虹の玉



「ねぇ。ゆう君は私が見えなくなっても私を愛してくれる?」
 夕暮れの河川敷。
 散歩に行こうといった彼女は、太陽のオレンジ色の光をキラキラと跳ね返す川面を見ながら呟いた。
「何言ってんだ?―――当たり前じゃん。僕は君が大好きだ。何があっても君を愛するさ。絶対。」
 付き合って7年。
 就職も済み、生活も安定し、縛られるものもなく、悩みも無く、ただ続く日常を愛し合ってきた二人。
 少し天然の入った彼女。
 おどけないところが、高校のときと何一つ変わっていない。それが「悠馬」の愛してきた彼女だ。
「へへっ、嬉しいな。・・・ありがと、ね。ゆう君。」
 悠馬の視界ににこにこと笑う彼女が映る。
 その表情がまた、可愛らしく悠馬は逆に自分が恥ずかしくなる。茜色の空からの光が川で反射する。その鮮やかな光を顔に受ける彼女が、とても朗らかで優しくて。
 その横顔を見つめるたびに、ずっと彼女に対する思いが一途な自分が、変に痒くてしかたなかった。
「ま、まぁ、な・・・。べ、別に嘘じゃねぇし。」
 恥ずかしい。
 当たり前のことだ。正直な思いを伝えるのは恥ずかしい。ましてや好きな相手、例えそれがずっと思いを育んできた彼女だとしても、なかなか真っ直ぐにはいえないものだ。
「ねぇ、ゆう君。」
 彼女は悠馬のことを呼ぶと、肩傍に寄り添った。腕を組み合うと、軽く体重を悠馬のほうにかけた。
 そよぐ風に乗せて彼女の髪の匂いが香り漂う。
 わずかな緊張。ずっと一緒に居ても毎回のように緊張する感覚。まだ高校のときと何一つ変わっていない感情。
「なに?」
 彼女にそう問いかけると、太陽の光を放つ、絶えることのない流れを作る川面を見ながら彼女は問いかけ返した。
「虹の玉って知ってる?」
 悠馬の鼓膜に初めて響く言葉。天然で華奢で言動に予測がつかない彼女。悠馬にはそんな彼女の普段にも慣れていたが、いつものおどけたような顔でなく、今日の彼女の顔はどこかノスタルジックでシリアスな表情を浮かばせていた。
「プリズムのことか?でもあれは、なんつーか、三角形みたいなやつじゃなかったか?説明しようとすると長くなるけどさ・・・。」
 悠馬は彼女のいいたいことがわからなかった。
 虹の玉、といわれても、悠馬の脳内には物質的なものしか浮かんでこなかった。
「ううん。そういうんじゃなくて・・・、なんて言うのかな。私はそういう物理っぽいこと苦手だからさ。ほら、高校の時も全然理解できなくてさ。私、補習に引っかかってばかりだったじゃない?ゆう君は頭よかったし、選択も物理取っていたからそういう屈折とか分散とかスペクトルとかよくわかるでしょ。」
 懐かしい記憶だった。
 彼女とであったときからの記憶が残っている高校時代の生活。それが美しい記憶として少しずつ蘇ってきた。
「ずいぶん懐かしいことだな。まぁ、でも、一応は覚えてるよ。やっていて楽しかったし。色彩が光によって変わるってとこが好きだったなぁ。ってか、お前も取ってたろ、物理学。少しは覚えてる、だろ?」
「いやいや・・・、私は理系に疎くて疎くて・・・。」
 おどけて笑う彼女。
 文系の彼女にとって、理系に力を入れていた悠馬らの高校の選択教科、特に物理学は相当苦痛なものだったと思う。
 それは悠馬にとって、いつ聞いても忘れてしまうほど理解できないようで悩める疑問であったが、話すたびに思い出す。
「じゃぁ何であんな面倒な授業取ってたのさ。」
「そりゃぁさ・・・。わからないの―――?」
 それは楽しい記憶だ。二人の今になってみれば笑いあえる最高の記憶。
「わかんないわけ、ねぇじゃん・・・。じゃなきゃもう一教科の選択教科、音楽なんて絶対に取らねぇ・・・。」
 恥ずかしい空気―――。
 ずっとこんな時間が続けばいいのにと、彼女から伝わる体温を感じながら悠馬はそんなことを思った。
「懐かしいね。もうゆう君と出会ってからそんなに経つっけ。びっくりしたな。あの時は。地味だった私を好きだって言ってくれるなんてびっくりした。それが私の大好きだったゆう君だったことを知ったときには心臓が止まりそうになった。」
 彼女が悠馬の顔を見つめあげた。その顔があまりに可愛すぎて悠馬は視線を彼女から逸らした。
 川面のほうを見て、ドキドキと騒ぐ心拍を感じられないように必死で隠す。
「恥ずかしい事いうなよ。そ、そんなことより本題は?虹の玉ってなんなんだ?」
 無理やりにこのなんともいえない空気から抜け出そうとした。
 ただ、この行動が運命を変えてしまったのかもしれない。彼女が少し憂いた表情を浮かべ、どこか不安そうな、それでも明るく朗らかな声で悠馬に聞いた。
「あ、そだね。すっかり忘れてたよ。そうだ。ゆう君に伝えなきゃいけないんだ。虹の玉っていうのはね、上手く説明できるものじゃないんだけど、君の中にあるモノ。私と君を繋いでくれるモノ。なんだ。」
 “君”、という呼び方からして、どこか変な気がした。普通ならゆう君と彼女は呼ぶはずなのに、それを伝える彼女がどこか彼女じゃないような気がした。
「そんなの、いろいろあるだろ。心とか、気持ちとか。」
「ううん。そういうのじゃないの。そんな非科学的なものじゃなくて、ゆう君の中に私を映してくれるもの。それが虹の玉なんだ。」
 彼女はもう一度、悠馬の顔を見上げ、見つめた。
 きらきらとした目。可愛い目―――。
 その顔を見つめていると、音も風も何も伝わらなくなる。ひたすらにこのたまらなく恥ずかしい時間に緊張させられる。
「それは本来誰もが持ってる。」
 しばらくすると、彼女は悠馬に向かってそう呟いた。
「というと?」
「失う人もいる。ゆう君はたとえ虹の玉を失くしたとしても、ずっと私を見つめていてくれるのかな?私すごく怖いんだ。ゆう君が大好きだから。」
 返した質問に帰ってきた答えは、不安以外の何物でもなかった。きっと彼女のことだ。なにか外部からの影響があったのだろうか。野球の試合を見ると、変にキャッチボールをしたがる彼女の性格からきっと今回の奇怪な言動も、何かの影響があったからなんじゃないか、と悠馬は真剣に見つめる彼女に一つ冗談を言ってみた。
「何言ってんだ?変な小説でも読んだか?」
 本当は冗談なんかいう必要などなかったのかもしれない。
 今日の彼女は、絶対にいつもと違う。解かり切っていることなのに、そのことが変に日常を壊しているようで嫌だった。
「ううん。なんとなく。ちょっと話しておきたかったんだ。私はずっとゆう君を好きでいるからさ。」
 彼女はそういうと、悠馬から視線を逸らし、川の方向を見つめた。
「どうしても伝えたかったんだ。虹の玉の存在を・・・。」
 鮮やかな茜に照らされた彼女の頬。彼女がそういった後、悠馬ができることは彼女を抱きしめてあげることだけだった。
「僕はずっと君を好きでいる。」
 恥ずかしいけど、毎日言う言葉。
 暑苦しいかもしれないけど、大切にしたい時間だった。
 長い残暑。額には汗が噴き出してくる。心臓の音も絶えない。余計に緊張する彼女との毎日の会話。そして行動が読めない彼女の言動。そしてずっと好きだと確かめたい自分。迷い無く二人の心は―――。
「・・・ありがと。信じてる。」
 そう彼女が返答すると、彼女は悠馬を掴んでいた腕を解き、悠馬の正面に立ち、目をそっと瞑った。
 そっと悠馬は彼女に顔を近づける。
 唇と唇が触れ合う。悠馬は彼女の後頭部を手でぐっと自分に近づけて、いつもよりちょっとつよいキスをした。
「今日のキス、ちょっと強いね。にはは・・・。」
 照れる彼女。ずっと思ってきた、大切な人。
 夕暮れの河川敷でのキス―――。
「可愛すぎるお前が悪い。」
 キスをし終えて、悠馬のことをじっと見つめる彼女が、たまらなく可愛かった。その顔をいつまでも見ていたい。
 好きだから。

   *

 あのときの記憶がかなり薄ら薄らになっていたある日のことだった。昨日まではずっと同じように続く日常を過ごしていた。
 仕事も、趣味も、彼女を愛することも、毎日していることを続けていた。
 でも今日の景色がいつもと違う。
 朝目覚めると、そこにいつもの世界は無かった。ひたすらに続く真っ白な世界。その奥に真っ黒な形のものがあったり、白・黒・白・黒、と点滅するものがあったり、黒い線が一定のペースで動いていたり。
 悠馬の瞳に映る世界は明らかに毎日の世界とは違っていた。
 悠馬は、自分の眼球に手を当ててみた。そこには自分の手のひらが映る代わりに、どす黒い影が映された。
「なんだよ、これ?」
 目の前に映る光景が全く理解できなかった。ふと辺りを見回すが、そこに知っている景色は何一つとしてなかった。
 遠くから彼女の声が聞こえる。自分を呼んでいる彼女の声がどこからか聞こえてくる。
「ゆう君、どうしたの?」
 黒い影が近づいてくる。
 なんだ、あいつは?
「ゆう君?大丈夫?どうしたの?」
 彼女の声が聞こえる。ただ、その声を発している彼女は、悠馬の世界のどこにもいない。大きな影はやがて悠馬の前に立ちはだかった。
「――――――。」
 声にならない声で、必死で彼女の名前を叫んだ。
「ゆう君!」
 自分の頬に手の触れる感覚が伝わる。
「っ!?」
 誰かもわからない手の感覚。その恐ろしい魔物から逃げるように悠馬は見えない布団の中に潜り込んだ。
「ゆう君、ゆう君ってば!」
 怖い。
 真っ黒と真っ白の世界の中でただ自分の彼女の声だけが響く。
 いつもの日常の光景はどこなのかもわからなくなる。
 叫ぶ彼女の声、自分の潜る布団を必死で引っ剥がそうとするやつから身を守るように布団を掴んだ。
 布団の中の光景は変わらなかった。真っ暗。真っ黒。光が入ってこない布団の中は、いつもの自分の目に映る光景に変わりはかない。
 きっとこれは夢だ。目が覚めれば、きっといつもの日常が待っていて。嫌な夢だ。そう思って悠馬は目を閉じた。
「ふんっーーー。ぬゅ〜〜〜!!!」
 が、布団の中から悠馬を引っ張り出そうとする力は止まらなかった。やがて悠馬を守る布団は彼女によってはがされた。
「ゆう君!どうしたの?ねぇ、ゆう君!ゆう君。」
 耳元で彼女の声が聞こえた。
「―――。ねぇ、そこにいる?」
 瞳に映る世界は先ほどと変わっていなかった。白と黒以外存在しない世界だった。でもどこからか彼女の声が聞こえた。
 右上を見上げると、そこに彼女の髪型をした人の影が映っていた。ただ、その影には顔は無い。のっぺらぼうのようにも見える。輪郭も一致しない。でも一瞬にしてそれが彼女であると悠馬は理解した。
「いるよ。どうしたの、ゆう君?」
 手を握られる。
 影に手を握られる。
 それはありえない世界に飛び込んでしまった悠馬を驚かせた。ただその手は紛れも無く彼女のものだ。彼女は小さな両手で、悠馬の右手を握り締める。
「はぁ・・・。」
 力が抜けた。
 ありえないような焦燥感は、彼女のお陰で安堵に変わっていった。しかし、それと同時に耐えがたい哀しみが悠馬に襲いかかった。
「どうしたの、ゆう君?」
 彼女は悠馬の顔を見つめながら不安の表情を浮かべる。でも悠馬には、その表情が見えなかった。
 その表情を目に焼き付けて彼女を心配させまいと気を使うこともできなかった。
 理解できない光景。
 悠馬の瞳に映る世界は、もう変わってしまっていた。
「見えないんだ。見えないんだよ、お前が。」
「えっ?」
「なんにも見えないんだ。」
 彼女はどんな表情を浮かべているのだろうか。悠馬は必死で彼女の顔を覘こうとしたが、結局何も見えなかった。
 貧血を起こして、視界がブラックアウトしているのか、はたまたホワイトアウトしているのか。
 もうなにがなんだかわからない。
 色彩など二色を除いて何一つ無かった。
「真っ暗なの?」
 彼女の声が聞こえる。
 悠馬はその声の聞こえる方向に縋るように話しかけた。
「いや、その、なんていうか・・・。わからないんだ。白かったり黒かったり。その二色しか僕には見えない・・・。」
 涙がこぼれる。
 泣けば景色が変わるわけでもないのに、涙がこぼれる。視界が滲むことも無く、ただ白と黒の二色は目の前に佇んでいる。
「ゆう君?」
 彼女が悠馬を愛称で呼ぶ。
 悠馬は彼女の方向を向く。
「なぁ。僕の目は開いているか?」
 最後の望みだった。
 嘘をついてほしかったわけじゃない。夢であって欲しかったわけじゃない。彼女はこの状況を見てどういう態度を取るかを確かめたかったわけじゃない。
 でも、悠馬は心のどこかで彼女を見れないことに対する恐怖を感じた。
「開いている。私を見てる。」
 彼女は正直に悠馬に伝えた。
「そうか。君が見えない。―――君が見えないんだ。」

   *

 色彩を失った。
 ただ失明とは少し違う。原因不明だ。おそらく生活習慣から来ているのではないかと医師は言ったが、悠馬にはよくわからなかった。
 白と黒がはっきりとしている世界だ。
 少しの暗さや赤や青色は全部黒に。明るいところや黄色や水色は全部白に。空と地面がはっきりと二つの色に分かれている世界が、悠馬の前には広がっていた。
 ただ、その中でも褪せることのない手を繋ぐ感覚が悠馬に伝わる。
「ゆう君。こっち。そこに段差があるから気をつけてね。」
「ああ、ちょっと待ってくれ。」
「あ、うん。ごめんね。もう少しゆっくり行くよ。」
「すまない。」
 普段歩く道も何もかもが違う景色になってから一週間が経つ。休暇は取っているものの、いつクビになるかわからない仕事のことが多少気にかかっていた。
 もう直らない病気、なのか。
 失明ともいえない症状。結局のところ何の原因も特定できないまま、悠馬はこの目と過ごす道を歩みつつあった。
「そろそろ曲がるね。」
「ああ。」
 彼女は悠馬の視界には真っ黒にしか映らない。たまに日が差したと思うと、髪と顔の輪郭がどの辺りにあるか分かる程度。もう悠馬は彼女の何もかもが見えなくなっていた。
「暑いね。もう10月になるっていうのにね。」
「そうだな・・・。」
 ただ悠馬の視界は変われど、そのほかの感覚は毎日と同じだった。長い夏の延長、残暑がまだ続いている感覚。この町のそよぐ風の感覚。アパートの隣に住む家の、うるさい犬の吠える声。
 どれもが日常だと改めて気づかされる。
 そしてそのどれもが悠馬を安心させていた。自分の居る世界が、決して変わっていないことを表しているようで。
 ただ、一つ不安があった。
 それは彼女のことだ。
 目に映る景色が変わってから、彼女は妙に優しい。実際のところそう感じているだけだ。普段からずっと優しくしてくれていた彼女に気づいていなかっただけだったのかもしれない。手を取り、見ることのできない景色を示してくれている。その優しさがここまで嬉く安堵できるものだと知った。
「ここから階段だから。気をつけてね、ゆう君。そこが手すり、ゆっくり登ろう。」
「うん。」
 彼女は悠馬の繋いでいない手を取ると、それをゆっくりと手すりの上に乗せ、せーの、の掛け声とともに、ゆっくりと手を引っ張っていく。
 悠馬はゆっくりと階段を登っていく。
 その間もずっとこの遅すぎるペースに彼女は合わせ続ける。その手が悠馬にとっての唯一の足がかりだ。
「あと2段ね。」
 そういうと、真っ黒の景色が真っ白になった。陰になっているような場所から太陽のあたる場所に出たのだろうか。
 ここまで外に出て来たところまではいいものの、さすがに白と黒だけの景色だけではどこに出てきたのか見当もつかない。
 それでも、階段を上りきった場所は、変な話だが見慣れた場所だった。
「ここ、どこだかわかる?」
 彼女がそう聞いてきた。
 悠馬にはもう慣れ過ごした場所。わからないわけが無かった。暇さえあれば彼女と散歩に出ていたあの河川敷。
「ああ。川の音が聞こえる。」
「わかってくれた。よかった。」
 彼女の安堵の声が漏れる。
 悠馬は彼女から伝わってくるわずかな震えや体温の変化や汗ばみ方まで、全てを感じ取っていた。
「不思議だな。ここに来るまでの景色なんて、全然わからなかったのに、ここは色がついているみたいにわかる。黒と白しか、僕には見えていないのに。」
 感覚。ずっとありふれていた色彩を失って気づいた感覚。
 誰にも説明できない温かさが心臓に流れ込んでくる。不思議な感覚だった。
「よかった。やっぱり忘れないでいてくれた。」
 彼女が悠馬の腕の間に腕を入れて握り締める。
 そうやってしばらく黙ったまま、二人は河川敷の土手の上で立ち尽くしていた。音や風、そして彼女をずっと感じ取っていた。
「なぁ。いつか僕に虹の玉の話しをしなかったか。あれってもしかして目の事か?そうだったらこの状況、なんか笑えないな。」
 悠馬はその沈黙を破った。
 ふと蘇るあのときの記憶。彼女が伝えたかったことがなんとなく頭の先まで出掛かってきていた。
「虹の玉。か。違うよ、ゆう君。それは目のことじゃない。答え的には大正解なんだけど、でも本質が違うよ。」
 間違いには気づいていた。
 でも答えを悠馬は見つけられなかった。
「どういうこと。」
「見つめて、私を。」
 ヒントは彼女だ。
 色彩を失ってまで、望んだことを聞いているのだろうか。悠馬にはどうしてもわからなかった。
 それは目の前の仕方の無い現実が立ちはだかっていたせいかもしれない。
「―――何も見えない。でも、そこにいるのはわかるよ。」
 彼女を手で触れる。
 手で触れても、悠馬の目には、ただ黒い光景が広がっているだけで、彼女の姿も自分の手のひらも映っていなかった。
「ねぇ、ゆう君。知ってる?ここにある全てのものはね、全部私たちがその色を反射しているから、その色が目に映るんだよ。この川も、空も。太陽の色も、たくさんの空気に屈折してあの色を見せているんだよ。私も―――。ゆう君に私の色を見せているから、ここに私がいるんだよ。」
 答えを探す。
 見つからない答えを、悠馬は探した。
「知っている。そんなこと・・・。僕は知っている。僕の得意分野だ。あの時は、勉強も恋も何もかもが楽しかった。それも僕が君に教えたことだ―――。」
 悔しくなった。
 何度も彼女を触った。耳元も、口元も、首も手も髪も。ただ、悠馬が触れることができたのは、信じることのできない現実しかなかった。
「でも今は、その君を見ることができない。大好きな君を、見ることができない。」
 泣きたくなった。
 涙が零れた。
 堪えきれなくなった悠馬は彼女に抱きついた。彼女が痛みを感じるかもしれないくらい、強く、強く抱きしめた。
「落ち着いて。ゆう君。泣かないで、ゆう君。」
 彼女はそっと悠馬の腕から抜けると、悠馬が触れられないところまで下がっていった。もう悠馬には彼女の位置など特定できなかった。
 白い光が差しても、もう暮れるであろう陽は決して白い景色を映そうとはしなかった。真っ暗の中で、彼女の声が聞こえてきた。
「ゆう君。あなたに謝ることがあるの。ゆう君が私を求めてくれる要素が欲しかったの。ものすごいわがままだけど。―――どうしても気づいて欲しかった。でも、やっぱり返す。あなたから虹の玉を奪った報いは受けるわ。」
 彼女がまた触れる。
 悠馬の首元にそっと両手を触れた彼女が近づいてくる感覚が悠馬に伝わった。
「待ってくれ―――。」
「えっ?」
 悠馬は咄嗟に彼女を拒んだ。
 彼女を拒んだんじゃない。上手くいえない感覚が悠馬にはあった。でも、まだ分かっていない。
 正解はまだ出ていない。
「どういうわけかは知らないけど・・・。ごめん。」
 でも、どうしてか言わなきゃいけないことがある。このままこの事を解決してしまうのはまだ早いような。
 そんな気がした。
「どうして謝るの?」
 彼女の声―――。
 悠馬は彼女の肩を握り締めるとそっと自分から遠ざけた。
 見えない彼女を見つめ、真剣な表情で彼女に伝えた。
「君がどうやって虹の玉の存在を知ったのかは知らない。でも、わかった気がする。もう僕は君を見つめられなくてもいい。見えなくても、ずっと君を見ていられる気がする。不思議だ。たったこれだけの時間だったのに。」
 答えが出かかる。
 見えてくる。
「で、でも・・・。何もこんなことまでしなくても良かった。ずっと秘密にしていた私って酷いよね。だめだよね。」
「そんなことない。むしろ、僕は君に感謝しなきゃいけない。だめだったんだ。大好きだって気持ちだけで、君を愛することを忘れていた気がする。でも、これしか言えない。下手な気持ちだけど、正直に言わせて欲しい。」
 答えはもう出ていた。下らなくて簡単で当たり前で単純な答えだった。笑えてくるはずなのに、笑わずに真剣な目を彼女に向けた。
 彼女を抱きしめる。
 絶対に離さない。それくらい彼女を強く抱きしめた。先ほどみたいに抜けられないように肩と腕を組ませた。
 心臓の音と音が伝わりあう。
 答えはもう、悠馬の口の中に潜んでいた。
「言って。周りには誰もいないわ。囁くだけでもいい。」
 彼女もそういうと、悠馬の背中に手を当て、抱きしめあった。
「いや、大丈夫。ちゃんと言う。何度だって言う―――。」
 涙が溢れて止まらなくなっていた。
「言って・・・。ゆう君っ・・・。」
 感情を堪えきれなくなっていたのは彼女も同じだった。二人はひたすらに愛することを噛み締めていた。
「ありがとう。愛してる、秋子。」
「・・・やっと私を見つめてくれたね。ゆう君。」
 ふと抱擁が解けたかと思うと、悠馬の唇に生暖かいものが触れる。それは紛れも無い秋子の口付け―――。
「ゆう君。半分だけだけど、あなたに虹を返すわ。私もあなたを見つめていたいから。ごめんなさい―――。それと、ありがとう。私もゆう君が大好き。愛してる・・・。」
 そうして二人は両目を閉じて、互いの温度と鼓動を感じあう。
 しばらくして目を開けると、そこには白黒と鮮やかな色彩で満たされた恋人という世界が映されていた。
 悠馬は右目に映る世界を、秋子は左目に映る世界を、共に受け入れ、抱きしめた。
「えへへ。見えなくなっちゃった。私、ゆう君と同じだ。」
 胸元で秋子が囁いた。僕だけの愛する人が、泣いていた。
 そして僕も泣いていた。秋子の涙をそっと手で拭った。
「ありがとう―――。」
 久々に僕の瞳に映った美しい世界は、愛することと引き換えに与えられたモノクロームが映されていた。
「大好きだよ。ゆう君。」
「ああ。僕もだ。愛している。秋子。」
 そうしてもう一度、僕らはキスをした。
 何億という色彩を取り戻した、虹の世界で―――。

Fin.





トップに戻る