関軍事防衛省からの連絡を受け取った。
「変われ、ノイ。あいつらには何も言わせない。」
 アイーシャは、モニターの前に立つ。
「アイーシャだ。」
「防衛省自衛艦隊空軍大将の石川です。」
「空軍大将ともあろう方が私に何かな?」
「先ほどからCHO-SHI港沖にてメルキルフレームの暴走があったという報告が入ってきたのだが、一体どういうことかね?」
「遅すぎるな。文句ならもっと速く連絡をよこせ。これだからあなたがた軍防の連中は何も出来ないのだよ。」
「耳障りですね。先ほどのΣの連中の戦闘機撃墜はご苦労だった。まぁ、対Σの時はあなたがたBWFZOの指名なのだから当たり前でしょうね。」
 醜い言い争いが、アイーシャにとってものすごく馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「まぁさっさと妙な暴走を抑えてくださいよ。もしウヨキウト以外にも、国民に被害があったらたまったもんじゃない。」
「文句も休み休み言ってもらえませんかね?海外外交すらまともに出来ずにテロを各所で起こされ、そのたびそのたびに依頼の来るこちらの身にもなって欲しいものですねぇ。だからってあなた方がその問題の某所へ行くことはやめたほうがいいですよ。死なれてもこちらは責任は取れないので。」
「ふっ、まぁ、やってくれれば文句はないので。」
 そういって軍事防衛省の空軍の石川は電話を切った。
 シャングリラBWFZOと軍事防衛省との言い争いは昔から絶えない。二つとも創られた平和の維持のためにある機関。世界の生死を賭ける『超兵器平和維持中央機関BWFZO』と、リ・フレクト全体の中の平和を保とうとする『軍事防衛省』。
 ただ、メルキルフレームを多彩に使用し、イデアという非科学的な分野に手を出しているBWFZOの軍力が幾分勝るせいか、守るべき平和が傾きかけてしまった。そうして啀み合いが始まり今に至る。
「ったく、この忙しいときに・・・。」
 こんなことでイライラしている場合じゃないことくらいアイーシャも重々理解している。ただこんなことで今いる自分の場が虚しくなる。
「イラつかないで下さいな、元帥。今はそんな奴らに怒りを向けている暇はありませんよ。見るべき相手は決まっているじゃないですか。」
 ノイがアイーシャのイライラを察したのか、慰めの声をかける。もちろんアイーシャにそんな言葉は必要ないことくらいわかっていたが、そのほうが格好がつく。
 ノイは自分が苛立ちの矛先になろうとも、この場を納めたいと思った。
「ああ、そうだな。」
 落ち着きを取り戻したアイーシャを見て、ノイは一度ほっとする。安藤正弘がこの世界に着てから、ずっとアイーシャと共にこのGate001で一緒にやってきた。だからこんな状況など慣れている。
 いつも通りのとある一環だ。
 ただ、今日だけは違う。常軌を逸していた。これもすべてCLEARONのせいかと思うと、ノイも一科学者としてCLEARONの恐ろしさを知る。
 Calling…
「伊庭君かい?」
「はい。ただいまCLEARONの位置より高度250メートル上空、350メートル西にいます。ラウム零およびハルカの位置は、CLEARONより約100メートル西南西の方向。おそらくタイミングを取っているところかと。CLEARONのライトニングギガブリザードをかわして攻撃を仕掛けると思います。」
 最悪だ。
 誰がこんなことを予想しただろうか。
 全て自分が悪い。アイーシャは自分のしでかした責任の錘に押しつぶされる。
「了解した。伊庭君も気をつけて。」
「はい―――。あの、元帥、ハルカと連絡は―――?」
 アイーシャは首を横に振る。
「連絡回線は、あの子自身が切った。私が彼女に言えることは何も無いわ。」
「そうですか。」
 焔懺は暗い顔をする。不安になっているのは、なにも自分だけではないということをアイーシャは思い直す。
 戦場に立つ彼らの方が、自分よりも何倍もの恐怖に立ち向かっているということにも、気づく。
「大丈夫だよ。そういう伊庭君も、ハルカがピンチになったときはヴェナヘイムの最大の武器で助けてあげてくれ。」
「―――わかりました。」
 Ring off…
「元帥失格だな。本当に私って奴は―――。彼らに気づかされてばっかりだ。まったく、嫌になっちゃうよ。」
「そんなことないですよ、元帥。あなたはあなたです。」
 戦う理由。
 そんなものは、考えたところで出てこない。守りたいものがあるなら、正義を持って示さなきゃならない。
 罵倒され、貶され。正義を助けるための正義とはなにか、また妙なことを問われる。ただそれが一つの疑問ならば、捨て去ってしまっても悪くはないものなのだろうか。
 考えても答えの出てこなかったアイーシャ。結局、この場で出た答えは、答えを出さないということだった。
「そうか。ふっ、それもそうか。ここで考えていても仕方の無いことだ―――。ノイ、映像を出力しろ。」
「了解です!ただいま受信中です。そろそろ・・・あ、着ました。伊庭焔懺准将、ヴェナヘイムよりタウゼンスコープ経由での映像受信に成功。出力します。1280×700、24fps。ロード完了。Gate001モニター及びR58階管制室中央画面2番右上に映します。」
(頼む、ハルカ―――。)
 画面には動かずして飛び交う白金の光線をかわすラウム零の姿が映し出された。
 白銀の騎士CLEARONは、敵機を完全に破壊し終わった後も肩から光を放ち続け、あるものは雲を切り裂き、あるものは落雷の如く海に落ち、水しぶきを上げさせる。
 そんな暴れる獅子を止めるのは―――。
(頼む、お願いだ。ハルカ―――。)
 アイーシャは心の中で祈ることしか出来ない自分の無力さを、また知ってしまった。

   *  
 
「ぅるあああああああぁぁぁぁぁぁぁ――――――。」
 普段のハルカからは考えられない雄叫びを上げつつ、高速にCLEARONが放つ攻撃を避け、ラウム零はCLEARONに接近する。
 空を翔ける鷹と空を牛耳る鷲のように、二つの違う『空を飛ぶ人』が争い合う。
「ハルカ?」
 CLEARONの動きを止められず、コックピットでただただ黙っていることしか出来ない安藤が、目に見えないようなスピードで迫ってくるラウム零の姿を捉えた。
「や、やめろ、クレア。ハルカにあたったらどうするんだよ。なぁ、頼むよ。やめろよ、やめてくれよ―――!」
 それでも白銀の騎士は、迫り来る黒色の使途に攻撃することをやめなかった。安藤がやめたいとCLEARONに逆らっても、CLEARONが攻撃を止めることはしない。
「ツカサあぁぁぁ―――!」
 ハルカは約束を果たすため。安藤を守るという約束を守るために、恐怖を打ち負かして突き進む。
 ラウム零もそれに答えたのか、さっきとは全く違う動きを見せる。さっきよりもキレのいい舞を見せ、速度も抜群に伸びる。
 そうやって経った1秒。
「あっ?」
 CLEARONのライトニングギガブリザードが、ラウム零を捕らえた。その距離わずか20メートル。
 空を切り裂き一つの光線がラウム零の正面に直撃する。安藤は焦った。ハルカは無事なのか不安になる。
「はぅっ!くあっ、うっぅぅ。」
 エネルギーシールドを張り、攻撃を防ぐ。だが、シールドは一撃で焼け爛れていく。何度と攻撃を喰らおうとも傷一つつかないはずのシールドが、たった一回の攻撃で焼き尽くされてしまう。
 そして、また白銀の騎士に対する、ありえないくらいの恐怖が湧く。
 ただ、今はそれに怖気づいてる暇はない。
 ラウム零もカービンにて対抗。CLEARONの胴体を捕らえるものの、エネルギーシールドに防がれてしまう。
 攻撃だけでない。防御も鉄壁。勝てる相手じゃない。逃げたい。ハルカの心にそんな感情が湧き出す。
 でも、違う―――。
「ツカサあああああ――――――!!!!」
 ただ守りたいものの名を叫んで、約束を守るために前に突き進んだ。
 1.9秒―――。
 ラウム零がCLEARONとの一騎打ちの場まで詰め寄った。ここまでよれば、レールガンの攻撃は受けない。
「ぅうああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――!」
 ハルカは今まで叫んだ何よりも大きな声で叫んだ。それは5メートル離れた安藤に空を通じても聞こえてしまうほど大きな声。
 ラウム零は、黒色のライトブリンガーを取り出し、CLEARONを守るエネルギーシールドを切り裂き、振り上げた剣を上段から振り落とす。
「うわっ!」
 安藤は何もしていない。何もしていないはずなのに、手が勝手に動いた。さっきまでびくともしなかったはずの操縦桿が動いた。
 前を見ると、振り落とされた剣を防ぐ剣が目の前にあった。
 今の一瞬で安藤は無意識の内に、CLEARONのライトブリンガーを取り出し、構え、ラウム零の高速攻撃を防いだ。
「ハルカ!なんなんだよ、どうして俺に攻撃なんてするんだよ?」
 安藤の小さい声が、ハルカに響くことはない。ただ、ハルカは安藤の気持ちがライトブリンガー同士が触れ合ったときに直感した。
 そしたら、涙が溢れそうになる。手前が滲んできて―――。
「あなたを守りたい。」
「避けて!ハルカぁぁぁぁぁ!!!」
 安藤が叫んだのはその後だった。上段からの振り落としを防がれた衝撃で、後ろに仰け反る形となり無防備となったハルカのラウム零に、CLEARONがライトニングギガブリザードだけではなく、胸部から荷電粒子砲までもを放とうとしている。
三箇所からの一挙攻撃―――。避けなければ塵となる。今から上に避けたところで、両肩部からのライトニングギガブリザードに正面衝突し木端微塵となる。下に逃げればライトブリンガーを振り落とされ機体が真っ二つになるかもしれない。エネルギーシールドも修復し使えるような状態ではない。
考えている余裕はない。
「やめてくれ、クレアぁぁぁ―――!!!」
 安藤の叫び虚しく、CLEARONから三つの光線が放たれる。白金色の光が二方向に散り、橙色の炎を上げた荷電粒子砲が真っ直ぐに迸る。
 ラウム零の速さを持っても、避けられるものじゃない。
「ぅっ―――。」
ハルカは迫り来る本当の恐怖に目を閉じた。目を閉じても視界が暗くなることはない。ただただ凶器たる光に照らされた。
「ツカサああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――。」
 終わった―――。
 一瞬誰もがそう思った。遠くから状況を見ていた焔懺も、焔懺と同じ視界を、モニターを通して見ていたアイーシャも。シャングリラにいる人全員が、CLEARONの狂気にひれ伏すところだった。
 ところが光線はハルカのラウム零の目の前で、いろいろな方向に散ることとなった。
「ぁ・・・くぁ・・・ぁ―――。」
 安藤も状況が理解できなかった。90度傾き、横向きになった状態で自分が徐々に下へ落ちていく。
 妙な感覚だった。
 シャングリラの上から落とされたときとはワケが違う。
 一体何―――?
 安藤の前のCLEARONの視界を表すモニターには、“もう一人の黒き使途” が映し出されていた。
「つ、ツバメ―――。」
 その正体はアヴゾ・ド・ウーバ。白銀のCLEARONとは違う、黒銀の騎士。騎士というのも変な感じがする。
 だから人はそのメルキルフレームを黒竜と名づけた。
 その黒竜が、白銀の騎士を捕らえ、下へ下へと落ちていく。CLEARONは、その竜に何も抵抗できず、1000メートル下の地上へと落ちていく。
 安藤がまじまじとCLEARONを通して天空を見たのは初めてだった。雲を切り裂いた後がぽつぽつと見られる。
 安藤は目を閉じた。
 傾きはせいぜい15度程度だろう。ゆっくりと落ちていくのがわかる。だが安藤にはずっと下まで果てなく落ちるような感覚がした。直角にずっと落ちていく。不思議と気持ち悪くはない。
 やがて二つの機体は互いを押さえつけあったまま、地上へ向かっていき、広々とした浅瀬・砂浜に落下した。
「伊庭君、何があった?返事をしてくれ!」
 落ちていく1分近くの間、焔懺もハルカも何も動けなかった。焔懺は何度も呼びかけるアイーシャの声にすら気づかない。
 呆気に取られていた。
 ハルカと安藤がぶつかり合ったわずか7秒の戦いよりも、1分近くに及ぶゆっくりと墜ちていく二つの機体を見ているほうが、時間は短く感じられた。
「伊庭君?伊庭君!」
「はっ、はい!」
 焔懺がアイーシャの必死の呼びかけに気づいたのは、二つの機体がとっくに墜ちきったあとだった。
 それまでの間、10回以上にも及んだアイーシャの呼びかけには、全く気づかなかった。
「どうしたんだい?」
「ツバメさんが―――。」
「ツバメ?ツバメがどうかしたのか?」
 アイーシャも、映像が全く見当違いな場所を映しているせいか、状況が全く理解できなかった。
「映像を送ってくれ!それから状況を詳しく説明してくれないか。私にはハルカ君のゼロにCLEARONの攻撃がぶつかりそうになったってところでそれ以降のことがわからないのだから。」
 どうやら焔懺もハルカが攻撃を喰らいそうになった際、目を逸らしてしまった様だ。焔懺がその事に気づいたのは、全てが終わった後だった。
「見えますか?」
「あぁ、ここは・・・、九十九里浜かね?」
「はい。そうです・・・。ほ、報告します。アヴゾ・ド・ウーバおよびシンパサイザーツバメ中将により、く、CLEARONの暴走はとっ、と、止まりま、した。えっと、二機はCHO-SHI港沖、九十九里浜に墜落。まだ、じょ、状況はつかっ、掴めていませんが、俺、あ、私が見る限りアヴゾ・ド・ウーバは大きな損傷を負ったものと見られます。」
 焔懺は焦ってまともな報告が出来ない状況にまで陥っていた。
 普段の彼なら絶対にしないようなミスに、アイーシャも不安になった。状況がつかめないだけに、不安は一層増した。
 その頃ハルカはその景色を空高くから眺め、自分の無力さに失望した。ものすごく泣きたい気分になった。それなのに、先ほどでかかった涙は、涙腺の奥にひっこんでしまった。
「ツカサ―――。ツバメ―――。はぁ・・・。」
 絶望にも変貌を遂げそうなため息を吐く。排気ガスよりも泥臭いとても嫌なため息。
 泣けてくる。でも、神はハルカに泣くことを許さなかった。
 頭を抱えて蹲る。ラウム零は、外観からハルカのことを察せられないように、平然といつもと全く変わらぬ表情で立ち尽くす。ロボットが表情を変えるというのもおかしな話だが、今のハルカにとって、ラウム零はありがたい存在だった。
 そして安藤。
 それとツバメ。
 初めて見るツバメの機体アヴゾ・ド・ウーバに、ひれ伏す形となり砂浜に叩きつけられた安藤、そしてCLEARON。
 殺されかけたハルカを庇い、エネルギーシールドを張り機体ごとCLEARONに飛び込み、ハルカを救い、CLEARONの暴走を止めたアヴゾ・ド・ウーバ。
 白銀の騎士は仰向けに倒れこみ天を仰ぎ、黒銀の竜はありえない傷を負い、騎士の上に倒れた。
 ツバメは重症だった。
 エネルギーシールドを張っていたとはいえ、まともにCLEARONの荷電粒子砲を喰らったら、軽い傷じゃ済まされない。
 現にアヴゾ・ド・ウーバは、中心を除いて、ほぼ全ての場所に焼け焦げた痕を残し、武器構造などのシステムが破壊さていた。
 ツバメも攻撃を喰らった衝撃と、落下時の衝撃で脳震盪を起こし、意識を失っていた。それでもハルカを守った。
 安藤も意識が遠のいていく。落ちた衝撃で、モニターには何も映らなくなり、綺麗な空も見えなくなった。ようやくCLEARONが止まってくれたという安心感からか、その反動で異常な眠気に襲われた。
「ハルカ―――。」
 最後にその名前を呟いて安藤は意識を失った。
 安藤は覚えてなかったが、無意識に涙がこぼれていた。
 こうしてCLEARONの最初の戦闘が幕を閉じた。
 最後に残されたのは、状況がつかめずに焦る焔懺と、理由のわからない失望に呑まれるハルカ。
 CLEARONが退けた雲から照らしてくる太陽の光が、鬱陶しくてしょうがなかった。
「ツカサ。ごめんね―――。ごめんね、ツカサ・・。」
 泣きたくて、泣きたくてしょうがなかった。だが、いくら自分を絶望に追い込んでも、ハルカが涙を流すことはなかった。
 どうやら彼らの物語はこんなところで終わってはいけないようだ。

   *

「大日本帝國攻略奇襲計画にてシャングリラに向かった我が軍の無人戦闘機nEUROn全50機は、BWFZOの謎の新型メルキルフレームによって殲滅されました。以上で報告を終わります。」
 グラスホッパーの一人が、シグマに報告を告げた。
「ようやく会えた。安藤司君。そしてCLEARON。やっと君が拝める日が来たってことか―――。」
パソコンの画面に向かい、CLEARONの勇士を見るシグマ。
衛星をハッキングして映像を盗み、白き騎士の様子を確かめた。
「始まった。ようやく、始まった―――。ねぇ、瑛。彼で・・・、彼でいいんだよね。私は君のためならいつだって―――。ふふっ。」
 薄ら笑いを浮かべて、白銀の騎士に見とれる。
「彼は強くなる。アイーシャ、とんでもない味方を、君は手に入れてしまったね。私をがっかりさせないでくれよ。彼はこんなんじゃない。彼は私が―――、瑛が選んだ、世界が選んだ 初恋 ひと なんだ。終わらせでもしたら、私が許さない。CLEARONは私が倒す。そして瑛と彼の世界を―――。」
 シグマは一人、独りの部屋で笑う。
 瑛と同じ。
 今は、独りぼっち―――。

「ツカサ。君はあるがままでいいんだ―――。ふふっ・・・。」
 シグマの薄ら笑いだけが、部屋に響いた。
 鈍く。哀しげに―――。

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